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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

読売新聞の「忖度」

2022-07-23 09:08:04 | 考える日記

 2022年07月23日の読売新聞(西部版、14版)の政治面(13S版)に統一教会と政治家とのことが見出しと記事。(番号は、私がつけた)

↓↓↓
①旧統一教会との関係 注目/自民・野党とつながり
②安倍晋三・元首相が銃撃されて死亡した事件を受け、政治と「世界平和統一家庭連合」(旧統一教会)の関係に注目が集まっている。旧統一教会は反共産主義の「勝共思想」を掲げ、自民党だけではなく野党ともつながりが指摘されてきた。
③安倍派に所属する末松文部科学相は22日の記者会見で、同連合の関係者が自身の政治資金パーティー券を購入していたと明らかにした。末松氏の事務所によると、2020年、21年にパーティー券計4万円分が購入されていた。
④末松氏側は、同連合に関連する集会に複数回、祝電も送っていた。末松氏は「常識の範囲内で何らやましいものはない。選挙活動に関連する支援は受けていない」と述べた。
↑↑↑
 ①は「見出し」。何気なく読んでしまう。そうか、自民党だけではなく、野党議員も統一教会と関係しているのか。野党も関係している、癒着が広がっている、というのがきょうのニュースか。ふつう、読者は、そう思って新聞記事を読み始める。
 でも、これは変だなあ。いままでの新聞報道のあり方からすると、こうはならない。つまり「作文」によってニュースの本質をごまかし、見出しでさらにごまかそうとしていることがわかるのが、きょうの読売新聞だ。「忖度」がいっぱいなのだ。
 この日のニュースは③なのである。つまり、安倍派(安倍と関係が深い)の末松が、パーティー券を統一教会側に買わせていた。(統一教会が買っていた、と読売新聞は書いているが。)2万円が2回、合計4万円。額をどうみるかは別として、資金集めに統一教会が協力していた。金が動いていた。これは、統一教会と安倍派の強い関係を示す「証拠」である。
 こういうとき、いままでの(といっても、かなり前になるかもしれない)新聞なら、

末松文科相パーティー券、統一教会購入/2年間、合計4万円

 という見出しになるはずある。はじめてわかった「事実」を見出しにする。いま、話題になっているのは、国会議員(とくに自民党、なかでも安倍派)と統一教会との関係である。資金集めパーティーに関係していたことがわかった。
 たぶん、このパーティー券購入は、これから次々に表面化するだろう。
 そういう意味でも、パーティー券と末松(安倍派の議員、しかも閣僚)は、絶対に見出しにしないといけない。
 ところが、読売新聞は、いままでの新聞の見出しの鉄則のようなものをあえて踏み外して、末松の名前を出していない。かわりに、「野党とつながり」と、視点を野党に向けるように誘導している。
 パーティー券問題(資金提供)を隠したいからこそ、④の末松の弁明には「パーティー券」ということばは出てこない。そして、「選挙活動に関連する支援は受けていない」とという末松は主張を「紹介」している。
 パーティー券問題を隠す、矛先を野党に向ける、というのが、読売新聞の「忖度」の仕方である。「忖度」は「事実」と「表現」の関係を、きちんと追わないとわからない。(きょうの朝日新聞の「社説」も、上っ面は議員を追及しているようだが、朝日新聞の求めている追及の仕方では、何もわからない。朝日新聞は、「社説」をつかって、わざと「追及しているふり」をして見せている。)
 私は、こういう「表現方法」を非常にきたならしく感じる。
 野党関係については、末尾に、こう書いている。
↓↓↓
⑤日本維新の会の松井代表(大阪市長)は22日、同連合の関連団体の集会に約20年前に出席したことを明らかにした。維新は、国会議員と地方議員を対象に同連合との関係を調査する方針を決めた。
⑥立憲民主党の泉代表も同日の記者会見で、複数の党所属議員が同団体関連の会合に祝電を出していたと説明した。国民民主党の玉木代表は、同連合の関連が指摘される「世界日報」の元社長から16年に計3万円の寄付を受けたと明らかにしている。
↑↑↑
 ⑤は「集会出席」で金の流れはわからない。
 ⑥は「寄付」だから政治資金収支報告書(?)に明記されているだろう。
 「寄付」は「パーティー券」とは違うのだ。「パーティー券」は、実際に、何らかの「パーティー」が開かれ、飲食もともなうから、それの「対価」と言い逃れることができる。「もうけ」を隠せる。つまり「隠れて資金提供する」ことにつながる。「寄付」は「隠れて」はできない。
 だからこそ、「金の流れ」を隠したいときに「パーティー券」を売るわけである。この問題があるからこそ、いつも「パーティー券」が追及される。今回も、それを追及すべきなのである。
 しかし、読売新聞は見出しに、パーティー券ということばをつかっていない。さらに本文を読んでもパーティー券という表現は、③に二回出てくるだけである。こういう書き方(報道の仕方)を「忖度」という。

