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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小さな記事の大きな罠(読売新聞の情報操作の仕方)

2022-08-30 10:37:25 | 考える日記

 中国周辺海域で起きていることに関する小さな記事(2面、1段見出し)が2022年08月29日、30日の読売新聞(西部版)につづけて載っている。
 前半が08月30日の記事、後半(*以降)が31日の記事。
↓↓↓
【ワシントン=蒔田一彦】米海軍第7艦隊は、ミサイル巡洋艦2隻が台湾海峡を現地時間28日に通過したと発表した。ナンシー・ペロシ米下院議長が今月2、3日に台湾を訪問して以降、米艦艇の台湾海峡通過は初めてだ。報道担当者は声明で、「米軍は国際法が許す限りどこでも飛行し、航行し、活動する」と強調した。
 ミサイル巡洋艦のアンティータム、チャンセラーズビルの2隻が通過した。報道担当者は「国際法にのっとって航行の自由が適用される海域での定例の通過を行った」とし、「自由で開かれたインド太平洋への米国の関与を示すものだ」と説明した。

 防衛省は29日、中国海軍の情報収集艦1隻が28日に沖縄県の沖縄本島と宮古島の間を南下し、太平洋に入ったと発表した。領海侵犯はなかった。
↑↑↑
 何が問題か。
①米海軍第7艦隊は、ミサイル巡洋艦2隻が台湾海峡を現地時間28日に通過した
②中国海軍の情報収集艦1隻が28日に沖縄県の沖縄本島と宮古島の間を南下し、太平洋に入った
 ①と②は、同じ日に起きている。しかし、①のニュースはアメリカ発にもかかわらず29日の新聞、②は防衛省が発表しているのに一日遅れ。防衛省の発表が遅かった、というかもしれないが。
 でも、日本の領海近くを通ることが問題なら(危険なら)、その情報はいち早く発表、報道すべきだろう。なぜ、一日遅れ? ②に、国際法上の問題点がない(なんら違法性がない)から、そんなことをいちいち報道しなくてもいい、と判断しているからだろう。
 で、ここから次の問題が起きてくる。
 「米軍は国際法が許す限りどこでも飛行し、航行し、活動する」「国際法にのっとって航行の自由が適用される海域での定例の通過を行った」というのが、アメリカの主張なら、中国だって「中国軍は国際法が許す限りどこでも飛行し、航行し、活動する」「国際法にのっとって航行の自由が適用される海域での定例の通過を行った」と言うだろう。「主語」を変えれば、アメリカの主張と中国の主張はまったく同じ。
 なぜ、アメリカの主張にだけ「自由で開かれたインド太平洋への米国の関与を示すものだ」という「理由」がつけくわえられるのか。中国だって「自由で開かれたインド太平洋への中国の関与を示すものだ」と言えるだろう。同じ論理が展開できるはずである。

 なぜ、読売新聞はアメリカの主張だけを記事にするのか。中国の主張を記事にすれば、主張の違いがアメリカと中国の間にはないということがわかるからである。「法的根拠、主張」が同じであるということを読者に知られたくないのである。つまり、アメリカは正しいが、中国は悪い、ということを「印象づけたい」のである。
 こういうことは、30日の紙面にあるもうひとつの記事と比較すればわかる。
↓↓↓
 海上保安庁は29日、長崎県沖の日本の排他的経済水域(EEZ)内で海洋調査をしていた同庁の測量船が、韓国海洋警察庁から調査中止を要求されたと発表した。日本政府は、不当な要求だとして外交ルートを通じて韓国政府に抗議した。(略)(日本の測量船・平洋は)韓国海洋警察庁から「韓国の海域での調査は違法。直ちに退去せよ」と求められた。平洋は「日本のEEZにおける正当な調査」と回答。
↑↑↑
 韓国と日本の「主張」が併記されている。「日本の排他的経済水域」なのか「韓国の海域」なのか、私にはわからないが、まあ、接近しているのだろう。どちらが正しいか、私には判断できない。たぶん、読売新聞にも判断できない。だから両者の主張を「併記」している。
 ところが、「あいまいな海域」ではなく「国際海峡(で、よかったかな?)」を通行することに対して、一方は「主張」を正当化するように報道し、他方は危険な行動をしているように報道する。これは、どうしたって「不公平」というものだろう。
 アメリカ軍が「狭い」台湾海峡を通るのなら、中国が「広い」太平洋を航行したって問題はないだろう。なにもアメリカの西海岸にまで中国の艦艇が行ったというのではないのだ。
 中国は、アメリカ西岸近くまで艦艇を航行させたって「国際法」には違反しない。燃料のむだと、アメリカからの反発があるだけだろう。アメリカ西岸へ艦艇を集結させるかもしれない。
 そうであるなら、中国は、やはりアメリカ軍が中国大陸の近くまで航行してきていることを不快に思うだろう。それに反発するのは当然だろう。
 中国が嫌いは嫌いとして、それは読売新聞の「感情」。国際法上問題がないのなら、はっきりそう報道しないといけない。「領海侵犯はなかった」なら、それはニュースではないのだ。「宣伝」のための情報なのだ。一方にだけ「正当化」の理由を語らせ、他方には何も言わせないというのは、一方だけが「正当」であると宣伝するのと同じだ。
 小さな記事の積み重ねが、大きな「情報操作」になる。

 

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国家公務員は憲法を読まないのか

2022-08-27 08:45:30 | 考える日記

ツイッターで、驚くべき発言を読んだ。

https://twitter.com/emil418/status/1562022901272150016?s=20&t=bfRp4xAljrgyFmmbSo3wZQ&fbclid=IwAR37g-1cje5KFDHlKQ5n6gfBYuA4SgghpgIG92Cwi7ODy0PCl1kwVbDXkDI 

 内閣法制局の職員が、「全国民が反対しても、閣議決定すれば国葬ができるのか」と問われて「できる」と答えている。
 このひとは、憲法を読んだことがあるのか。
 国家公務員になるとき、憲法を読まなくてもいいのか。国家公務員は、憲法に違反していいのか。

 日本は議会制民主主義の国である。
 行政(内閣)は、議会の信任(国民の信任)がなければ、その権力を行使することができない。
 法的な根拠がない限り、何もできない。
 「戦争法」を初めとするさまざまな法律でさえ、ちゃんと国会で議論し、それを成立させている。私は、安倍が強引に成立させた法律に賛成ではないが、それでも、それらは国会審議を経ている。
 ところが安倍の国葬は国会審議を経ていない。

 閣議決定をするかしないか、というよりも、閣議決定と国会審議(国会決議)の、どちらを優先するかが問題である。
 国にとってのいちばん大事な「予算」は、どうやって成立するか。
 最終的に、国会で可決されているではないか。

 ツイッターで紹介されている「議論」は、その後、どう展開したのかわからないが、質問しただれか(議員の名前を私は知らない)は、その後、どうしたのか。
 内閣法制局職員の言っていることが、国会軽視にあたり、憲法違反であると指摘したのか。法制局が憲法違反を推進していいのか。

 答えた職員は、権力(安倍-岸田、まだ安倍は生きているみたいだ)に嫌われて、昇進できなくなることが、そんなに怖いのか。ただ出世して、金をもうけるために国家公務員になったのか。何年も生きてきて、それだけしか学んでいないのか。
 個人的攻撃は意味を持たないかもしれないが、あまりにもひどい職員である。
 きっと学校の成績は優秀だったのだろう。国家公務員の試験の成績も優秀だったのだろう。「試験」は出題者の意向にあわせた解答をしないかぎり「正解」にはならない。ただひたすら、自分より上の存在(権力)の意向を的確につかみとり、それに自分の考えをあわせることに専念してきた人間なのだろう。
 そういうひとは、権力者がいなくなったら、どう生きるつもり?
 だれも、指示する人がいなくなったら、どうするつもり?
 安倍は死んだ、岸田もたぶん、この回答者よりも先に死ぬだろう。そのとき、だれの指示を待つのか。退職したあとは、だれの指示に従っていきるつもりなのか。

 

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三木清「人生論ノート」の読み方。(習慣について、から)

2022-08-25 20:58:33 | 考える日記
修養(する)ということば、定義できます?
三木清の「人生論ノート」の「習慣について」のなかに修養ということばが出てくる。(全集、228ページ)
もちろん18歳のイタリア人は、その意味を知らない。
どうするか。
修養、ということばが出てきた文章を丁寧に読んでいく。
そのことばは一緒につかわれたことばは何か。
一緒につかわれていることばは、また別のことばといっしょにつかわれている。
これを、因数分解をするみたいに、組み合わせたり、ときほぐしたり。
そうこうするうちに、ちゃんと「道徳」と結びつけることができる。
大感激してしまった。
授業のあと、別の先生に、18歳の青年が、どうやって「修養」を理解したか、話さずにはいられなかった。
正直な話、辞書をつかわず、書かれていることばだけを手がかりに、意味を把握するというのは、日本人にもむずかしい。
でも、それをやってしまう。
*
きょうやったのは、まず前回の復習。
「習慣について」の最初の段落を読み返す。
形、が何回も出てくる。
あらゆる生命あるものは形をもっている
生命とは形である
習慣はそれによって行為に形ができてくる
習慣は単に空間的な形ではない
空間的な形は死んだもの
習慣はこれに反して生きた形
弁証法的な形である
生命的な形ができてくる
形をつくるという生命に内的な本質的な作用に属している
ここから、
生命=形(生きた形)
行為=形(弁証法的形)
ならば、
生命=行為(習慣)=弁証法=「形をつくる」
言い直せば、
習慣(人間の行為)は、人間(命)の形をつくること
それは空間的であるだけではなく、時間的なこと。生きること。
これを、まずしっかり理解する。記憶する。
 
つぎに、三木清が「形をつくる」というような表現を、どういうときにつかっているかを探す。
第一段落には書いていないが、「生きる=形をつくる」は、結局「道徳」をつくる(徳を身につけること)というのがわかる。
 
