谷川俊太郎『こころ』(54)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)
「腑に落ちる」は変な詩である。何が変化というと「論理」的ではない。--というのは、言い方がよくないが。論理を超えるのが詩なのだから、詩が論理的手あるはずはないのだが。でも、谷川の詩は論理を踏まえながら、論理を超える、論理を突き破るところにひとを驚かす要素があって、あ、そうなのか、そういうふうにことばになるのか、という驚きがあって、それが特徴となっている。
「腑に落ちる」には、その論理を突き破る論理、という特徴から少しずれている。そのために、何か奇妙な感じになる。でも、その奇妙な感じが、いいなあとも思うのだが。
1連目は「腑に落ちる」ということばをつかって、「腑」って、どこ?と問いかける。「下腹あたり」を指さしながら、質問されたひとは「どこかこのあたり」と答えている。それに対する2連目。
「言葉」を受け止めるのは「頭」か「心」かのどちらかであるという前提で、谷川は「腑に落ちた」のは「言葉」ではない、と主張している。そして、それでは「腑に落ちる」というとき、何が腑に落ちるのか、というようなことをさらに問いかけるのだけれど、
うーん、
禅問答みたいでわからない。
谷川の「論理」は「禅問答」とは遠い世界だと思っていたが、ここでは「論理」が何かを超越している感じ。
で、「わからない」と言ったひとは、「涼しい顔」。
この「超越」の仕方が、かなり変わっている。
いつか、ここに書かれていることが、ぱっとわかるときが来るかもしれないけれど、どうにも「論理」がつかみきれない。どんな具合に「論理」を破って、そこに詩が出現するのか、その「構造」のようなものが見えない。
だからこそ、この詩が気にかかる、気にかかって、それがいい感じなのである。「肉体」を刺戟してくる感じが妙なのである。
「腑に落ちる」の「腑」が肉体だから?
かもしれない。
「腑」と「涼しい顔」が向き合っている。「腑」と「顔」が向き合って、その向き合った部分に、顔は「涼しい」という感覚をねじ込む。そこがおもしろい。でも、そのことをこれ以上は書けない。どう書いていいかわからない。
というよりも、というか……。
書きながら、私には気になって仕方のないことがひとつある。
最後から2行目--これが、私の「記憶」と違っている。私は記憶力はよくないし、詩を暗唱するということもないのだが、引用しながら、あれっ、
じゃなかったのか。そう思ったのだ。
この詩が朝日新聞に載ったとき、その感想を書いたはずだから、そのときの引用と比較してみればわかることかもしれないが。
どうして、そう思ったのかなあ。
「……せいか」だと、順接というのだろうか、論理がまっすぐに進んでいく。「……くせに」だと逆接になる。あることがらが「反対」の方向に向かうとき、「……くせに」になる。
たぶん私は、谷川の詩は「論理を否定する論理」の形として生まれると思い込んでいて、そのために「……せいか」という「逆接」の運動を無意識のうちに持ち込んでいたのである。
で、そのことを考えると。
そうか、この詩を変だなあとどこかで感じたのは、この詩が逆接による論理の破壊ではないからだな、ということがわかる。
順接によって、論理を超越していくのだ。破壊ではなく、論理を土台にして、別の次元へ飛んでしまう。それこそ、泣いていたのに、泣いていたことなどなかったかのように、涼しい顔をしている。そんなこと、あったっけ、という顔をしている。
逆接による論理の破壊(論理の否定)よりも、順接による論理の超越(無意味への飛躍)の方が、なにか「絶対的」なものを感じさせるね。強いね。
その「強さ」を私は受け止められなくて、変だなあ、と感じたのだろう。
*
私の、この谷川俊太郎「心」再読の感想は、論理をととのえないことを自分に課しながら書いている。読み返さない。書き直さない。思いつくまま、という「ライブ」の感覚。とはいえ、今回の感想は、あまりにも飛躍が多いかな。支離滅裂かな?