 報道をしなくなるというだけが「忖度」ではない。すんでしまった東京五輪関係の不祥事を「特ダネ」として大々的に書くのも「忖度」である。安倍(自民党)と統一教会の関係から目をそらさせるための「忖度」である。
 安倍が民主主義を破壊した。それに目を向けないのは「忖度」である。

 

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朝日新聞の「忖度」

2022-07-23 08:01:14 | 考える日記

https://www.asahi.com/articles/DA3S15364477.html?fbclid=IwAR2dy9U45WS9dYBfp2I9OZMBpDfysyAAucmY1ynOq6Sr7wnvxP8liGaCmNQ

朝日新聞の「社説」(2022年07月22日)。

以下の部分、意味がわかりますか?

*******************************************************************************

選挙活動の組織的支援や政策への介入など、教団と政界の関係は種々取りざたされる。岸信介元首相以来の付き合いといわれる自民をはじめ、各党・各議員は自ら調査し、結果を国民に明らかにする必要がある。

***************************************************************************

各党・各議員は、自ら何を調査する?

「選挙活動の組織的支援」

これは、たとえば今回の参院選で、統一教会から何人がボランティアとして活動したか、ということ? 組織票として何票獲得したか、ということ?

これは、「ボランティア」と主張されたら、拒めないのでは?

組織票は、選挙の秘密(投票の秘密)があるから、やはり答えられない。

だれも答える必要はない。

「政策への介入」

たとえば話題になった「こども家庭庁」の問題? これだって、自民党の誰かが「とてもいい案だと思った」と言えば、すりぬけられる。

逆を調べる必要がある。統一教会からの「働きかけ」ではなく、議員側からの「関与」を調べ、公表する必要がある。

国会議員が(安倍が)、何回統一教会が関係する催しに参加したか、関与したか。いつ、どこで、何回、を調べないといけない。

ビデオメッセージもそうだが、雑誌の表紙になるとか、その具体的な媒体と、回数。

「儀礼的なあいさつ(つきあい)」だとしても、全部、公表する。

あるいは、秘書の「身元」をあかし、統一教会の信者かどうかを確認する。(宗教の自由があるから、これはたぶん調査しきれない。答えたくない、と拒否さればおしまい。)

政策にしても、「介入」があったかどうかではなく、何らかの「知恵」を借りたかどうか、統一教会のつかっている文言を「流用」していないかどうか。(これは、偶然の一致」があるからむずかしいけれどね。)

朝日新聞の社説は、さっと読むと「的を射ている(国民の声を代弁している)」ように見えるけれど、実際はあたりさわりのないことを「表面的」に書いて、その場をとりつくろっているだけ。

まともなことを言っているふりをしているだけ。

統一教会が何をしたかではなく、議員が統一教会に何をしたか、その見返りは?

それを議員に聞き、問い詰めないといけない。

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読売新聞の「文体」

2022-07-16 09:46:51 | 考える日記

 2022年07月16日の読売新聞(西部版、14版)に安倍銃殺事件のことが書かれている。
 なぜ、容疑者は安倍を狙ったか。(番号は私がつけた。)
↓↓↓
①山上容疑者が理由として挙げるのが1本の動画だ。
 「朝鮮半島の平和的統一に向けて、努力されてきた韓鶴子総裁に敬意を表します」。昨年9月、民間活動団体「天宙平和連合(UPF)」が韓国で開いた集会で、安倍氏が寄せた約5分間のビデオメッセージが流された。
(略)
②安倍氏を巡っては、首相在任中から同連合とのつながりを指摘する声が一部にあった。そうした中、安倍氏が公の場で韓氏を称賛する動画が流れたことで、SNS上では安倍氏と同連合が深いつながりがあるかのような根拠不明な投稿が広がった。
(略)
③「動画を見て(安倍氏は同連合と)つながりがあると思った。絶対に殺さなければいけないと確信した」と供述する山上容疑者。安倍氏の殺害を決意したのは、昨秋のことだった。