「修養」が登場する部分には「つくる」に関係することばとして、「技術」が出てくる。
修養というものはかような技術である
「技術」をつかった文章に
意識的に技術的にするところに道徳がある
すべての道徳には技術的なものがある
ここで道徳と技術(つくる)が結びつく。
意識的に技術を身につけるように、道徳を意識の技術として身につける。
この技術をみにつける過程が「修養」。
このための「訓練(練習)」のようなものが「修養」。
 
これが「修養」の定義(三木清の定義)。

こういう論理を18歳のイタリア人が展開する。
びっくりするでしょ?
私は、そのときどき、少しずつヒントを出すが、考えるのはあくまて18歳の青年。
 
 
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何のための世論調査?(読売新聞の記事の書き方/読み方)

2022-08-25 17:12:38 | 考える日記

 2022年08月25日の読売新聞(西部版・14版)一面に、「読売・早大協同世論調査」の記事。「「岸田首相は改憲派」50%/原発再稼働 賛成58%」という見出し。統一教会問題で世の中が騒いでいるときに、この世論調査は何? なぜ、内閣支持率がない? 「詳報」を読むと、支持するは61%ある。それを見出しに取らないのは、なぜ?
 からくりがある。
↓↓↓
 読売新聞社と早稲田大学先端社会科学研究所は全国の有権者3000人を対象に世論調査(郵送方式。回答率69%)を共同実施し、岸田首相のイメージを多面的に探った。有権者の50%が首相を「改憲派」とみており、「護憲派」との回答は39%だった。(略)規制基準を満たした原子力発電所の運転再開については、「賛成」58%が「反対」39%を上回り、同じ質問を始めた2017年以降、計5回の調査で初めて賛否が逆転した。
↑↑↑
 いつ調査したのか、書いていない。「詳報」が14・15面に掲載されているが、その前文は
↓↓↓
 読売新聞社と早大先端社会科学研究所が共同実施した全国世論調査(郵送方式)では、岸田内閣への支持は、実績よりも、「ハト派」と「タカ派」の顔をうまく使い分ける岸田首相のイメージが先行したものであることが読み取れた。ロシアのウクライナ侵略などによる安全保障環境の変化も内閣支持率にプラスに働いていた。
↑↑↑
 ここにも、書いてない。「新聞」は、「いつ」が重要だ。隅から隅まで読んで、「調査方法」というのを見つけた。
↓↓↓
 全国の有権者から無作為に3000人(250地点、層化2段無作為地抽出法)を選び、郵送法で実施した。7月11日に調査票を対象者に郵送し、8月17日までに返送されたのは2138。
↑↑↑
 つまり、これは岸田内閣の改造(8月10日)前に郵送された質問への「回答/分析」なのである。何のために? たぶん、岸田が9月に行うといわれていた内閣改造をにらんで、岸田をアピールするための世論調査だったのだ。しかし、調査票を送ったあと、そしてその回答締め切り前に内閣改造があり、統一教会問題が拡大し、何がテーマなのか、わけのわからない世論調査になってしまったのだ。
 内閣改造後の世論調査はどうだったか。8月11日の記事には、こうある。(ウェブサイトhttps://www.yomiuri.co.jp/election/yoron-chosa/20220811-OYT1T50203/ )
↓↓↓
内閣支持下落51%、旧統一教会対応「不十分」55%…読売緊急世論調査(見出し)
 読売新聞社は第2次岸田改造内閣が発足した10日から11日にかけて緊急全国世論調査を実施した。岸田内閣の支持率は、改造直前の前回調査(今月5~7日実施)から6ポイント下落の51%となり過去最低となった。不支持率は34%(前回32%)と過去最高だった。
 岸田首相が新閣僚らに対し、「世界平和統一家庭連合」(旧統一教会)との関係を自ら点検し、見直すよう求めたことについて、十分な対応だと「思わない」は55%と半数を超えた。
↑↑↑
 今回、支持率を「61%」と書いてしまうと、調査結果としては「正しい」が、いまの実態とあわないかもしれないから、書かなかったのだ。
 ということは。
 私は、今回の世論調査について、先に「何がテーマなのか、わけのわからない世論調査」と書いたが、時系列を整理し直すと、「わけがわかる」調査の結果報告である。
 つまり
①8月10日に岸田内閣改造が行われた。その直後の世論調査では内閣支持率が6%下がった。
②統一教会問題も、どんどん拡大している。いま再び世論調査をすれば、内閣支持率はもっと下がるかもしれない。(これは、私の予測である。)先日の毎日新聞の世論調査では支持率が36%と急落した(8月20、21日調査)。
③改造前に調査票を送った世論調査を利用できないか。なんとか岸田をアピールすることはできないか。
 その「狙い」のもとに「岸田のイメージづくり」(イメージ再確認)が行われているのだ。
 前文に、「岸田内閣への支持は、実績よりも、「ハト派」と「タカ派」の顔をうまく使い分ける岸田首相のイメージが先行したものであることが読み取れた。」と書いてあった。この文章を、まっとうに読めば、イメージが先行しているだけで、実績はひどいものである、ということになるが、読売新聞は、けっして、そうは書かない。14面の見出しは、こう書いてある。

内閣支持 イメージ先行/岸田像「クリーン」「敵少ない」

 これを読めば、ふつうは、岸田はクリーンだ、敵が少ない、そのことが内閣支持を支えている、と読める。
 ここで「クリーン」とういうことばが選ばれたのは、まあ、実際にイメージとして「クリーン」を選んだのが38%だったからなのだが、それがほんとうに岸田の「イメージ」なのか、記事を読むと、ぜんぜんわからない。安倍や菅を「クリーン」と感じる人より、岸田が「クリーン」と感じる人が多いというだけである。
 いま、統一教会との関係が週刊誌をにぎわしている。なんとしても、岸田は「クリーン」をアピールしたいのだ。
 一面に、「クリーン」ということばをとるのは、さすがにまずいと思ったのだろうが、なんとしても「クリーン」を打ち出したくて、わざわざ特別面で見出しにとっているのだ。
 いま調査すれば、まったく違う数字になることはわかっている(つまり、調査内容は向こうということ、はわかっている)。
↓↓↓
 岸田内閣の支持率は、8月の内閣改造後に実施した電話方式の調査で51%となり、7月の参院選の直後の65%から大幅に下落した。今回の調査は、急落する前の回答が大半を占めるため、支持率は61%だった。岸田首相を「クリーン」と考える人に限ると内閣支持率は77%に上り、首相の「清潔なイメージ」は支持を下支えする要素の一つといえる。
↑↑↑↑↑↑
 記事には、今回の61%なの、「急落する前の回答が大半を占める」ためと書いてある。そうであるなら、「クリーン」というイメージも、支持率が急落する前のイメージにすぎない。けれど、その急落する前のイメージであることを無視して、「クリーン」を最前面に打ち出している。
 なんとも、ずるいというか、ここまでして岸田にすりよらなければならない理由が、私にはわからない。
 「支持率は61%」という調査内容が「無効」なら、その後の回答も無効である。状況の変化を知らない段階で、答えた世論調査にすぎない。こんな調査結果の公表の仕方では、調査に回答した人の意識も反映したことにならないし、こんな公表の仕方で読者から金を取るのはサギだろう。「間違い」(事実と違うこと)は、どこにも書いていない。しかし、そこに書かれていることが、「いま」を反映しているかというと、そうではない。そこにいちばん大きな問題がある。それを知っているからこそ、読売新聞は「いつ」を誰にもかわらないところに隠すように書いている。

 

 

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日銀の目標?(読売新聞の記事の書き方/読み方)

2022-08-20 08:58:04 | 考える日記

 2022年08月20日の読売新聞(西部版・14版)一面に、「物価上昇」の記事。↓↓↓
 総務省が19日発表した7月の全国消費者物価指数(2020年=100)は、値動きの大きい生鮮食品を除く総合が102・2だった。前年同月と比べ2・4%上昇した。上昇は11か月連続で、日本銀行が物価目標とする2%を4か月連続で超えた。資源価格の上昇や円安で、エネルギーや食品を始め幅広い品目に影響が広がっている。
↑↑↑
 この記事に、「虚偽」はあるか。一見、ないように見える。
 だが、「日本銀行が物価目標とする2%を4か月連続で超えた」という書き方は、これでいいのか。たしかに日銀は物価上昇率を2%と設定していた。いつ設定したか、誰も思いだせないくらい前にである。そして、それは延々と実現されなかった。いまになって、突然、実現されている。その理由が、日銀の政策が成功したのなら、こういう書き方でいいだろうが、実際は、違う。
 読売新聞は、あいまいにごまかしている。「資源価格の上昇や円安で、エネルギーや食品を始め幅広い品目に影響が広がっている。」しかし、これが物価上昇の原因だ。ロシアのウクライナ侵攻で石油や天然ガスが高騰した。小麦などの原料も高騰した。そのあおりで、電気代、ガス代、食品が値上がりした。日銀がリードして、石油、天然ガス、食品を値上げに導いているのなら、読売新聞の書き方で問題がないだろうが、それは「事実」とは反する。
 「経過」あるいは「原因」を追及せず、「結果」だけを書いている。おそらく総務省のレクチャーに「日本銀行が物価目標とする2%を4か月連続で超えた」という表現があったのだろう。それをそのままつかっている。その表現が意味するものを吟味していない。これは単なる垂れ流し以上に、タチが悪い。いまの書き方では、総務省(政府)が「日本銀行が物価目標とする2%を4か月連続で超えた」と宣伝しているということがつたわりにくい。
 逆に見ていくといい。
 物価が2%上昇すると、家計はどうなるのか。赤字が2%増えるということである。日銀が目標としていたのは「物価の上昇」だけではないだろう。物価が上昇しても、それに対応できる「賃金の上昇」がなければ、意味がない。家計は苦しくなるだけだ。景気がよくなって、その反映として物価が上がっているのではなく、不景気なのに物価だけが上がっている、という「現実」にを無視している。