でも、ふらふらしながら「順接による論理の超越=詩」というところへ、突然、たどりつけたのはなんとなく気持ちがいい。
多くの抒情詩は「逆接の抒情詩」(敗北の抒情詩)である。どういうことかというと、ほんとうはこれこれのことがしたいという青春の夢があるが、それは実現することなく破れた、そして精神が哀しみを発見した、という感じ。青春が敗北するということが、「逆接」なのだ。
谷川の、この詩の「抒情」というか「感情」の動きは、夢が破れた(?)けれど、そんなことは気にしない。「敗北」に美なんか探し出さない。「負けちゃった、泣いちゃった」と、さっさと切り上げて、別なことをしはじめる。
なんといえばいいのかなあ。(と書きながら、私は考えるのである。時間かせぎだね。)
それはきっと、「無意味の抒情詩」なのである。
多くの抒情詩が「逆接の抒情詩」「敗北の抒情詩」であるのに対し、たの「腑に落ちる」は「超越/無意味の抒情詩」である。「超越」が「無意味」であるのは、「超越」したとき、それまでの「意味」が「意味」でなくなるからだ。(と、論理を偽装しておく。)
この「無意味の抒情詩」が「腑」という「肉体」を露骨に表現することばといっしょに動いているところが、とてもおもしろい。
「腑に落ちる」は変な詩である。何が変化というと「論理」的ではない。--というのは、言い方がよくないが。論理を超えるのが詩なのだから、詩が論理的手あるはずはないのだが。でも、谷川の詩は論理を踏まえながら、論理を超える、論理を突き破るところにひとを驚かす要素があって、あ、そうなのか、そういうふうにことばになるのか、という驚きがあって、それが特徴となっている。
「腑に落ちる」には、その論理を突き破る論理、という特徴から少しずれている。そのために、何か奇妙な感じになる。でも、その奇妙な感じが、いいなあとも思うのだが。
1連目は「腑に落ちる」ということばをつかって、「腑」って、どこ?と問いかける。「下腹あたり」を指さしながら、質問されたひとは「どこかこのあたり」と答えている。それに対する2連目。
そこには頭も心もないから
落ちてきたのは言葉じゃない
それじゃいったい何なんだ
分かりませんと当人は
さっき泣きじゃくったせいか
つき物が落ちたみたいに涼しい顔
「言葉」を受け止めるのは「頭」か「心」かのどちらかであるという前提で、谷川は「腑に落ちた」のは「言葉」ではない、と主張している。そして、それでは「腑に落ちる」というとき、何が腑に落ちるのか、というようなことをさらに問いかけるのだけれど、
うーん、
禅問答みたいでわからない。
谷川の「論理」は「禅問答」とは遠い世界だと思っていたが、ここでは「論理」が何かを超越している感じ。
で、「わからない」と言ったひとは、「涼しい顔」。
この「超越」の仕方が、かなり変わっている。
いつか、ここに書かれていることが、ぱっとわかるときが来るかもしれないけれど、どうにも「論理」がつかみきれない。どんな具合に「論理」を破って、そこに詩が出現するのか、その「構造」のようなものが見えない。
だからこそ、この詩が気にかかる、気にかかって、それがいい感じなのである。「肉体」を刺戟してくる感じが妙なのである。
「腑に落ちる」の「腑」が肉体だから?
かもしれない。
「腑」と「涼しい顔」が向き合っている。「腑」と「顔」が向き合って、その向き合った部分に、顔は「涼しい」という感覚をねじ込む。そこがおもしろい。でも、そのことをこれ以上は書けない。どう書いていいかわからない。
というよりも、というか……。
書きながら、私には気になって仕方のないことがひとつある。
最後から2行目--これが、私の「記憶」と違っている。私は記憶力はよくないし、詩を暗唱するということもないのだが、引用しながら、あれっ、
さっき泣きじゃくった「くせに」
じゃなかったのか。そう思ったのだ。
この詩が朝日新聞に載ったとき、その感想を書いたはずだから、そのときの引用と比較してみればわかることかもしれないが。
どうして、そう思ったのかなあ。
「……せいか」だと、順接というのだろうか、論理がまっすぐに進んでいく。「……くせに」だと逆接になる。あることがらが「反対」の方向に向かうとき、「……くせに」になる。
たぶん私は、谷川の詩は「論理を否定する論理」の形として生まれると思い込んでいて、そのために「……せいか」という「逆接」の運動を無意識のうちに持ち込んでいたのである。
で、そのことを考えると。
そうか、この詩を変だなあとどこかで感じたのは、この詩が逆接による論理の破壊ではないからだな、ということがわかる。
順接によって、論理を超越していくのだ。破壊ではなく、論理を土台にして、別の次元へ飛んでしまう。それこそ、泣いていたのに、泣いていたことなどなかったかのように、涼しい顔をしている。そんなこと、あったっけ、という顔をしている。
逆接による論理の破壊(論理の否定)よりも、順接による論理の超越(無意味への飛躍)の方が、なにか「絶対的」なものを感じさせるね。強いね。
その「強さ」を私は受け止められなくて、変だなあ、と感じたのだろう。
*
私の、この谷川俊太郎「心」再読の感想は、論理をととのえないことを自分に課しながら書いている。読み返さない。書き直さない。思いつくまま、という「ライブ」の感覚。とはいえ、今回の感想は、あまりにも飛躍が多いかな。支離滅裂かな?
でも、ふらふらしながら「順接による論理の超越=詩」というところへ、突然、たどりつけたのはなんとなく気持ちがいい。
多くの抒情詩は「逆接の抒情詩」(敗北の抒情詩)である。どういうことかというと、ほんとうはこれこれのことがしたいという青春の夢があるが、それは実現することなく破れた、そして精神が哀しみを発見した、という感じ。青春が敗北するということが、「逆接」なのだ。
谷川の、この詩の「抒情」というか「感情」の動きは、夢が破れた(?)けれど、そんなことは気にしない。「敗北」に美なんか探し出さない。「負けちゃった、泣いちゃった」と、さっさと切り上げて、別なことをしはじめる。
なんといえばいいのかなあ。(と書きながら、私は考えるのである。時間かせぎだね。)
それはきっと、「無意味の抒情詩」なのである。
多くの抒情詩が「逆接の抒情詩」「敗北の抒情詩」であるのに対し、たの「腑に落ちる」は「超越/無意味の抒情詩」である。「超越」が「無意味」であるのは、「超越」したとき、それまでの「意味」が「意味」でなくなるからだ。(と、論理を偽装しておく。)
この「無意味の抒情詩」が「腑」という「肉体」を露骨に表現することばといっしょに動いているところが、とてもおもしろい。
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