④ビデオメッセージは、同連合と関わりがあるUPFが安倍氏側に依頼して実現したという。しかし、安倍氏が同連合の活動に直接関わったり、支援したりした事実は確認されていない。
↑↑↑
 ①から③までは、すでに何度も報道されていることである。容疑者の「動機」を語っている。安倍は、容疑者の家庭を崩壊させた統一教会と関係がある。だから、殺そうと思った。要約するとそういうことになる。
 そういう一連の報道を踏まえた上で、読売新聞は④以下の「作文」を書き始める。①から③までは、事実だが、④は事実ではない。「安倍氏が同連合の活動に直接関わったり、支援したりした事実は確認されていない。」と書いているが、そのときの「事実」とは何か。「事実」を確認したのは、誰か。
 「確認されていない」にはふたつの意味がある。
 調べたが「確認できなかった」と、「調べていない」である。
 読売新聞は、だれが、いつ、どのようにして調べたかを書いていない。つまり、「調べていない」のである。「調べていない」から「確認できていない」。これを「確認されていない」とあいまいに逃げている。この「確認されていない」は、主語を補って言えば「捜査機関によってか確認されていない」なのだが、それを捜査機関が調べない限り「確認されていない」はつづく。なぜ、捜査機関はそれを調べないのか、ということを不問にして「確認されていない」と言っても意味はない。
 本来ならば、なぜ、捜査機関はそれを調べないのかを追及しないといけない。そして、捜査機関が調べないことを、読売新聞が独自に調べ、「事実」を明らかにしないといけない。ジャーナリズムとは、そういう存在である。「権力」が捜査しないなら、自分たちで調べる。そこから「特ダネ」も生まれる。捜査機関が発表したことだけを、そのまま垂れ流していたのでは、捜査機関にとって都合のいい「情報」だけが流布することになる。
 ④では「事実」ということばもつかわれている。ここでいう「事実」とは何か。安倍はすでにビデオメッセージを送っている。それは「支援」ではないのか。私から見ると「支援」である。読売新聞は「安倍氏が同連合の活動に直接関わったり、支援したりした事実は確認されていない。」と書いている。この文章を補足すると「安倍氏が同連合の活動に直接関わったり、直接支援したりした事実は確認されていない。」。つまり、ビデオメッセージは「間接支援」であり「直接支援」ではない、といいたいのである。
 ここでは「直接」の定義が問題になる。「事実」の定義と同様に。
 こういう部分を厳密にせずに、雰囲気で「作文」している。ここに大きな問題がある。最初から、安倍は統一教会と無関係であるという方向で「作文」しており、それを論理づけるために「事実」とか「直接」ということばが、あたかも「客観的視点」を代弁しているかのようにつかわれている。
 「直接関係」「直接支援」、あるいはその「事実」とは、ではいったい何が想定されているのか。金をもらっている。その代償として安倍が動いている、ということだろう。金の動きが証明されない限り「事実」はない、というのが読売新聞の立場である。ビデオメッセージの代償として金が動いていれば、安倍と統一教会は「直接」関係している。金をもらってビデオメッセージを送っていれば、「直接」支援したことになる、という考えである。
 しかし、「金」というのは、現代では単純に「円(札束)」を指すとはかぎらない。金を動かさず、人員を無償で送り込み、活動させるというのは「金」の動きを隠すための「方便」である。「ボランティア」を装い、無償という「金」の流れをつくりだすことができる。安倍のビデオメッセージにしても「無償」を言い張るかもしれないが、なぜ、宗教団体に(私は悪徳商法団体と思っているが)、「無償」のビデオメッセージを送るのか。なぜ、その団体なのか。その団体を選んだ段階で、それは「直接支援」になるだろう。

 この作文のあとで、読売新聞は、こうつづけている。
↓↓↓
⑤動画を見ただけで、安倍氏を殺害するというのは、動機としてはあまりにも不可解で、論理に飛躍がある。
⑥精神科医の片田珠美氏は「動画やSNS上の根拠不明な情報を見て、『怒りの置き換え』が生じたのではないか」と指摘する。
「怒りの置き換え」とは、元々怒りを向けていた相手にぶつけられず、他の人物に矛先を変えることを指す。
(略)
⑦片田氏は「容疑者は恨みの感情に長年とらわれ、相手を置き換えてでも復讐を果たさないと精神の安定が保てない状態に陥っていたのだろう」と推測する。
↑↑↑
 ⑥は読売新聞(記者)の考えである。記者には「動機」が理解できず(不可解)であり、「論理(動機)に飛躍がある」ように見えた。(私には、容疑者の動機も論理も、自然なことのように思える。合理的に見える。)
 読売新聞(記者)は、その「理解不能な論理」の説明するために、⑥のように精神科医の「分析」を持ってきている。代弁させている。精神科医も、こう言っている、というわけである。
 この手法は、なんというか、私には「墓穴」のように見える。
 もし容疑者が、⑦で精神科医(これが、問題)の指摘するように、「精神の安定が保てない状態」だったとしたのだとしたら、容疑者は裁判では「無罪」になるかもしれない。罪は問われないことになるかもしれない。安倍を擁護する一方、容疑者を裁けなくなる可能性が出てくる。
 読売新聞(記者)は、そこまでは考えずに精神科医を取材し、「作文」を書いている。ただ、安倍を擁護するためにだけ、記事を仕立てている。