 読売新聞は、一方で、こんな記事を書いている。(08月17日)
↓↓↓
【ロンドン=池田晋一】英統計局が17日発表した7月の消費者物価指数の上昇率は前年同月比10・1%だった。1982年以来40年ぶりの高い水準で6月の9・4%から0・7ポイント拡大した。
 ロシアのウクライナ侵略に伴う光熱費の高騰や、食料品など幅広い値上がりが物価全体を押し上げた。イングランド銀行(中央銀行)は10~12月に消費者物価のインフレ(物価上昇)率は13%を超えるとみており、物価高は当面続く可能性が高い。
↑↑↑
 ここには、イングランド銀行の「物価上昇目標」は書かれていない。かわりに原因をはっきりと「ロシアのウクライナ侵略に伴う」と明記し、「物価高は当面続く可能性が高い」と予測している。
 イギリスで起きていることは、日本でも起きる。(すでに、世界で起きている。)
 最初の記事のつづきには
↓↓↓
 秋以降、食品を始め多くの値上げが見込まれている。民間調査機関の予測では、上昇率は年内に3%に達するとの見方が強まっている。
↑↑↑
と書いてある。
 「日銀の予測(目標)」は?
 前段で「日銀の目標」を書いたのなら、後段でも「日銀の目標」を書かないと意味がない。日銀の目標が「2%」だったのに、年内には「3%」になる。海外の物価の動きを見ると10%を超えるかもしれない。
 そうなったら、社会は、どうなる?

 そうなったらなったで、また、総務省がレクチャーしてくれる通りに書く? 国民をごまかす「表現」を教えてくれるから、気にしなくていい、いわれるままに書けばいい、ということか。

 物価の2%上昇の問題は、「日銀の目標」が達成されたかどうか、ではない。しかも、その「達成」が日銀主導の政策によるものでもないのだから、物価の抑制も日銀にはできなということを意味する。今後、どんどん物価があがることが予測される。どう対処するのか、それを先取りする形で追及しないといけないのに、知らん顔をしている。
 私は年金生活者。年金は、6月から減少した。物価は2%上昇し、さらに上昇すると予測されている。これは、私の生活はさらに苦しくなる、ということを意味している。「最低賃金」はアップするらしいが、それが年金にそのまま反映されるわけではない。逆に減っている。老人はかってに死んで行け、ということだろうか。それは「日銀の目標」だろうか。「読売新聞の目標」だろうか。

 

 

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朝日新聞よ、それでいいのか。平気なのか。正気なのか。

2022-08-15 19:48:10 | 考える日記
朝日新聞デジタル版、
「特異集団は旧統一教会」閣議決定 公安調査庁の05・06年報告書
この見出し、この記事の書き方は、これでいいのか。
辻元清美の「質問趣意書」が掲載されていないので、その内容がわからないが、辻元は単に「2006年、2005年」の公安調査庁が「特異集団」と書いてあるのは、いったいどの団体かと質問しただけなのか。
↓↓↓
 政府は今回の答弁書で、いずれも旧統一教会を指すと認め、特異集団を「社会通念とかけ離れた特異な主義・主張に基づいて活動を行う集団」と定義した。
 一方、第1次安倍政権下の07年分では特異集団の項目がなくなった。理由について答弁書は「時々の公安情勢に応じて取り上げる必要性が高いと判断したものを掲載している」とした。
↑↑↑
問題は、記事の末尾に書いてある「第1次安倍政権下の07年分では特異集団の項目がなくなった」だろう。
「時々の公安情勢に応じて取り上げる必要性が高いと判断したものを掲載している」とあるが、「取り上げる必要性がない」というふうに判断基準を変えたのは誰なのか、それが問題だ。
辻元も、きっとこのことを問題にしているはずだ。
「特異集団」が「統一教会」であると推測し、その推測が当たっているなら、問題は、2007年以降、統一教会を「特異集団」と判断しなくなったものがいるはずであり、それを追及するための「準備」として「質問趣意書」を出したのだろう。
記事の書き方から「第一次安倍政権」が関係していたと推測できる。「第一安倍政権」とまで書いているのだから、それをもとに朝日新聞はもっと追及すべきである。
見出しは、
「特異集団=統一教会」07年報告書から消える
だろう。
この問題は、この先さらに辻元が追及するだろうけれど、辻元だけに追及をまかせるのではなく、「援護追及」するために、朝日新聞も書くべきだろう。
今の書き方では、07年報告書から「特異集団(=統一教会)」と明記しなくなったのは「当然」という意味になってしまう。
政府の言い分を鵜呑みにし、それを垂れ流すのではなく、閣議決定された「答弁書」に問題がないかどうか、それを書かないといけない。
朝日新聞が、朝日新聞の名前(記者の名前)で書けないのだとすれば、せめて辻元の意見、あるいは他の評論家なりの意見を紹介すべきだろう。
こんな、政府の宣伝を書いて、それで平気なのだろうか。
読者をだますことになるとは思わないのか。
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アメリカナイズの問題点

2022-08-14 10:30:34 | 考える日記

 「台湾有事」は「アメリカの夢」と書いたとき、世界で起きているアメリカナイズについて少し書いた。アメリカナイズの「悪夢」が世界をおおっているというのが私の見方だが、それを証明するような事件が起きた。
 『悪魔の詩』の著者、サルマン・ラシュディがアメリカで刺された。容疑者の動機は不明(読売新聞)だが、『悪魔の詩』はイスラム教を冒涜している批判されており、そのことが関係するかのように報道されている。
 これが「アメリカナイズ」とどう関係するか。関係するのはイスラム教だろうと指摘する声が聞こえてきそうだが、私は「アメリカナイズ」のひとつととらえる。

 「アメリカナイズ」とはアメリカのスタイルが世界をおおうということである。この動きは「自発的」というよりもアメリカが要求しているものである。それに逆らって自分のスタイルをつらぬくことはむずかしい。そのアメリカナイズのいちばんの典型が「核武装」である。
 アメリカが核を開発し、広島と長崎でつかった。そこから「核軍拡」が広がった。これをアメリカナイズと呼ぶひとはいないが(いないと思うが)、私はそう呼ぶのである。
 核攻撃をされたら自分の国は滅ぶ。対抗するには核を持つしかない。核を持つものが世界を支配する。その主張をソ連(いまはロシア)がまねをし、イギリス、フランス、中国がまねをした。そのあと、イスラエル、インド、パキスタンとまねする国が出てきて、北朝鮮も核をもっているらしい。ほかにも計画している国がうわさされるし、なんといっても、いま世界の注目を集めているロシア・ウクライナ問題でも「ウクライナがソ連時代の核をもっていたら(ロシアに渡さなかったら)、今回の侵攻は起きなかった」という主張もある。ゼレンスキーが求めているのも核の後ろ楯であり、核武装だろう。ここからウクライナのNATO加盟申請が起きた。
 この背景にあるのは、武力のあるものが武力のないものを支配してもいい、あるいは武力で自分の望む「体制」(社会)をつくっていいという思想であり、アメリカ大陸に「アメリカ合衆国」ができたときの考え方を踏まえている。ヨーロッパからやってきた人間が、ヨーロッパ式の武器をもたないネイティブアメリカンを力で制圧し、そこに自分の国をつくりあげた。武力を「文化」と勘違いし、武力をもったヨーロッパ系の人間が、その価値観をアメリカ大陸、アメリカ合衆国に広げていった。
 ネイティブアメリカンを差別し制圧した後は、アフリカ系の人間を差別し、「奴隷」として酷使した。白人の「文化」がアフリカ系の「文化」よりすぐれているから、アフリカ系の人間を支配してもかまわないという思想だろう。これが根を張り続けて、アフリカ系アメリカ人への差別につながっている。白人警官がアフリカ系アメリカ人を死に至らしめた事件は、まだまなまなしい。ヒスパニックへの差別も根強く残っている。自分とは違う文化を生きる人間を差別するというのは、「アメリカ」という土地で増殖したのである。「差別の拡大」が世界のアメリカナイズの「象徴」である。
 そしてそのアメリカナイズの基本、アメリカの理想は「合理主義」である。いかに効率的に世界のシステムを支配するか。この「合理主義」というアメリカナイズが世界を席巻しているのだけれど、「合理主義」というのは「合理」にあわないものは排除することによって促進される。これが、さまざまな問題を引き起こすのだ。「合理」ではかたづかないものを抱えて生きるのが人間であり、不都合(不合理)を抱えながら共存するのが人間である。宗教、それにともなう様々な生活習慣は、ときに抑圧を生み出す。差別を生み出す。
 もしラシュディ襲撃がイスラム系の人間の犯行だとしても、それは、アメリカのアメリカの主張している主義以外は認めない(イスラム社会のあり方を批判、否定する姿勢)というアメリカナイズへの抗議というものだろう。アメリカが「多文化」の国ならば、こういうことは起きない。どの宗教にもそれぞれの主張がある。それを認めるという世界観がアメリカで実現されているのだとしたら、そしてそれが世界に広がっていたとしたら今回の襲撃は起きなかっただろう。アメリカは「人種の坩堝」ではあるかもしれないが、「多様な文化を許容する社会」ではない。マルチ文化を否定するのがアメリカナイズである。アメリカの文化にあわせろというのがアメリカナイズである。
 中国のチベットや新疆ウィグル地区への弾圧が話題になるが、これも、私の見方では「アメリカナイズ」のひとつである。中国で起きているから(中国政府が引き起こしているから)中国独自の問題に見えるが、根っこは同じ。「他文化の共存」を拒否する。「自分の文化」を押しつけ、支配する。アメリカがやっていることと同じ。
 アメリカは、それを「台湾」に強要した。それが「台湾有事」である。台湾の人が中国の経済政策(金もうけ)を選ぶか、いまのままの台湾方式を選ぶかは、台湾に住んでいるひとの問題であり、アメリカ人の問題ではない。
 こうした「他文化」を拒否する、「文化の多様性」を否定する動きを変えていくためには、アメリカがかわらなければならない。アメリカが「多国籍文化」にならない限り、アメリカナイズの弊害は発生し続ける。「なぜ、アメリカの主張する生活(文化)スタイルでないといけないのか。我々には我々の文化(生き方)がある」という抵抗が起きる。
 アメリカが核兵器を廃棄し、アメリカ人が中国人のように、世界中に出かけてゆき、そこに「アメリカタウン」をつくるようにならないかぎり、世界は滅びる。世界のどこへでも出かけ、そこであまりひとが好まないような仕事でもせっせとして金を稼ぎ、生活を安定させ、家族を呼び寄せる、「チャイナタウン」をつくってしまうという中国人の生き方が世界をかえていくだろう。いまは「チャイナタウン」だが、それは多民族をまきこんだ社会システムになっていくだろう。

