詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

広島原爆の日。

2022-08-06 18:28:32 | 考える日記

 広島原爆の日。
 原爆に限定せずに、戦争について考えるところからはじめたい。
 「戦争放棄(軍備放棄)」を語るとき、多くの人が、敵が愛する人(家族)を殺そうとしているの時、戦わないのか、という質問をする。
 だが、誰かが私を(そして家族を)殺そうとしているとき、対処方法は一つだけではない。つまり、戦うという方法しかないわけではない。まず、何よりも「逃げる」という方法がある。もちろん逃げても、敵は追いかけてきて殺すかもしれない。しかし、立ち向かっても殺すだろう。だから、まず最初は逃げる。
 こんな例がいいかどうかわからないが。
 安倍は暗殺された。それは逃げなかったからだ。たとえば大きな物音(銃声と思わなくても)がしたとき、安倍が逃げるとか、しゃがむということをしていたら、それだけでも事態は変わっていただろう。
 殺されたくなかったら、死にたくなかったら、まず逃げる。怖いものからは逃げる。これがいちばん。敵だって、逃げる人を追いかけて殺すよりも(その逃げている人が、とても重要なら別だが)、逃げずに戦いを挑んでくる人間を標的にするだろう。つまり、自分が殺されないようにしながら戦うだろう。
 それから、これから書くことの方がもっと大事。
 愛する人(大切な人)を守るために戦う、家族のために戦うというのと、「国家」のために戦うというのは別のこと。「国家」というのは、家族のように具体的ではない。抽象的な概念である。そんなもののために、私は戦えない。概念なんか、いつでも捨ててしまえる。ほかのものに取り替えても、何も困らない。「国家」というものが抽象的で、具体的ではないからこそ、戦争の問題が話題になったとき、ひとは「国家のために戦わないのか」と大上段に質問するのではなく、「家族が殺されようとしているのに戦わないのか、卑怯者」という具合に論理を展開するのである。抽象を具象に変えて、人を批判する。抽象的な概念のままでは、具体的な人間の行動を批判し続けることはできない、訴えることができないと知っているからだ。人間は、だれでも「具体的」にしか考えることができないし、行動することができない。だから、こう言う。「家族のために戦わないのは、男ではない」。(なんと、ずるい人たち!)
 はい、わかりました。
 でも私は言うのだ。「家族」は具体的だけれど、「国家」は具体的じゃない。そんなものは、私とは関係がない。たとえば、私が「家族」を考えるとき、飼っている犬も含めるが、それは他人から見れば「家族」ではなく単なる犬だろう。逃げるにも足手まといの存在だろう。具体的な存在というのは、それくらい「意味」が違う。「あなたの家族は?」と問われれば、私は「妻と犬がいる」と答えるだろうが、「あなたの国家は?」と問われたら、答えようがない。「国家」には天皇がいるのか、岸田がいるのか。いるかもしれないが、私は彼らを妻や飼っている犬のように具体的に考え、感じることができない。
 私は「ばか」だから(反知性主義者と批判されている)、具体的に考えられないものについては考えない。具体的に考えられないものに対して、ことばを動かさない。「愛国心」なんて、持っているひとの神経がわからないし、「愛国心」を主張するひとの考えもわからない。「家族」のために戦うのはわかる。でも「国家」のために戦うなんて、わからない。「家族」を守るためなら逃げるという方法があるが、「国家」をまもるために国家ごと逃げるということはできる? わけがわからないでしょ?
 こういうわけのわからないもの(抽象的なもの)が声高に語られるとき、それは大惨劇を生み出してしまう。たとえば、広島原爆を。
 アメリカは、日本という「国家」を破壊したかった。戦争ができない状況に追い込みたかった。でも、その「国家」というものをきちんと考えることをしなかった。広島は日本の一部である。つまり「国家」の一部である。だから、それを破壊すれば、「国家」が変わる。戦うことをやめる。たしかに、そうなったけれど、このとき破壊されたもの、犠牲になったのは「国家」ではなく、あくまでも市民という具体的な存在である。名前を持ったひとりひとりが死んでいったのであり、「国家」が死んだわけではない。
 人間というのは、いつでも「具体的」なのだ。多くの人を対象に「人間」を考えるのはむずかしい。だからこそ、「家族」でもいいし「友人」でもいいが、「具体的」に考え、そこから自分の考え(ことば)を点検しないといけない。
 広島の市民は、わけのわからない「国家」というものの存在のために、殺されたのだ。一義的にはアメリカが殺したのだが、日本という「国家」もまた広島市民を殺したのだ。「国家」がなければ、この惨劇は起きなかった。
 アメリカは、原爆投下を「国家」への攻撃という。しかし、実際は、「国家」という抽象的な存在ではなく、広島市民という「具体的な存在(人間)」への攻撃だった。原爆からは、だれも逃げられない。家族を守るために一緒に逃げる、ということができない。そういう逃げることができない市民を、アメリカは殺したのだ。このことは、絶対に、日本人として訴え続けなければいけないことである。

 すこし論点を変えて。
 今年の式典にロシアは招待されなかった。ウクライナへ侵攻し、核兵器の仕様も示唆しているということが原因のようだが、これももっと「具体的」に考えよう。核兵器がどんな惨劇をもたらすか、それがわかるのは広島と長崎だけである。そうであるなら、ロシアの代表は絶対に招待しなければならない。式典に招待するだけではなく、資料館に招待し、惨劇がどういうものであったか「具体的」に理解させる。被爆者の声を「具体的」に聞かせるということが必要なのだ。一発の核爆弾が何を引き起こすか、そのとき市民は「具体的」に、どんなふうに死んでいくのか認識できたら、核兵器を使用するということはできないだろう。
 死んでゆくのは「国家」ではなく「市民」である。原子爆弾ほど、「国家」を守ることと、「具体的な愛する人(家族)」を守ることの違いを明確に教えてくれるものはない。「逃げる」という方法を拒む、殺害されるだけというのが核兵器なのだ。

 


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