 新聞記事には、「事実」を書いたものと、「事実」というよりも「意図的な作文」がある。
 「事実」には、第三者(捜査機関、あるいは、今回のような精神科医)の調べたこと、主張していることがある一方、記者が独自に調べた「事実」がある。そのなかには、今回の「作文」のように、記者が独自に(単独で)精神科医に取材したもの(他社の記者が同席していたわけではないだろう)もある。
 この関係を見極めながら報道を読む必要がある。

 

 

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「お友達政治」を徹底追及する好機

2022-07-14 19:14:30 | 考える日記
安倍は殺害された。
しかし、それは安倍の政治信条が原因ではない。
たとえば、安倍の提唱する改憲運動に反対する誰かが安倍を殺害したのではない。
アベノミクスによって貧困に陥れられた誰かが安倍を殺害したのでもない。
安倍は、悪徳商法団体(宗教団体を名乗っている)の宣伝をしていた。悪徳商法に深く関係していると思われていた。(実際、無関係ではないだろう。)そして、悪徳商法の被害者(そのひと自身は、被害者とは思っていないかもしれない。なぜなら、そのひとにとっては、その団体は「宗教団体」だったからだ)の家族によって殺害された。
ここには、ふたつの認識が交錯している。
どの認識の側に立つかは、それぞれの「宗教観」「道徳観」によって違うだろう。私は「無宗教/無神論者」なので、単純に悪徳商法団体と被害者(の家族)、悪徳商法団体とそのPR活動の視点から、今回の事件を見ている。
つまり、安倍は、政治家として殺害されたのではなく、悪徳商法団体の宣伝マンとして殺害された、と私は見ている。
で、これが、なんというか、問題をややこしくする。
悪徳商法団体の宣伝マンが殺害された(いわば、一般市民が殺された、営業活動に熱心だったひとが殺された)ということになる。
では、そのひとが悪徳宣伝マンだったから殺害されていいかどうかになると、これは、また違った問題になる。
どんな人間だって、殺されていいわけではない。殺したっていいわけではない。
どんなときでも殺人に対しては、それを否定しないといけない。
で、ここからである。
殺人は否定しなければならないが、その否定の過程に、事実関係以外のものが入ってくるとおかしくなる。
安倍は、私の見る限り、悪徳商法団体の宣伝マンをしていたから殺されたのであって、政治家として殺されたのではないのだから、今回の事件の本質を見極め、加害者の行動をどう批判していくかは、慎重にならないといけない。
でも、その一方で、安倍が悪徳商法団体の強力な宣伝マンになりえたという背景には、安倍が政治家だったからという側面がある。安倍が政治家でなかったら、安倍は宣伝マンにはなり得なかった。
ここからまた別の問題が出てくる。
なぜ、安倍は悪徳商法団体の宣伝マンになったのか。きっと悪徳商法団体から多額の金が安倍に流れていたからだと思う。
金をもらわずに、安倍が、宣伝マンになるはずがない。「お坊っちゃま、偉い」と言って、金をくれるひと以外を優遇するはずがない、と私は安倍を把握している。
安倍は、宣伝マンになるとき、政治家という肩書を利用したのである。
安倍の政治家としての「資質」が問題になってくる。
この「資質」を抜きにして、安倍を擁護するのは、なかなかむずかしい。
「政治家としての資質」がないから、その政治家を殺していいとは言えないからだ。
殺害は悪いことである。
それを基準というか、論理の出発点にしてしまうと、問題は簡単にすり替えられてしまう。
経済的困窮に陥った男が、現実認識をあやまり、安倍という政治家を殺害した。安倍は完全な被害者だ。
政治家を追放するには、政治家を選ばない(選挙で落選させる)だけでいい。命を奪う必要はない。これが民主主義の鉄則である、という論理があっというまに広がる。
でも、こういう論理を広げてしまう人たち(さらには安倍のやってきた政治的失敗を、功績のように言い立てる人たち)は、いったい何を見ているのだろうか。
「政治の理念」「政治倫理」、あるいは「人間の倫理」について、ほんとうに考えているのか。
悪徳商法団体から金をもらうこと、悪徳商法団体があるのをしりながら、その団体を規制する法律をつくろうとしない「政治家」がほんとうに「政治家」といえるのかどうか。
安倍だけではない。多くの「政治家」が悪徳商法団体とつながりをもっている。なぜなのか。金が動いているからだろう。悪徳商法団体が市民をだまして奪い取った金が政治家に還流しているからだろう。
日本では「金の流れ」を「政治」と呼んでいる。「金の流れ」によってできる人間関係を「政治」と呼んでいる。その「人間関係(だれがだれに金を供与するか、その見返りになるにするか)」が「政治」と呼ばれている。
別なことばで言えば、「だれとだれがお友達であるか」が「政治」なのである。「お友達」であれば、たがいに助け合う。「お友達」でなければ、知らん顔。
ここまで書いてくると、安倍のやってきた「政治」そのものと重なる。
だから。
ある意味では、ほんとうに「日本の政治」が問われているということでもある。
いま、「殺人」という衝撃的な事実によって、「安倍の政治(お友達政治)」が隠蔽されるなら、日本には「政治」(民主主義)は存在しないことになる。
「司法」によって、「金」と「お友達政治」の関係を明確にする必要がある。
安倍のつくりあげようとした民主主義ではなく、本来の意味での民主主義が、いま、たいへんなところに追い込まれている。
でも、この「たいへん」は、逆に考えれば、「安倍のお友達民主主義」を徹底的に批判する好機でもある。
私は、そう考えている。
国会で(なぜ、すぐに開かないのか)、弱小化した野党が(特に立憲民主党が)、この問題をどれだけ追及できるか。
それが、これから問われる。
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第二の豊田商事事件