 

 

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「関係を断つ」とは、どういうことか

2022-08-13 08:52:15 | 考える日記

 第二次岸田改造内閣。統一教会との関係が、すっきりしない。2022年08月13日の読売新聞(西部版・14版)の2面。(見出しは、ウェブ版)
↓↓↓
新副大臣・政務官でも旧統一教会と接点相次ぐ…パーティー券購入やイベント出席

 第2次岸田改造内閣が本格始動した12日、政府がこの日の臨時閣議で決定した副大臣、政務官でも「世界平和統一家庭連合」(旧統一教会)と過去に何らかの接点を持っていたことが相次いで明らかになった。
 山田賢司外務副大臣の事務所は12日、関連団体から2018年4月にパーティー券2枚(4万円)の購入を受けたと公表した。大串正樹デジタル副大臣も同日、首相官邸で記者団に、過去に関連団体からパーティー券を購入してもらったと明かし、「関係は断つ」と語った。
 中谷真一経済産業副大臣と野中厚農林水産副大臣は、いずれも関連団体のイベントに出席経験があった。野中氏は、関連団体とは知らなかったとしたうえで、「付き合いは今後わきまえていく」と記者団に語った。
↑↑↑
 山田の「関係は断つ」、中谷の「付き合いは今後わきまえていく」とはどういうことか。だいたい「記者団に語った」とあるが、記者に語ることにどんな意味があるのか。いまの「記者団」は、たんなる宣伝マンだ。実際、ここに書かれている記事も、山田、中谷は「関係を断つ」「付き合いは今後わきまえていく」と言っているから問題はないという「宣伝」に終わっている。
 記事の末尾には、こう書いてある。
↓↓↓
 10日に発足した改造内閣では、7人の閣僚に旧統一教会との接点があったことが判明している。岸田首相は関係を点検したうえで見直すよう求めており、松野官房長官は12日の記者会見で「副大臣や政務官に対しても同様のことを求め、これを了解した者のみを任命した」と説明した。
↑↑↑
 「岸田首相は関係を点検したうえで見直すよう求めて」いるというが、「関係を見直す」の具体的な内容は、どこにも書いていない。

 統一教会との「関係」をどうするか。国会は立法府である。議員は、立法する権限を付託されている。
 ほんとうに「関係を見直す」「関係を断つ」というなら「立法措置」を取るべきである。統一教会をカルト認定し、いま認めている「宗教法人」(だと思うが)の資格を取り消す。さらには悪徳商法の実態を国会で明らかにし(本来は司法の問題かもしれないが)、被害者救済のための法律を考える。
 これが「関係を断つ」ということだろう。「付き合いをわきまえる」とはつきあい方をかえるということでなければならない。単に、いままでつきあっていたけれど、それをやめるではなく、いままでのつきあいを清算し、統一教会のあり方の変更を求めるというところまで踏み込まないと、「過去を隠した」だけになる。
 岸田がやっていることは、「過去隠し(歴史の否定)」にすぎない。

 国会は立法府であり、国会義員の仕事は法律をつくることで社会をよりよいものにかえていくということだ。この「基本」から出発して、国会議員と統一教会との関係に踏み込まないといけない。
 山田や中谷が記者団に語るのは「自己宣伝」である。その「宣伝」を聞いたとき、それをただ読者に伝えるのではなく、「関係を断つ」というのは統一教会にあたえられている権限を剥奪するために立法措置をとることか、そういう動きを国会で積極的に進めることか、と問い詰めないといけない。
 統一教会は、山田や中谷が「関係を断つ」というのなら、別の自民党の国会議員に接触するだけだろう。「当選の応援をします」というだけだろう。
 議員の「いいわけ」を「はい、わかりました。その旨、ていねいに読者に伝えます」というのでは、ジャーナリズムは「言論機関」ではなく、「宣伝機関」であり、ウソによって読者をごまかす詐欺集団になってしまう。

 

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「台湾有事」への疑問

2022-08-12 21:52:32 | 考える日記

 私は台湾のことも中国のこともよく知らないのだが、「台湾有事」について、とても疑問に思うことがある。
 台湾は、チベットや新疆ウイグルとは完全に違う。台湾に住んでいるひとは、基本的に中国人である。つまり、国語、文化が同じ。(もちろん、別の体制になってから、違う制度を生きているから違いも出てきているが。)
 中国人は、どうやって生きているか。
 単なる印象で書くのだが、いま中国人は世界中に散らばっている。そして、散らばりながら組織化もされている。チャイナタウンと俗にいうけれど、血族意識が強い。だれかがある国へ行く。そこで成功する(中国人にとっての成功とはなによりも、金を蓄える。金持ちになること)と親族を呼び寄せる。そして、「社会」が拡大する。
 頭がいいなあと感心するのは、このときの中国人の「かせぎ方」である。日本でいうコンビニみたいな店を開く。大儲けはできないが、少しなら、確実に売れる。最初から大儲けを狙うわけではない。それをこつこつと繰り返す。もうけが大きくなれば少しずつ店を広げていく。そして親族も呼びよせるというわけだ。
 こういうことを「生きる知恵」として身につけている中国人は、「中国・台湾」問題をどう生きるか。想像にすぎないのだが、台湾が誕生したときと、逆のことが起きると思う。つまり、台湾から、だれかが中国へ行く。そこで一生懸命働く。金がもうかったら、家族(親族)を中国へ呼び寄せる。中国人(台湾を含む)のひとが、アメリカやその他の国で展開していることを、中国本土で展開する。実際に、台湾で金をもうけ、それで中国にも家を持っているというひとがいる。そのひとは、状況次第では、自分の拠点を中国に移すだろう。そういうひとは、大勢いるだろう。
 「台湾有事」というのは、市民レベルでは起きようがないのだ。中国人の生き方は、それがどこであれ、金もうけをしたら、そこで家族(親族)と暮らし、「社会」を広げていくというやり方である。
 中国人は、文化(国語)が違う外国でさえ、そういうことを巧みにやってのけている。金持ちがいちばんえらいを、確実に実行している。

 これを逆に見れば、「台湾有事」がアメリカの「夢」であることがわかる。
 アメリカは、台湾が中国になりたい、という欲望を恐れている。中国に圧力をかけるためには、台湾という「基地」が必要なのだ。台湾から「共産主義」の中国の活動を制限したいだけなのだ。
 どういう活動? もちろん金もうけ(資本主義)の活動である。
 でも、なぜ、そんなことをするか。なぜ、中国人が金もうけをすることに対抗しようとするのか。
 理由は簡単である。
 アメリカ人は中国人になれないからである。中国人のように生きられないからである。簡単に言い直すと、中国人のように、世界のどこへでも出かけ、そこで金もうけができたら、家族(親族)を呼び寄せて幸せになる(さらに金もうけをする)ということがアメリカ人にはできないからである。
 アメリカ人は、アメリカ人ではない。彼らは、ヨーロッパからアメリカにやってきて、アメリカで金もうけをし、アメリカ人になった。アメリカ人は、アメリカから出ていったらアメリカ人ではなくなるのだ。だから、中国人の生き方が我慢できないのだ。中国から脱出し、よその国へ行って、なおかつそこで中国人として金を稼いで、生きている。
 何が中国人とアメリカ人では違うのか。持っている「文化」が違うのだ。アメリカ人は固有の文化を持たない。中国人は持っている。「文化」を手がかりに、いつでも中国人は「団結」できる。アメリカ人は、できない。アメリカに文化があるとしたら、それは最初から「マルチ文化」なのである。「固有の文化」ではないのだ。「マルチ文化」はどこへでも進出できるが(実際、「アメリカ文化」は世界をおおっているが)、進出した途端に「アメリカ文化」の固有性をなくす。
 「アメリカナイズ」ということばがあるが、実際は、アメリカナイズされているようにみせかけながら、それぞれの国の人がアメリカを消費しているだけである。アメリカ人がやってきて、アメリカを主張しようとしても、その主張をその国のものにしてしまう。マクドナルドにしてもジャズにしても、それぞれの国のスタイルがある。決して、アメリカの「方法」がそのまま根を張っているわけではない。

 アメリカが世界を理解できない理由はここにある。アメリカにはアメリカの文化がないからだ。(ネイティブアメリカンのことは、ここでは触れない。あくまでも、いま、大手を振るっているアメリカ人のこと、を対象として私は書いている。)
 それぞれの国には、それぞれの国語があり、同時にそれぞれの文化がある。
 アメリカは、これを根こそぎにしようとしているが、これは絶対に不可能だろう。すでに失敗したし、最近ではアフガンでも失敗した。
 NATOの東方拡大は、一見「成功例」に見えるかもしれないが、かつてソ連に支配されていた国が、ソ連支配下を逃れた瞬間から次々に「民族」を主体とした国にわかれた。一方で、ドイツは「民族」が団結し、ひとつの国になった。「文化」が共通だから、ひとつになるのは簡単なのだ。
 ここからまた「台湾」にもどれば、台湾が中国と統一するのは、とても簡単なのだ。中国(本土)の経済が世界一になれば、その瞬間に、台湾は中国と統一してしまうだろう。政府がそうするのではなく、市民がそうするのだ。「文化」が同じ。同じやり方で、中国本土でさらに金がかせげるなら、台湾にこだわる必要はない。もし中国本土へ行くのがいやなら、台湾のひとは世界のどこへでも行くだろう。ヨーロッパでも、南米でも、アフリカでもかまわない。そこで金を稼いで「チャイナタウン」をつくるだけである。
 「アメリカタウン」をつくることができないアメリカは、中国人には絶対に勝てない。アメリカの(つまり、新大陸の)成功は、中国が世界へ広がっていくための「過程」にしかすぎない。アメリカは「アメリカ合衆国」として北米大陸にそこにとどまりつづけ、そこで変質しつづけるしかない。

