中井久夫が死んだ。
なんと書いていいのかわからない。
でも、書かずにいられない。
カブァフィス、リッツォスの訳詩。
そして、最初のエッセイ集『記憶の肖像』も好きな一冊だ。
実は、私は「特別版」を持っている。
カバーの写真が「裏焼き」なのだ。
中井さんからもらったものだが、もらったあと、「写真が裏焼きだった」と教えてもらった。
たぶん、すぐにカバーを作り替えていると思う。(確かめてはいない。)
ふと開いたページに「花と時刻表」という短い文章がある。
「今年の夏は福岡から佐賀、最後に山口と各駅停車の旅行をした。」とはじまる。
偶然開いたのに「福岡」の地名が出てくる。
その偶然の一致がうれしい。
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ふつうは「中井久夫が死んだ」と書かないだろうし、「(本を)もらった」とも書かないだろう。
しかし、私は「中井久夫氏が死去した」とか「本をいただいた」とか、書けない。
遠いひと、私とは無関係な「立派なひと」になってしまう感じがする。
もっと、「近しい」。
その感じを、ことばでごまかしたくない。
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新神戸の駅では佐賀県の入り口「唐津」までしか切符を売らない。後は向こうで買ってくれという。筑肥線の車中で乗り継ぎの手続きをするついでに、なぜかをたずねた。機械が出さないのだそうである。ほんとうだろうか。
これは書き出しの一行につづく文章だが、とても不思議な気持ちになる。
列車を乗り継いで、知らない世界へ入っていく。その知らない世界は、「出発地」では売ってくれない。
たどりついた場所で買い足さないといけない。
たどりついたところから、さらに少しずつ、少しずつ、先へ進む。
中井久夫が書いている「結論」はそういうことではないのだが(末尾の文章は美しいが、引用しない)、私は、いま引用した文章に中井の「生き方」を見る感じかする。