2022-07-13 08:49:48 | 考える日記
私は、宗教にはぜんぜん関心がないので、統一教会は宗教団体だと思っていた。
で。
もし、統一教会が悪徳商法団体だったと仮定すると。
思い出すのは、豊田商事事件(豊田商事社長殺害事件)だなあ。
そうなると、もうこれは、政治とは関係がないなあ。
あるいは逆に、政治そのものだなあという気もしてくる。
安倍に、統一教会から、いくら金が流れていたか。
金の流れが、自民党を支配している。
自民党は、金さえ入ってくれば、それがどんな金か気にしない。
自民党は「マネーロンダリング組織」ということになるかもしれない。
私はテレビを見ないし、新聞も熱心に読んでいるわけではないが、どうしてだれも豊田商事事件を引き合いに出さないのだろうか。
豊田も、たしか、白昼堂々(?)と殺されたと記憶しているのだが。
まあ、豊田を出せば、安倍殺害は、「第二の豊田商事事件」になってしまうから、それをマスコミは避けているのかもしれない。
そうだとしたら、これは、問題だね。
「第二の豊田商事事件」にしてしまうと、被害総額なんていうのも書かないといけない。
どうしたって金の流れを克明に追うことになるからね。
でも、書いてほしいなあ。
そういう「取材能力」のある記者はいないのかな?
 
 
 
 
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安倍暗殺と宗教

2022-07-11 14:24:26 | 考える日記

 安倍暗殺事件の展開が、私には、とても奇妙に見える。
 容疑者は、宗教団体に反感を持っていた。そして、宗教団体の幹部を狙うかわりに安倍を狙った。その宗教団体はカルトである……。
 私は無宗教(無神論者)であるから、どの宗教が正しくて、どの宗教がカルトかという区別はしない。宗教は、個人の問題であって、その好みについて、私は判断することを最初から放棄している。宗教ではなく、論理の問題としてなら語りたいことはあるが、宗教については語りようがない。

 さらに気になるのは、容疑者と宗教の関係が、彼自身の宗教ではない、ということである。彼が統一教会か何かを信じていて、その教義にしたがって安倍を狙ったというのなら、まだ「カルト宗教」と犯罪の関係を追及するということも意味があると思うが、新聞の報道で読む限りはそうではない。むしろ、母親を奪い去った宗教を憎み、それが行動の発端のように書かれている。
 そうであるならば、彼は「カルト宗教」の反対側にいることになる。
 それなのに、なぜ、彼自身が信じてもいない宗教が問題視されるのか。

 また、安倍がその宗教と関係があったから狙われたというような具合に読むことができる報道もある。そうであるなら、そのカルトと分類されている宗教を信じていた安倍に問題があり、容疑者には問題がないという具合にも読むことができる。安倍はカルト宗教を信じていた(利用していた)から、犠牲になったのだ、と。 
 いわば、そういうものを信じた安倍が悪い。こう考えると、宗教を持ち出してくることが、見当違いだとわかる。