 中国のチベット、新疆ウィグル政策は間違っているが、それは「文化」の多様性を中国が拒んでいるからである。世界はマルチ文化の時代に入っている。マルチ文化をどう生きるか。マルチ文化(人種の坩堝)であるはずのアメリカが、それこそアメリカをマルチ文化が共存する社会につくりかえることができれば、そういう世界に成長できれば世界の事情は違ってくるが、アメリカはどうも逆行している。いまだに差別問題を抱え、女性の権利も抑圧し始めている。「台湾有事」も、古くさいアメリカ帝国主義というシステムに逆戻りしたいという欲望が生み出した「幻想」だ。
 恐ろしいのは中国ではなく、時代後れの「幻想」にしがみついているアメリカと、その政策を盲信している日本の古くさい政治家だ。

 

 

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N氏の手紙

2022-08-09 22:30:24 | 考える日記

 中井久夫に「N氏の手紙」というエッセイがある。(『記憶の肖像』、みすず書房、1992年10月21日発行)「N氏とは最近物故された有名な詩人である。」とはじまる。読みながら、私は、このことばをコピーするように「N氏とはきのう(8日)物故された有名な訳詩人である。」と書きたくなった。中井久夫が死んだ。
 中井久夫は、そのエッセイの中で西脇順三郎に手紙を書いたこと、西脇から返信が来たことを書いている。私も中井久夫に手紙を書いたことがある。『カヴァフィス全詩集』(みすず書房)を読んで、感想を書いた。訳語のリズムに感心した、口語のリズムに肉体を感じた、というようなことを書いたと思う。私は中井久夫を知らず、単に「翻訳者」であると思っていた。しかし、その「翻訳」は「翻訳」というよりも、完全に日本語になった詩だった。中井語だった。、感動を抑えられずに思わず手紙を書いたのだと思う。そのとき、同人誌「象形文字」を一緒に送ったかもしれない。
 中井久夫から返信が来た。私の詩への感想も書いてあった。それで、私はまた手紙を書いた。「私が、お礼の形でもう一度、氏に手紙を書いたのは、多少の得意と多量の甘えであったろう。」と中井は「N氏への手紙」で書いているが、私も、そんな気持ちだっただろう。「氏と私との手紙の往復は二回で終わった。」と中井は書いているが、中井と私との手紙の往復は、その後も何回もつづいた。
 そうしているうちに、中井から、未発表の訳詩がある、「象形文字」に掲載できないか、と聞かれた。とても驚いた。しかし、同時に、大好きな中井の訳詩(ことば)を同人誌に掲載できるのなら、こんなにうれしいことはない、と思った。そして、掲載がはじまった。ヴァレリーの『若きパルク/魅惑』の(みすず書房)は、岩波書店の『へるめす』にも掲載されたものだが、実は、初出は「象形文字」である。このことは、「初版あとがき」にも書いてある。(私が持っているのは「改訂普及版」なのだが、収録されている。「初版」は、どこへ行ったのか、見当たらない。)こんなことは「自慢話」のようで、あまり書きたくはないのだが、書かずにいられないのは「私の自慢話」を通り越して、そこに中井の「人格」を感じるからである。「象形文字」に書いたことなど、わざわざ「あとがき」に書く必要はない。それを読んだとしても、だれも「象形文字」のことは知らないし、私の名前だって知らない。しかし、中井は、そういうことをきちんと書く人間なのである。出会った人をないがしろにしない。あったことは、そのままきちんと書く。「経過」を省かない。これは手紙のやりとりで感じたことでもある。
 その後も、中井との「文通(と、中井は、あるとき手紙で書いてきた)」はつづいた。新たに、中井から「リッツォス」の訳詩を「象形文字」に掲載しつづけた。経済的事情で「象形文字」の発行ができなくなったあと、ブログで掲載(発表)をつづけた。未発表のまま終わらせてはいけないと思った。預かった訳詩に対して、なんとか責任を果たしたいと思った。私の「感想」も同時に掲載した。
 私の「感想」に、便箋で20枚近くの「返信」が来たことがある。引っ越しの過程で紛失してしまったが、ことばと色、ことばと音などについて書いてあった。私が中井の訳から音楽と色を感じるというようなことを書いたからだと記憶している。リッツォスの詩だけではなく、日本人の詩集、さらにだれかの訳した訳詩集についても、ことばと音楽、ことばと色彩について何度か「文通」した。どんなことにも、とてもていねいに中井自身の体験と考えを聞かせてくれた。
 リッツォスの訳詩のブログ掲載が終わってから数年。突然、中井久夫から「リッツォス詩集を出したい。谷内の書いた感想と一緒にした一冊にしたい」という電話があった。「私の感想は、リッツォスのことばの出自、時代背景を無視している。組み合わせて一冊にするのは不適切ではないか」と言ったら「詩だから、それでいい」という返事だった。それで好意に甘えることにした。甘えられるときは、甘える方がいい、というのが私の考えである。甘えさせてくれるのは、私のことを大事にしてくれているからだろう。中井の書いている「多少の得意と多量の甘え」を、私はそのまま生きたのである。 『リッツォス詩選集』(作品社、2014年7月15日発行)は、そうやって生まれた。
 中井はあるとき、友人に会った。その友人は精神医学関係の人で、彼に会った西脇が「中井を知っているか、今どうしているか」と聞かれたと、中井に告げた。「書簡往復の七年後である。」と書いている。中井から自宅に電話があったのも、リッツォスの訳詩掲載が終わって「七年後」くらいだったかもしれない。
 何か、いろいろなことが重なり、よみがえるのである。
 中井は、最後の方に、こう書いている。友人と西脇の対話のつづきである。

 私が医学部に行ったむねをいうと、氏は「そりゃいかん」と叫ばれたそうである。その意味はわからない。

 「象形文字」を発行しなくなった。そのことに対して、中井は「そりゃいかん」と言ってくれたのかもしれない。そして、私を励ますつもりで、共著を出そうと誘ってくれたのかもしれない。「その意味はわからない。」もちろん、これは私の「多少の得意と多量の甘え」のまじった感想である。
 「甘え」で終わらせないために、私は、また詩を書かなければ、と思う。「感想」を書かなければ、と思う。

 

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中井久夫が死んだ

2022-08-09 20:00:59 | 考える日記

中井久夫が死んだ。
なんと書いていいのかわからない。
でも、書かずにいられない。
 
カブァフィス、リッツォスの訳詩。
そして、最初のエッセイ集『記憶の肖像』も好きな一冊だ。
実は、私は「特別版」を持っている。
カバーの写真が「裏焼き」なのだ。
中井さんからもらったものだが、もらったあと、「写真が裏焼きだった」と教えてもらった。
たぶん、すぐにカバーを作り替えていると思う。(確かめてはいない。)
ふと開いたページに「花と時刻表」という短い文章がある。
「今年の夏は福岡から佐賀、最後に山口と各駅停車の旅行をした。」とはじまる。
偶然開いたのに「福岡」の地名が出てくる。
その偶然の一致がうれしい。
 
*
 
ふつうは「中井久夫が死んだ」と書かないだろうし、「(本を)もらった」とも書かないだろう。
しかし、私は「中井久夫氏が死去した」とか「本をいただいた」とか、書けない。
遠いひと、私とは無関係な「立派なひと」になってしまう感じがする。
もっと、「近しい」。
その感じを、ことばでごまかしたくない。
 
*
 
新神戸の駅では佐賀県の入り口「唐津」までしか切符を売らない。後は向こうで買ってくれという。筑肥線の車中で乗り継ぎの手続きをするついでに、なぜかをたずねた。機械が出さないのだそうである。ほんとうだろうか。
これは書き出しの一行につづく文章だが、とても不思議な気持ちになる。
列車を乗り継いで、知らない世界へ入っていく。その知らない世界は、「出発地」では売ってくれない。
たどりついた場所で買い足さないといけない。
たどりついたところから、さらに少しずつ、少しずつ、先へ進む。
中井久夫が書いている「結論」はそういうことではないのだが(末尾の文章は美しいが、引用しない)、私は、いま引用した文章に中井の「生き方」を見る感じかする。
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NATOと統一教会

2022-08-07 10:06:36 | 考える日記

 NATOと統一教会は、何の関係もないように見える。(あるかもしれないが、私は、知らない。)けれども、非常に類似点があると私は感じている。2022年08月07日の読売新聞(西部版・14版)は3面で「対ロシア 欧州政局不安/インフレ拍車 高まる不満/英伊首相辞任/仏政権 議会苦戦」という見出しで、現在のヨーロッパの「揺れ」を報告している。
 ロシアのウクライナ侵攻を非難するために、ヨーロッパは団結して「経済制裁」に踏み切ったが、うまくいかない。物価が上がり、不満が続出している。それを政権が抑えきれない、ということが起きている。
↓↓↓↓
 経済的な余裕が失われ、国民の関心はウクライナ情勢から離れ始めた。調査研究機関「欧州外交問題評議会」が欧州主要10か国で実施した調査(6月中旬発表)では、英仏伊とスペイン、ポルトガル、ルーマニアの6か国で「ウクライナ危機にこれ以上、軍事費を拠出するべきではない」との意見が多数派となった。ウクライナへの「支援疲れ」は、無視できないレベルにある。
↑↑↑↑
 やっと「政権の声」ではなく「市民の声」に注目し始めたということだと思うが、これはロシアのウクライナ侵攻が起きたときから想像できたことである。「政権の声」は「市民の声」ではないのだ。

