『旅人かへらず』のつづき。
一三
梨の花が散る時分
松の枝を分けながら
山寺の坊主のところへ遊びに行く
都に住める女のもとに行つて留守
寺男から甘酒をもらつて飲んだ
淋しきものは我身なりけり
1行目の「時分」という音が私は好きだ。古びた味がある。「ころ」とか「季節」ではあじわえない音の響きがある。「じぶん」。濁音がそう感じさせるのだと思う。
濁音は濁った音、美しくないという人もいるが、私は、とても美しいと感じる。特に西脇のつかう濁音はとても耳に、いや、喉に気持ちがいい。私は音読しないが、声に出さなくても喉が動く。そのときの喉の不思議な解放感がある。
濁音は2行目に「えだ」「ながら」、3行目に「やまでら」「ぼうず」「あそび」と出で来る。5行目「あまざけ」「のんだ」、6行目「さびしき」(私は「さみしき」ではなく「さびしき」と読んでいる)「わがみ」と出てくるが、4行目だけは出てこない。
そして、その濁音の出てこない4行目で世界が転調する。「起承転結」の「転」のような感じで世界が動く。
これが、私には非常におもしろい。
4行目は「都に住める女のもとに行つて留守だった」とも「都に住める女のもとに行つて留守である」とも書くことができる。しかし、そんなふうに「だった」「である」と書くと濁音が登場することになる。
西脇は、この行では意識的に濁音を避けているのだと思う。そうすることで、「意味」だけではなく、「音楽」そのものとしても転調しているだ。
各行にでてくる「の」の音もとても気持ちがいい。「の」という音は鼻をくすぐる。空気の流れが、鼻をとおる。そのときの快感がある。
日本の詩歌〈第12〉木下杢太郎,日夏耿之介,野口米次郎,西脇順三郎 (1969年)中央公論社このアイテムの詳細を見る |