 考えなければならないのは、いま、ここで宗教を持ち出してくる「意味」である。

 自分の信じていない宗教を「カルト」と認定することで、何か、自分の信じていることを守ろうとする別の「論理構造」がそこには存在しないか。
 自分とは違う存在を攻撃・排除することで自己自身を守ろうとしていないか。
 容疑者の犯行を批判することと、彼が信じているわけでもない宗教を批判することは、別問題なのに、何かが混同されている。そして、その混同を支えているのが「排除の論理」なのである。彼は、ふつうの人間ではない、という判断である。
 もちろん人を殺すくらいだから、彼は「ふつうの人間」ではないだろう。しかし、その「ふつうではない」の定義をどうするかが、問題なのだ。
 この問題を、宗教と結びつけることは、とても危険だ。個人のこころの自由を踏みにじり、ある特定の宗教をおしつけるという動きが次にやってくるはずである。

 統一教会に対する「排除の論理」は、つぎつぎに小さな宗教団体に適用され、疑いの目で見られる。それはやがて、私のような無神論者にも向けられるだろう。政府が推奨する宗教(靖国神社の宗教)を信じない人間は、政府に敵対する人間である、という具合にである。そして、それは宗教だけではなく、やがて政府の政策に反対する人間は、政府の要人暗殺計画を企てている人間である、という具合に論理を飛躍させることになるだろう。その論理飛躍の「萌芽」のようなものを、私は感じている。

 だれが計画し、準備したことなのかわからないが、「事件背景を説明する論理」については、慎重に見極めなければならない。安倍利用の動きは、「弔い合戦(弔い選挙)以外にも、こんなところにもあるのだ。

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NATO拡大の裏で何が起きているか

2022-07-10 23:06:44 | 考える日記


 参院選の開票速報が報道されている。憲法改正がこれからのテーマになるが、見るでもない、聞くでもなしに、やり過ごしながら、スペイン旅行を思いだしながら、こんなことを考えた。9条改正、緊急事態条項とは別なことである。原発問題である。電気代の高騰が、友人たちのあいだで常に話題になった。

 ロシアのウクライナ侵攻以来、石油、ガスが高騰している。電気代の高騰は、このあおりである。これを解消するために、きっと、これから原子力発電が重視されるだろう。いまのところヨーロッパでは、フランスが原発推進派に見える。ドイツは慎重派だ。スペインは風力発電に力を入れいているが、この先の動きはフランス追随になると思う。フランスが原発を増設すれば、その動きはドミノ倒しのようにヨーロッパ全体に広がっていく。石油、ガスを持たない国は、発電を原子力に頼るしかないのだ。
 もちろん太陽光発電や風力発電、その他の再生可能エネルギーをつかった発電も試みられるだろうが。

 で。
 この原子力発電だが、これは電気(電気代)だけの問題ではない。原子力発電は、電力以外に、原発の「原料」を産み出す。これが、原発推進に拍車をかけることになる。
 ロシアのウクライナ侵攻以後、NATOが拡大した。フィンランド、スウェーデンが加盟した。ロシアに侵攻されないためというのが理由だが、その侵攻の「抑止力」が原子爆弾である。フィンランド、スウェーデンが実際に核武装するというわけではないが、NATOの拡大にあわせてアメリカの核は増強されるだろう。その「原料」はアメリカだけでも調達できるだろうが、アメリカはきっとそれぞれの国に「分担」を求めてくるだろう。そのとき原発が必要になる。
 東京電力福島原発の事故後も、日本の政府(自民党)が原発稼働にこだわり続ける理由はここにある。日本が核武装するかどうかは別にして、もし核武装するなら、原料が必要になる。原発を稼働させておく方が便利なのだ。そしてまた、そこで培った技術を売ることもできる。以前にも、そういう動きはあった。ただし、それは「世論」の反対もあって頓挫したが、いまは状況が違ってきている。電気代の高騰は世界中の話題である。
 ヨーロッパは、日本と違い、地震が少ない。地震の被害については考えないだろう。ヨーロッパに対して日本は原発輸出を試みるだろう。日本の原発産業にとっては、NATOの拡大は、一種の、商売の機会なのである。
 岸田がスペインで開かれたNATO会議に出かけたのも、軍事同盟以外に、そういう問題が絡んでいると思う。ロシアのウクライナ侵攻を契機に、「商売」をしようとしてるのである。

 こんなことを書くのも……。
 実は、私はスペインの家庭では、もうガスがほとんどつかわれないのを見たからだ。私の生まれ故郷のような村、いちばん近いスーパーまで車で30分かかるような家でも、ガスに頼っていない。電気に頼っている。調理も、湯沸かしも電気である。電気で、どう生活するかと考えたとき、原発は必需品になり、その原発から核兵器の原料も抽出できる、という軍事と電力産業が手を取り合っての運動がこれからはじまるのだ、と、私はスペインをぶらぶら歩きながら考えたのだった。NATOの拡大会議(?)が、そんなことを連想させたのだった。