 「政権の声」と「市民の声」のいちばんの違いがあらわれたのが「NATOの東方拡大」だろう。ベルリンの壁が崩壊し、ワルシャワ条約機構が解体したあと、なぜNATOは存在し続けるだけではなく、東方に拡大し続けたのか。「ロシアは危険だ」と言い続けたのか。実際に、ロシアのウクライナ侵攻が起きると、NATOの「ロシアは危険」(いつか攻撃してくる)という「予測」は当たっているかのように見える。しかし、クルミア侵攻(併合)のときは、今回のような「ヨーロッパ全体の統一行動(経済制裁)」は起きなかった。何が違ったのか。違うのか。わからないことは、保留しておいて、私はわかることだけ考える。
 NATOの東方拡大は、ソ連から独立した(?)国(政権)の要求に応じる形で起きたかのように言われているが、ほんとうなのだろうか。(ウクライナは、今回、たしかにウクライナ側から加盟を申請した。フィンランド、スウェーデンも加盟申請した。)東欧諸国が加盟申請したのだとしても、それは「自発的意思」だったのかどうか、私は疑問に思っている。
 むしろ、ワルシャワ条約機構が解体し、NATO事態の「軍備増強」の理由がなくなったことが影響しているのではないのか。それまでのNATO加盟国に軍備増強を呼びかけても、応じる国は少ないだろう。これでは、アメリカの軍需産業は成り立たない。そこで目をつけたのが、かつてソ連に支配されていた東欧諸国である。「またロシアに支配されるかもしれない。ロシアに支配されないためには(安全に暮らすためには)、アメリカの軍事体制のなかに入り、アメリカに守ってもらう必要がある」。こう呼びかければ、ソ連支配下の記憶がある「政権」は、それになびくだろうなあ。一方で「不安」をあおり、他方で「安全」を手に入れるためにはどうすべきかを語る。これって、統一教会の「地獄へ落ちる」(これが正しい表現かどうかわからないが)、「天国へ行くためには、壺を買え」に似ていない? ロシアに再び支配されたくなかったら、NATOに加盟し、アメリカ産の軍備を買え。私には、おなじにしか見えない。
 だいたいねえ。
 ベルリンの壁崩壊後に起きたことは、NATOの東方拡大とは「逆」ともいえることだ。いくつもの国が協同して「防衛」に専念するということとは逆のことだ。ひとつと思われていた国が、つぎつぎに「独立」した。「チャコスロバキア」とか「ユーゴスラビア」とかは、かつての「国(権力)」のなかで「分裂」した。私が中学生の頃、まったく知らなかった国が、まるでアフリカ諸国の「独立」のように、つぎつぎに「内部分裂」の形で増殖した。そして、そのとき、その「市民」が要求したのは、自分たちのアイデンティティーの確立である。文化の多様性の主張が始まり、それがつぎつぎに認められていった。つまり、ヨーロッパは、文化の多様性を生きる「地域」として充実していった。それをヨーロッパは受け入れた。その延長線上に、たとえば「難民」の受け入れがある。多様な文化をもった人間が、自分たちの国に入ってくる。そして共生する。それを「いいこと」として受け入れた。
 このとき、困るのは誰?
 アメリカが困るだけだ。アメリカが「ヨーロッパ化」したらどうなるか。「文化の多様性」を受け入れることを求められたらどうなるか。いまも白人以外への差別が根強く残るアメリカに、さまざまな文化をもった人間が押し寄せてきて、「共生」を求められたら、アメリカはどうなるか。多様性に対する許容力を持たないアメリカは、大混乱になる。東欧で起きたような「独立運動」が各地で起きるかもしれない。
 なんといっても、ヨーロッパが「多様性許容」という形で団結してしまったら、「武器」を売る相手がいなくなる。「多様性許容/多様性共存」の世界では、戦争が起きるはずがないのである。戦争は「排他性」からはじまる。ヨーロッパは「言語の多様性」を生きている。「一つのことば」で団結しようとはしていない。「複数のことばの共存」は「複数の思想の共存」である。これは、「一つの思想」で世界を統合しようとする立場の「権力」から見ると、いちばん、目障りだろう。
 アメリカが目の敵にするのも、統一教会が目の敵にするのも、「統一された思想」への「疑義」である。「それは違うんじゃないか」という疑問を持つ人間である。だからこそ、「洗脳」をめざす。アメリカがリーダーになって、世界の安全を守る。統一教会がリーダーになって世界を支配する。アメリカは、その「洗脳」の道具として「武器(アメリカの核の傘下)」を掲げ、統一教会は「天国へ行ける壺」を掲げる。アメリカも統一教会も、それぞれ「仮想敵(国)」を用意し、それをちらつかせる。
 そして、このアメリカと統一教会では、「共産主義」が「仮想敵国」として「共通」した。「自由主義」とは「金持ちがどこまでも自由に金をかせげるシステム」のことであり、そのシステムのもとでは、貧乏人はどこまでも貧乏人のまま金持ち(権力)に奉仕するという形で完結する。今の日本だ。正規雇用者は非正規雇用者に、非正規雇用者はパートに、パートはアルバイトにとどんどん賃金を下げられながら、資本家の金もうけを支える。
 ヨーロッパは、多様な言語の国である。言語が違えば思想が違う。「国語」は、その国の思想の到達点である。それぞれのことばを話す人間が「権力」に対して異議を唱え始めた。それが、ロシアのウクライナ侵攻によって、次第に見えてきたということだろう。市民にとって大切なのは自分の生活であり「国家権力」という抽象的な「概念」ではない。
 今後、どうなるのか予測はつかないが、「権力」による「統合」は、もう起こり得ないと考えた方がいいと思う。どの「権力」を選ぶかではなく、どういうかたちの「多様性」を生きるか、多様性の共存のために、自分の「思想」をどう鍛えなおすか、考えないといけない。

 いまは、暑いから想像しにくいが、これから冬に向かうとき、ヨーロッパは悲鳴を上げる。ロシアの石油、ガスを拒絶したまま、冬を越せるのか。すでに、そういうことを心配しているヨーロッパのひとはたくさんいる。暖房がない、食糧がない。それなのにNATOに支出する。そんなことは許せない、という声が高まるだろう。
 一方、フランスには原子力発電所がたくさんあるが、他の国はそうではない。これから建設するにしても、今年の冬には間に合わないだろう。しかし、今回(次の冬)の体験が呼び水になって、原発の増設は、ヨーロッパでドミノ倒しのように広がるだろう。以前にも書いたが、それは核の原料の確保でもあるから、アメリカは大歓迎するだろう。原発建設の技術をもっている日本も大歓迎するだろう。でも、そのとき、世界はどうなるのか。「多様性の要求」は、また違った形で噴出するだろう。電力確保のためには「原発が必要だ/原発は経済的だ」という「統一概念」への反動が起きるはずである。
 いま必要なのは「統一」ではなく、「統一への疑義」であり、「分裂の許容(多様性の許容)」であると思う。
 NATOや統一教会の「脅し(洗脳)」に対抗するには、多様な思想の確立しかない。私は私の書いていることが「正しい」かどうか知らない。ただ、いま流布している「概念(たぶん権力が用意したもの)」に対する疑問を持ち続けたいから、そのことを書く。

 

 

