「現代詩手帖」12月号(23)(思潮社、2022年12月1日発行)
伊藤比呂美「Looking for 鴎外 から」。ベルリンでボダイジュの花を見る詩である。
ボダイジュの花が咲き始めていた。ベルリンに来た当日、ちょっと歩きましょうと友人に誘われて、歩きながら「これがボダイジュ、鴎外も見た、ウインター・デン・リンデンですよ」と教えられた。すぐ忘れて、また目に留めて、また教えられた。やがて見分けるようになった。「ほら、花が咲いている」といわれて上を見た。
「まだ匂いがしない」と友人はいったが、次の日になると「ほら、匂いがしてきた」といった。それでわたしは上を見た。何日か経つと匂いがあたりに充満した。そして花は爛熟した。もともと黄色い花がさらに黄ばんだ。その数日後には木の下が乾いた黄色い花殻で埋まった。
(注、本文の鴎外は旧字体)
この散文のリズムはとてもいい。鴎外が出てくるからいうのではないが、鴎外みたいだ。
「すぐ忘れて、また目に留めて、また教えられた。」には「また」が二回出てくる。これが「すぐ」と次の「やがて」を強烈に結びつける。その強烈な結びつきのなかに「時間」が組み込まれていて、この「時間」が、「まだ匂いがしない」からの段落でドラマチックに展開する。
「「ほら、花が咲いている」といわれて上を見た。/「まだ匂いがしない」と友人はいったが、」の改行(段落の改め)は、本当は少し変なのだが(鴎外なら、たぶん、こういう改行はしない)、これが非常におもしろい。伊藤が鴎外を超えるのは、こういう部分である。ここは「散文の論理」ではなく、「詩の論理」である。
さらにおもしろいのは、「ほら、匂いがしてきた」の「きた」。友人のことばであり、伊藤はどれだけ意識しているかわからないが、この「きた」は形は過去形だが、意味は過去形ではない。(書き出しの「ベルリンに来た当日」の明確な過去形と比較すると、よりわかりやすいと思う。)よく電車やバスを待っているとき、なかなか来ないので少し場その場所を離れるときがある。するとだれかが「電車が来たよ、バスが来たよ」という。これは実際は過去形ではない。まだ、来ていない。これから「来る」のである。さらに言えば早く来ないと乗り遅れるよ、という「未来」を含んだ「来た」なのである。この「きた」に促されて、伊藤のことばは急展開する。「何日か経つ」「その数日後」を合わせて、計何日か。わからないが、あっと言う間に「時間」が過ぎる。それを不自然に感じさせないのは「匂いがしてきた」の「きた」の力である。
この「きた」はこの詩のキーワードである。つまり、無意識に書かれたものだが、それがないと、この詩が成立しない。別なことばで言えば、この「きた」は随所に隠れている。
こんな具合だ。
何日か経つと匂いがあたりに充満し「てきた」。そして花は爛熟し「てきた」。もともと黄色い花がさらに黄ばん「できている(/できた)」。その数日後には木の下が乾いた黄色い花殻で埋まっ「てきた」。
強い実感がある。
散文では、ときどき「過去形」で書いてきた文章が、実感が強くなった瞬間から「現在形」にかわるという文体が存在する。(多くの作家に共通する。)この部分では「黄ばんだ」がそれにあたる。私は「黄ばんできている(/黄ばんできた)」と並列する形でかいたが、「きている」の方がより「正確」だろうと思う。この「きている」は状態をあらわす。「匂いがしてきた」も「匂いがしている(匂いを感じている)」という状態なのである。「バスが来た」も「バスが(すぐ近くまで)来ている」という状態をあらわしているのである。動きをあらわしているのではない。
伊藤が書いている(友人が言った)「きた」は、見かけは過去形であるが実感を、将来の実感を含めて、いまの状態を表現する非常に珍しい例である。(だから、これを「外国語」に翻訳するとき、日本語に合わせて「過去形」で表現すると、意味が通じなくなる。)
この実感を踏まえて、詩は、別のことを書き始める。
こうした、実感を踏まえたあと、ことばが別な形で新しく動き始める文体こそ、すべてを「いま」として出現刺さる文体こそ、鴎外の到達した世界だが、それがさらに鴎外を感じさせる。
どこにも「わざと」がなく、とても自然だ。
稲川方人「自由、われらを謗る樹木たち、鳥たち」。
この詩については、ブログですでに書いた記憶がある。記憶だけで、もしかしたら書いていないかもしれない。つまり、書こうとしたが、書き始めたら書くのがいやになってやめてしまった可能性がある。
伊藤の「鴎外 から」についてなら、まだまだ書き足りない感じがするのだが、稲川の詩は、読んだだけで、書き終わった感じがしてしまう。
あなたの掌を解き、
握られた紙片をふたたび世に戻すと
陽の翳りに、遠く生き急いだ命の数々が
短く在ったみずからの声の幸福を響かせている
四元康祐が「手相」で書いたものが「あなた」に限定されて書かれている。「手相」(掌の皺)の書かず、それを「わざと」隠している。
手を見るのは、石川啄木からはじまったわけではなく、昔からある「生き方」のようなものだろうと思う。それを「わざと」「握られた紙片」と言い換えることにどんな意味があるのかわからない。私はむしろ、捨てられた紙片を広げて、そこに「手相」を見る方が自然な気がする。
私と稲川の「自然」が違うのだといえば、それまでだが。
帷子耀「ウウウウウウウウウウーウ」。(名前は、正確には帷子耀のあとに、ピリオド、がついている。)
この詩についてはブログで書いた。書けば、再び同じことを書くことになるかどうかわからないが、同じになるだろうと思うので、たいがいは省略する。
ウ。母は何か言いたげだった。痰がからんでいるな。声が出なかった。痰の吸引をお願いした。吸引が終わった。静かになった。母は死んだ。
と、静かにはじまる書き出しが、とてもいい。(稲川は「あなた」とあいまいに書いていたが、帷子は「母」と明確に書いている。)「自然」かどうかはわからない。「自然」であろうとしている。だから「わざと」と言えるかもしれないが、「わざと」を感じさせない。「痰の吸引をお願いした。」のことばのなかにある「配慮」のようなものが、ことばの全体を貫いている。「痰の吸引を(医師に/看護師に)頼んだ」と比較すればよくわかる。ことば(動詞)のなかに「対人意識」が強く響いている。これは、現代では、とても珍しいことだと思う。帷子は現代詩の先頭を突っ走った詩人だが、そのときからすでに「古典」だった(すでに完成してしまったという印象があった)のは、この「対人意識」のきめこまやかさに要因があるかもしれない、と、ふと思う。
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