 

 

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ベルリンの壁崩壊はいつだったか(2)

2022-06-03 10:30:10 | 考える日記

 ロシアのウクライナ侵攻後、しきりに「台湾有事」が話題になっているが、このテーマは、世界で起きていること(市民が抱えている問題)とアメリカの世界戦略の「違い(ずれ)」を明らかにしている。
 ベルリンの壁崩壊後、世界で起きたことは「民族の自立/文化の多様性」への動きである。「ソ連」という「頭で作り上げた国家」が拘束力をなくした後(理念をなくした後)、「国家」から解放された市民(民族)が本来の「国」を意識し、動き始めたのだ。「東欧」での様々な国の「独立」は「ソ連」という「国家意識」の解体と同時に起きたのだ。「ワルシャワ条約機構」とは「ソ連という国家意識の延長(拡大)」だったのである。
 「民族/文化の自立」を中国に当てはめると。
 「台湾」ではなく、たとえば「新疆ウイグル自治区」こそが「焦点」である。少数民族に対する弾圧が問題になっている。この弾圧からの開放は「少数民族」が「独立」することで解決する。ユーゴスラビアからのいくつもの国の「独立」のように。
 しかし、アメリカ資本主義(軍国主義)は、この問題では中国の「国家戦略/人権弾圧」を批判こそすれ、「新疆ウイグル自治区有事」とは決して言わない。なぜか。それは「地理学」と関係している。「新疆ウイグル自治区」は大陸の内部にあり、アメリカは「新疆ウイグル自治区」との「接点(国境)」を持ち得ないからである。「台湾」は違う。太平洋を通じてつながっている。日本も近い。いつでも「台湾」を拠点(基地)にして中国へ攻撃をしかけることができる。「新疆ウイグル自治区」をアメリカの基地にするのは、とてもむずかしい。軍備の補強が「空路」にかぎられてしまう。いわゆる「制空権」は中国が支配している。アメリカが支配することはむずかしい。
 アメリカの世界戦略は、「土地」と関係しているが、「個人の理想(思想)」とは関係がない。「民族の自立」とは関係がない。「文化」とは関係がないのだ。
 台湾と中国の間には、たとえば中国と「新疆ウイグル自治区」との間にある「文化的対立」はない。「民族的対立」はない。厳密にいえば違うだろうが、漢字文化を生きている。中国語を生きている。つまり、同じ民族なのだ。この同じ民族を対立させるとしたら、それは「イデオロギー」であって、そういうものは「文化の自立/民族の自立」とは関係がない。「イデオロギー」が解体すれば、一瞬にして「和解」してしまう。この好例を、私たちは「東西ドイツの統一」を通して知っている。東ドイツ出身のメルケルが首相になるくらいである。「ことば」が同じなら、「民族」はあっと言う間に融合する。
 この逆が、東ヨーロッパで起きたいくつもの国の「独立」。「ことば/民族」が「国家意識」が解体した瞬間に、あっと言う間にそれぞれのアイデンティティーにしたがって、分離・独立したのだ。
 朝鮮半島の南北対立も、「国家意識」(政治体制)が解体すれば(どちらの、とは言わない)、民族はあっと言う間に融合するだろう。「国語/民族/文化」が同じなのに、それが「国家」にわかれてしまうのは、生きている市民のせいではなく、「政治体制」にしがみつく権力者のせいなのである。権力者が「自己保身」に固執する限り「分断国家」の悲劇は起きるのだ。

 ここからもうひとつの問題が生まれてくる。ヨーロッパ(特に、いわゆる西欧)は、いろいろな国からの「移民」を受け入れている。その結果として、「国家」は「多重文化化(文化の多様性)」へ向かって動く。そのとき、この「文化の多様性」に対する不満が、昔からそこに住んでいた市民の間から生まれる。「文化の多様性」を「自分の文化への侵害/自分の生きる権利への侵害」と受け止める市民が出てくる。いわゆる「極右」の運動というのは、それに通じる。フランス大統領選でマクロンが苦戦し、ルペンが票を伸ばしたのも、これに関係する。ロシアのウクライナ侵攻によって「物価高」が進んだことも要因だが、背後には、「民族/文化」の問題がある。これは、イギリスではEUからの脱退という形で起きた。背後にはじわじわと進む「文化の多様化」に対する不満があると思う。「文化の多様化(多民族の移住)」によって、昔からそこに生きてきた市民が圧迫を感じ始めている。
 この「圧迫」からの開放は、NATOの拡大によって解消されるということは絶対にない。NATOはロシアを(あるいは、このあと中国を)仮想敵国として浮かび上がらせることで、NATOを「国家理念」にしようとしているだけだ。「仮想敵国」がなくなれば、いや「敵国」というものがなくなれば「軍事同盟」など意味が持たない。軍事によって「国家」を維持するということは意味を持たない。敵が侵攻して来ないからだ。
 そのとき、つまり「敵(国家)」が消え、NATOがワルシャワ条約機構のように解体したとき、それまでNATOという「理念」で支配されていた多くの民族が、もう一度、「独立」するだろう。いろいろな国から移住してきた「民族」が「団結」し、ある地域に終結し、「独立」を求めるということが起きるかもしれない。