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広島原爆の日。

2022-08-06 18:28:32 | 考える日記

 広島原爆の日。
 原爆に限定せずに、戦争について考えるところからはじめたい。
 「戦争放棄(軍備放棄)」を語るとき、多くの人が、敵が愛する人(家族)を殺そうとしているの時、戦わないのか、という質問をする。
 だが、誰かが私を(そして家族を)殺そうとしているとき、対処方法は一つだけではない。つまり、戦うという方法しかないわけではない。まず、何よりも「逃げる」という方法がある。もちろん逃げても、敵は追いかけてきて殺すかもしれない。しかし、立ち向かっても殺すだろう。だから、まず最初は逃げる。
 こんな例がいいかどうかわからないが。
 安倍は暗殺された。それは逃げなかったからだ。たとえば大きな物音(銃声と思わなくても)がしたとき、安倍が逃げるとか、しゃがむということをしていたら、それだけでも事態は変わっていただろう。
 殺されたくなかったら、死にたくなかったら、まず逃げる。怖いものからは逃げる。これがいちばん。敵だって、逃げる人を追いかけて殺すよりも(その逃げている人が、とても重要なら別だが)、逃げずに戦いを挑んでくる人間を標的にするだろう。つまり、自分が殺されないようにしながら戦うだろう。
 それから、これから書くことの方がもっと大事。
 愛する人(大切な人)を守るために戦う、家族のために戦うというのと、「国家」のために戦うというのは別のこと。「国家」というのは、家族のように具体的ではない。抽象的な概念である。そんなもののために、私は戦えない。概念なんか、いつでも捨ててしまえる。ほかのものに取り替えても、何も困らない。「国家」というものが抽象的で、具体的ではないからこそ、戦争の問題が話題になったとき、ひとは「国家のために戦わないのか」と大上段に質問するのではなく、「家族が殺されようとしているのに戦わないのか、卑怯者」という具合に論理を展開するのである。抽象を具象に変えて、人を批判する。抽象的な概念のままでは、具体的な人間の行動を批判し続けることはできない、訴えることができないと知っているからだ。人間は、だれでも「具体的」にしか考えることができないし、行動することができない。だから、こう言う。「家族のために戦わないのは、男ではない」。(なんと、ずるい人たち!)
 はい、わかりました。
 でも私は言うのだ。「家族」は具体的だけれど、「国家」は具体的じゃない。そんなものは、私とは関係がない。たとえば、私が「家族」を考えるとき、飼っている犬も含めるが、それは他人から見れば「家族」ではなく単なる犬だろう。逃げるにも足手まといの存在だろう。具体的な存在というのは、それくらい「意味」が違う。「あなたの家族は?」と問われれば、私は「妻と犬がいる」と答えるだろうが、「あなたの国家は?」と問われたら、答えようがない。「国家」には天皇がいるのか、岸田がいるのか。いるかもしれないが、私は彼らを妻や飼っている犬のように具体的に考え、感じることができない。
 私は「ばか」だから(反知性主義者と批判されている)、具体的に考えられないものについては考えない。具体的に考えられないものに対して、ことばを動かさない。「愛国心」なんて、持っているひとの神経がわからないし、「愛国心」を主張するひとの考えもわからない。「家族」のために戦うのはわかる。でも「国家」のために戦うなんて、わからない。「家族」を守るためなら逃げるという方法があるが、「国家」をまもるために国家ごと逃げるということはできる? わけがわからないでしょ?
 こういうわけのわからないもの(抽象的なもの)が声高に語られるとき、それは大惨劇を生み出してしまう。たとえば、広島原爆を。
 アメリカは、日本という「国家」を破壊したかった。戦争ができない状況に追い込みたかった。でも、その「国家」というものをきちんと考えることをしなかった。広島は日本の一部である。つまり「国家」の一部である。だから、それを破壊すれば、「国家」が変わる。戦うことをやめる。たしかに、そうなったけれど、このとき破壊されたもの、犠牲になったのは「国家」ではなく、あくまでも市民という具体的な存在である。名前を持ったひとりひとりが死んでいったのであり、「国家」が死んだわけではない。
 人間というのは、いつでも「具体的」なのだ。多くの人を対象に「人間」を考えるのはむずかしい。だからこそ、「家族」でもいいし「友人」でもいいが、「具体的」に考え、そこから自分の考え(ことば)を点検しないといけない。
 広島の市民は、わけのわからない「国家」というものの存在のために、殺されたのだ。一義的にはアメリカが殺したのだが、日本という「国家」もまた広島市民を殺したのだ。「国家」がなければ、この惨劇は起きなかった。
 アメリカは、原爆投下を「国家」への攻撃という。しかし、実際は、「国家」という抽象的な存在ではなく、広島市民という「具体的な存在(人間)」への攻撃だった。原爆からは、だれも逃げられない。家族を守るために一緒に逃げる、ということができない。そういう逃げることができない市民を、アメリカは殺したのだ。このことは、絶対に、日本人として訴え続けなければいけないことである。

 すこし論点を変えて。
 今年の式典にロシアは招待されなかった。ウクライナへ侵攻し、核兵器の仕様も示唆しているということが原因のようだが、これももっと「具体的」に考えよう。核兵器がどんな惨劇をもたらすか、それがわかるのは広島と長崎だけである。そうであるなら、ロシアの代表は絶対に招待しなければならない。式典に招待するだけではなく、資料館に招待し、惨劇がどういうものであったか「具体的」に理解させる。被爆者の声を「具体的」に聞かせるということが必要なのだ。一発の核爆弾が何を引き起こすか、そのとき市民は「具体的」に、どんなふうに死んでいくのか認識できたら、核兵器を使用するということはできないだろう。
 死んでゆくのは「国家」ではなく「市民」である。原子爆弾ほど、「国家」を守ることと、「具体的な愛する人(家族)」を守ることの違いを明確に教えてくれるものはない。「逃げる」という方法を拒む、殺害されるだけというのが核兵器なのだ。

 

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ペロシのことばと読売新聞の書き方

2022-08-06 11:39:24 | 考える日記

 2022年08月06日の読売新聞(西部版、14版)。1面に「日米、台湾情勢で連携/首相、ペロシ氏と会談 中国演習批判」という記事が書いていある。ペロシの台湾訪問の続報。
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 岸田首相は5日、来日中のナンシー・ペロシ米下院議長と首相公邸で会談した。軍事的な緊張が高まっている台湾情勢をめぐり、日米の連携を確認した。首相は、中国による台湾周辺での大規模軍事演習を「地域や国際社会の平和と安定に深刻な影響を与える」と批判した。
↑↑↑
 中国が台湾周辺での大規模軍事演習をしたのは事実だ。そして日本のEEZ内にミサイル(?)が落下したのも事実だ。しかし、ここにはなぜ中国が台湾周辺で軍事演習をしたのか、その理由が書かれていない。私が何度か問題にしている「時系列」でいえば、「時系列」が省略されて、中国が突然一方的に軍事演習をしたように書かれている。
 中国の軍事演習はペロシの台湾訪問が原因だ。ペロシが台湾を訪問しなかったら、こういうことは起きなかった。
 ペロシは台湾訪問について、こう語っている。(番号は、私がつけた。)
↓↓↓
①ペロシ氏は議員団でアジアを歴訪しており、今月2~3日に台湾を訪問した。首相との会談後、東京都内の在日米大使館で記者会見し、「中国は台湾を孤立させようとしている。我々の台湾との友情は強固だ」と強調した。
②台湾訪問に関しては「台湾やアジアの現状変更が目的ではない」と説明。中国が、世界保健機関(WHO)など国際機関から台湾の締め出しを進めていることなどを挙げ、「中国は台湾の訪問や参加を妨げるだろうが、我々の訪問を阻止して台湾を孤立させることはできない」とけん制した。
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 この順序(時系列)で発言したのかどうかわからないが、①の「台湾の孤立化」とはなにか。②で「中国が、世界保健機関(WHO)など国際機関から台湾の締め出しを進めている」と言っているが、これか。もしそうなら、それは国際機関でアメリカが発言すればいいことだ。台湾を訪問する必要はない。
 さらに「中国は台湾の訪問や参加を妨げるだろうが、我々の訪問を阻止して台湾を孤立させることはできない」には、書かれていないことがある。「我々の訪問」とは具体的には誰のことか。たとえば日本の衆院議長のことか。ヨーロッパ諸国(NATO加盟国の首脳)のことか。主語が明示されているようで、明示されていない。もっと問題なのは、その訪問方法である。ペロシのように、軍用機(たぶん)で台湾に直接乗り込むのか。
 立場を変えて読んでみるといい。日本を例にして考えてみるといい。たとえば、ロシアや中国が、沖縄の米軍基地が沖縄県民を苦しめているという認識を公言し、米軍基地の撤去を求める沖縄県民と連携することを目的に、ロシア、中国の首脳が「軍用機」で沖縄を訪問したら、いったいどうなるのか。大問題になるだろう。
 しかもペロシ(あるいはアメリカ政府)は、「一つの中国」を認めていいる。それなのに①の「中国は台湾を孤立させようとしている。我々の台湾との友情は強固だ」というようなことを言うのは大問題だろう。(①の発言は、台湾でおこなわれたものではないが。)中国は台湾を孤立化、さらには独立させようとはしていない。
 「中国が台湾を孤立させようとしている」のではなく、ペロシが台湾を中国から「孤立/独立」させようとしている。そして、中国を、戦争にむけてあおっている。挑発している。
 もし中国と台湾が「統合」して、ほんとうの「一つの国」になったとき、困るのは誰なのか。台湾の住民か。何度でも書くが、中国人の基本的な姿勢は、金がもうかるならそれがいちばん、である。中国に統合されることでいまよりも金もうけができるなら、それでかまわないと考えるだろう。「金持ち」は、なんだかんだといって「自由」である。それが「資本(自由)主義」の根本。日本でも、貧乏人は「不自由」だけれど、金持ち(資本家)は「自由」でしょ? 政治家と連携して、なんでもできるでしょ? 統一教会は、平気で悪徳商法でもうけているでしょ? 
 共産主義の国になったら「金持ち」は「自由」に生活できない、ということはない。中国にもロシアにも「大富豪」はいる。彼らは「自由」だ。金さえあればなんでもできる、「権力」の一部になれる、というのは、もう「世界共通」の生き方である。それを私はいいとは思わないが、それが現実である。私は年金生活の貧乏人だが、世界をそんなふうに見ている。
 「貧乏人」でもないペロシが、では、何を考えているのか。「大金持ち」はまず自分の「金」を考える。貧乏人のことなんか考えたりはしない。どうやったら、もっと金もうけができるか。いま、世界経済において中国が占める部分は大きい。世界中で中国製品が売られている。私のスマートフォンは中国製だ。スペインの友人の何人かもおなじメーカーのものをつかっている。安いから、売れるのだ。中国製品が売れるということは、アメリカ製品が売れないということだ。(アップル製品は売れているが。)
 その中国に対して、なんらかの「抑圧」をかけることを考えたとき、アメリカは台湾を必要としているのだ。台湾の軍事基地を強化して、中国が「一つ」になることを阻止し続ける。それだけが狙いである。中国以上に、アメリカが台湾を必要としている。
 私のような「見方」は、アジア諸国では「常識」になっているように思える。
 これはASEAN関連会議のニュースを読めばわかる。読売新聞は、外電面で「米中巡り各国温度差」という見出しで内容を伝えている。見出しはさらに「マレーシア『双方の友人でいたい』」「カンボジア 台湾や香港『内政問題』」とつづく。ペロシが台湾を訪問したよかった、と発言している国はない。(読売新聞は、一覧表をつけている。https://www.yomiuri.co.jp/pluralphoto/20220806-OYT1I50025/)
 台湾問題を、米中の対立問題と見ていることがわかる。

 アジアの一国であるはずの日本は、しかし、まるでアジアの国ではないかのように、ひたすらアメリカの言うがままにしたがっている。ペロシに対して、どんな「疑問」も投げかけない。アメリカと一緒になって、中国と戦争をすれば金もうけができると考えている人間が、読売新聞の記者の中にいるということだろう。そして、その「見方」を読売新聞は正しいと言うために、情報操作しているということだろう。日本はアジアの国であるということろから、世界を見直す必要がある。連携すべきなのは、隣国の中国、韓国であり、アジアの諸国なのだ。10年先には、日本人は中国へ出稼ぎに行くしかないのである。日本の経済力が中国を上回るということは、今後、絶対にない。

