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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(143 )

2010-09-14 11:11:12 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「失われたとき」のつづき。
 西脇の詩は「絵画的」か「音楽的」か。「音楽」嗜好をナマの形で感じるのは次の部分である。

すぐ着物を着ようとするような
女でなく永遠に着物を脱いで
永遠のために裸をぎせいにする
女を描く人は理知的であると
ある彫刻家がため息で言つたこと
を伊太利語でききたいのだ

 「意味・内容」なら知っている。「意味・内容」ではなく「音」を聞きたい。イタリア語を聞きたい。ここに「音」に対する欲望があらわれている。「音」にたいする欲望は「音楽」に対する欲望であって、「絵画」に対する欲望ではない。
 そして、その「意味・内容」の部分である数行の、行のわたりと、行をわたりながら繰り返される同じことば--繰り返しのリズムもまた「音楽」であり、その「音楽」のなかでことばの「意味」がかわってしまうのもおもしろいと思う。
 「永遠に着物を脱いで」の「永遠」はほんうとの「永遠」ではなく「長い時間」くらいの意味である。モデルになっている間の時間くらいの意味である。次の「永遠のために裸をぎせいにする」の「永遠」はほんとうの「永遠」である。「永遠のために」とは女の裸があらわす美という「永遠」、つまり真実のために、というくらいの意味だろう。モデルは、女の裸がもっている永遠の美を具体化するために、自分自身の裸を犠牲にする(供物としてささげる)ということだろう。「音」は同じでも、「意味・内容」は、ほんとうは揺れている。
 西脇が書いているのは日本語だが、実際に聞いたことばは何語だろう。それをイタリア語で聞きたいと感じている。思っている。そのとき、西脇の肉体のなかに、「永遠」がイタリア語で響いている。伊太利語を知っているかどうかは関係ない。イタリアの空気と、そこに広がる音が光のように満ちている。イタリア語の揺れを夢見ている。
 「ある彫刻家がため息で言つたこと/を伊太利語でききたいのだ」という「を」を冒頭にもってくることによる行の切断と接続のリズムにも「音楽」がある。

 これらの行につづく部分にも「音楽」を感じる。

ローミヨーのように金貨を一枚
おばあさんのことろへなげて
一ふさの葡萄を買うことは
永遠の女を思うからである
ラヴェナの女達はみな
口紅をテカテカにつけている
からポプラの木がその上に
写るのだ

 「ラヴェナの女達」からの4行は、映画で言えばカメラがクローズアップしていく動きに似ている。口紅→その光→くちびるの上のポプラと視線が動いていく。「絵画的」であるとも言える。しかし、それは「意味・内容」に視点を置いたときのことである。
 口紅をテカテカにつけているから、その口紅の光の上に(くちびるに)、ポプラの木が写るのだ--というのが論理的な文構造になるが、西脇は、そんなふうに書かない。そういう「論理構造」を破壊しながら、テカテカの光から、いきなりポプラの木に飛躍し、そのあとくちびるへもどって来る。「写るのだ」という独立した1行で、視線の運動を組み立て、ことばの「論理構造」を揺さぶって見せる。
 この「揺さぶり」というか「乱調」のなかに「音楽」がある。
 それそれの「音」は別々の方向へ向いているような、とんでもない飛躍をかかえながら、最後に一続きのものとして思い出すと、そこに「メロディー」があったのだ、という不思議な発見に似た感じ。
 こういう「音」の動き、「論理構造」を揺さぶって、破壊して、同時に再構築する「音」の動き、それが私はとても好きだ。




西脇順三郎と小千谷―折口信夫への序章
太田 昌孝
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