 

 

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読売新聞のウソのつき方

2022-08-04 17:11:16 | 考える日記

 2022年08月04日の読売新聞(西部版・14版)の一面。「米台の団結を強調/下院議長、蔡総統と会談」という見出しで、こう書いている。(番号は私がつけた。)
↓↓↓↓↓
①【台北=鈴木隆弘、北京=大木聖馬】ナンシー・ペロシ米下院議長は3日、訪問先の台北で蔡英文総統と会談した。米国の台湾に対する揺るぎない支持を表明し、中国の脅威に直面する台湾との連携を強化する意向を示した。中国はペロシ氏の訪台に反発し、射撃訓練や軍事演習で圧力を強める構えで、緊張が高まっている。
②蔡氏は会談で「台湾海峡の安全は世界の焦点だ。台湾が侵略を受ければ、インド太平洋地域の衝撃となる。台湾は軍事的脅威に屈しない。台湾は民主主義を守り、世界の民主主義国家と協力する」と訴えた。
③ペロシ氏は「台湾が多くの挑戦を受けている中で、米台が団結することが非常に重要だ。それを外部に示すため、訪台した」と台湾重視を強調した。
↑↑↑↑↑
 ①は「前文」。記事全体のことを「要約」している。
 問題は②③の順序。これを読む限り、蔡が台湾の危機を訴え、ペロシが、台湾を守るということを中国に示すために台湾を訪問し、蔡との会談で、それを表明したと読める。どうしても、そういう時系列を想定してしまう。
 ところが、実際の「時系列」は違う。
 読売新聞は、「時系列」を「ペロシ下院議長の台湾での動静」という表にしている。
 (https://www.yomiuri.co.jp/pluralphoto/20220804-OYT1I50016/)
 それによると、2日深夜にペロシは台湾に到着し、そこで声明を発表している。「台湾の民主主義を支持するという米国の揺るぎない関与に敬意を評するものだ」。
 これは、非常にわかりにくい表現である。ことばを補うと、「台湾の民主主義を支持するという米国『政府』の揺るぎない関与に『下院議長として』敬意を表するものだ」ということである。アメリカの下院議長(立法機関のトップ)が、アメリカ政府(行政機関、バイデン大統領)の姿勢に敬意を表するために、台湾を訪問した」と言っている。台湾の姿勢を支持するために台湾を訪問したのではなく、アメリカ政府の姿勢を支持しているということを表明するために(アメリカでは政府と議会の意見が一致している表明するために)台湾を訪問した、と言っているのだ。つまり、台湾のことなんか、ぜんぜん気にしていないのだ。
 番号をつけるとすれば、これは「0」(出発点)なのである。
 これを受けて、蔡は①のように言っている。だから、ここにもことばを補えば、「『アメリカ政府が言っているように』台湾海峡の安全は世界の焦点だ。台湾が侵略を受ければ、インド太平洋地域の衝撃となる。台湾は軍事的脅威に屈しない。台湾は『アメリカと協力して』民主主義を守り、世界の民主主義国家『のリーダーであるアメリカ』と協力する」と言っているのである。
 つまり、これは、そう言わされているのである。もちろん、蔡は中国の侵攻を望んではいないが、侵攻を防ぐ手だてととしてアメリカとの軍事協力が最適であると考えているかどうかは、この発言からだけでは、わからない。
 蔡にそういわせておいて、ペロシは「アメリカと台湾の団結を示すために、台湾を訪問した」と念を押している。つまり、アメリカと協力しないなら、どうなっても知らないぞ、と脅しているのである。
 だからこそ、会談のあと、ペロシは釈明している。大慌てで、つけくわえている。
↓↓↓↓↓
④会談後の記者会見でペロシ氏は、1979年の断交後の米台関係を定めた「台湾関係法」に触れ、「『一つの中国』政策を尊重しながら、米台が共通の利益を進めるため制定された」と述べた。ペロシ氏の訪台に反発を強める中国に対し、配慮する思惑があったとみられている。
↑↑↑↑↑
 「『一つの中国』政策」に反対するわけではない、と。
 ばかみたいだねえ。「一つの中国」を認めているなら、中国が台湾を専用機(たぶん米空軍機)で訪問する必要はない。アメリカ(空軍)はいつでも台湾に上陸できる、ということを「見せつける」必要はない。中国の「許可(認可)」を事前にとって、中国本土を訪問し、ついでに台湾を訪問するということもできるはずなのに、そういうことはしていない。どうやって中国空軍の管制領域をくぐり抜けたのか知らないが、あくまでも、中国の「意思」とは無関係に、アメリカは台湾に米軍機を着陸させることができるかということを、「具体的」に「見せつけたの」のである。
 こんなことをされたら(つまり、アメリカ軍はいつでも台湾に、アメリカが望むときに上陸できる、ということを示されたら)、蔡は「アメリカに協力する」としか言いようがない。「アメリカのやり方には反対である」といえるはずがない。(蔡が実際に、どう考えているかはわからないが。)中国だって、こんなことをされたら気分がいいはずがない。「台湾は中国の一部(一つの中国)」なのに、アメリカの軍用機が「領空」を侵犯し、台湾に着陸したのである。アメリカの民間機でもないし、マレーシア(出発地)の民間機でもない。時間も、なんと、深夜である。

 問題は、ここからである。
 「台湾有事」がしきりにいわれているが、それはいったい誰が「望んでいる」ことなのか。台湾は、もちろん、そんなことを望んでいない。台湾が戦場になることを望むはずがない。
 中国はどうか。中国だって、望んではいない。世界から批判されるだろうし、だいたい、台湾に侵攻しなくても、中国の経済発展がつづけば、台湾は中国への「統合」を希望するだろう。そんなことは中国人なら、だれでもわかる。中国本土が「貧乏」だった時代に、金持ち連中が「台湾」へ逃亡したのである。いま台湾の金持ち連中は「中国」にも家を構えている。中国人は非常に明確な思想を持っている。アメリカ人以上に、「金持ちがいちばん幸せ」という考え方である。「中国」で金がかせげるなら、「台湾」を捨てて「中国」へ行く。「民主主義」なんて「金次第」と考えている。(と、書くと、台湾のひとに叱られるかもしれないが。中国人にも叱られるかもしれないが。)これは、金をかせげるなら、なんでも中国でつくり、それを世界に売るという「資本主義」を実践していることからもわかる。アメリカが何を言おうが、世界中が中国製品を買っている。それで中国が儲かっている。何か文句ある?というのが中国の生き方だ。この経済活動を中国人そのものが支えている。世界で中国製品を売って、中国人が金持ちになる、を着々と実践している。台湾に住む人(金持ち)も、その流れに乗りたいと思っているだろう。
 そうなったとき、困るのは、アメリカである。アメリカの製品が売れない。それが、アメリカにとっては困る。では、どうするか。中国の製品が、世界で売れなくなるようにするためにはどうすればいいか。
 ウクライナと同じことをすればいいのである。ウクライナをそそのかして、ロシアにウクライナ侵攻をさせる。ロシアを戦争を引き起こした国として批判すれば、世界の多くはロシアから製品を買わなくなる。経済ボイコットである。これは、成功するのか。ヨーロッパでは、半分成功したが、半分失敗している。ロシアのガスは確かにヨーロッパでは売れなくなった。しかし、その反動で、ヨーロッパはガス不足に陥り、ウクライナの小麦も輸入できなくなり、物価はどんどん上がっている。ヨーロッパの方が、音を上げ始めている。それだけが原因ではないが、イギリスでは首相が辞任した。イタリアでも、同じことが起きた。ヨーロッパ全体が、揺れている。アメリカも、アメリカの石油、武器が売れるのはいいが、物価高に苦しんでいる。
 ヨーロッパだけではうまくいかなかったから、それをアジアで展開することで、中国(経済)を封じ込めたい。それがアメリカの狙いだろう。アメリカの「経済的優位」をどうやって維持するか、を考えたとき、アメリカから遠い場所で戦争を起こし、その地域の「経済」をめちゃくちゃにするというのがいちばん簡単な方法なのだ。

 最初にもどろう。
 台湾が、ペロシに台湾に来て、と言ったわけではない。だいたい、それを訴えるなら、まず蔡がアメリカへ行って、「台湾はいま危機にされられている、助けて」というのがいちばんの方法だろう。ペロシが台湾に押しかけて、彼女の考えを押しつけたのである。ペロシの考えに同調するように、蔡に求めたのである。
 だれが最初に行動を起こしたか、だれが最初に発言したか。そこをごまかして、蔡が協力を求め、ペロシがそれに応じたという形で、ニュースをでっち上げてはいけない。
 ロシアがウクライナを侵攻したのは、確かにロシアが悪い。しかし、その前に何があったか。その隠れている「時系列」から、いま起きていることをみつめないといけない。
 安倍の暗殺もおなじ。安倍を殺したことは悪い。容疑者は悪い。しかし、容疑者が安倍を殺そうと思ったのはなぜなのか。そこから見つめなおさないと、何も解決はしないだろう。
 どんな行動にも「時系列」がある。そして、その「時系列」は、ときどき「操作」されて表現される。過去を隠しただけでは「ウソ」とは言わないかもしれない。しかし、それが知らずにしたことなら「ウソ」ではないだろうが、知っていて「過去」を隠して「時系列」をでっちあげるのは「ウソ」の始まりである。
 とんでもない「大ウソ」がはじまっている。そして、それに日本が巻き込まれる。わかっていて、読売新聞は、それに加担している。「別表」にしたペロシの「声明」を記事本文に書き込むだけで印象がまったく違うのに、あえて「時系列」がわからないように操作している。きっと、私のように、書かれている「素材」を組み立て直し「時系列」を確かめる読者はいないとタカをくくっているのだろう。

 

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