 文化の多様性、個人の尊厳の重視、という視点からアメリカの世界戦略(NATOを中心とした軍事資本主義)を見直さない限り、世界に平和は来ない。NATOのもたらす見かけの「平和」は軍事産業をもうけさせるだけのものである。アメリカはいま、ウクライナに武器を大量に与え、戦争を長引かせようとしている。つまり、アメリカ軍需産業の利益が増え続けるようにしている。ロシアが撤退した後、アメリカの「資本主義」がウクライナを支配するだろう。農産物の生産システムをアメリカ資本がのっとってしまうだろう。より合理的なシステムをつくり、ウクライナ人を労働者としてこきつかい、搾取をはじめるだろう。そのとき、多くの市民は、アメリカの資本主義とは何かを知るのだ。ヨーロッパをアメリカの「植民地化」する実験がウクライナでおこなわれたことを知るのだ。戦争が終わっても小麦の値段は下がらない、ひまわり油の値段も下がらない。アメリカの言うがままの価格で、すべての商品が世界を支配する。ものが世界を支配するのではなく、アメリカの設定した「価格」が世界を支配する。
 これを最初に批判するのは、だれだろうか。岸田(安倍)では絶対にない。マクロンでも、ショルツでもないなあ。

 

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ベルリンの壁崩壊はいつだったか

2022-06-02 16:38:07 | 考える日記

ベルリンの壁崩壊はいつだったか

 ベルリンの壁崩壊は、いつだったか。1989年11月9日。これを思い出せる人はだんだん少なくなってきている。というか。それを知らない人が増えてきている。もう30年以上前になるからだ。テレビでちらりと見た、という記憶は30代後半の人にはあるかもしれない。しかし、このとき起きたことを「衝撃」として受け止めた記憶を持っている人は40代後半からだろう。つまり、「世界地図」を頭に描き、そこに政治を重ねることができる(世界政治の意識を持つことができる)年代を「高校卒業=18歳」と仮定すると、ベルリンの壁崩壊をしっかり把握しているのは、いまの50歳くらいからなのである。
 そして、その2年後、1991年末にソ連が崩壊した。新しい国が次々に「独立した」。「ソ連」というのは「概念/理念」であり、「概念」の束縛から、それぞれの「民族/文化(ことば)」が独立した。私がそれ以前に覚えていた「チェコスロバキア」は「チェコ」と「スロバキア」にわかれたし、「ユーゴスラビア」はさらに複雑で「スロベニア」「クロアチア」「マケドニア」「ボスニア・ヘルツェゴビナ」「セルビア」「モンテネグロ」と分離独立した。もっともこれは、テキトウに書いているので正確ではないかもしれない。こんなことは、よほど地理と歴史に詳しくないとわからない。
 で、こんなよくわからないことを書き始めたかというと。
 いま、ロシア侵攻によって起きていることが、どうしても、ベルリンの壁崩壊、ソ連解体のときに起きたこととは逆方向の動きに感じられるからである。「ソ連(東欧=社会主義国)」というのは、ひとつの「概念/理念」で結束していた「組織」であって、その「組織(理念)」の内部には「文化(言語)/民族」が「理念」とは別に存在し続けていた。「理念」が拘束をやめると「民族」が「文化/言語」にもとづいて「独立」した。「民族/言語/文化」というのは、たぶん「無意識になってしまった連帯力」であり、それは「理念」を超越している。このことを忘れて、「理念」をふりかざしても、結局、その「理念」は破綻するしかない、と私は思っている。「ソ連」の崩壊と、それにつづく「民族独立」の動きから、私は、そう考えている。
 ところが。
 NATOは、逆のことをしようとしている。いくつもの民族、文化(言語)をNATOという「理念」によって「統一」しようとしている。これは、絶対に、できるはずがない。民族、文化(ことば)に対して「自立意識」をもっている人間がいる限り、それを「超越」した枠組みは常に批判され続ける。「理念」からはみ出して生きる、支配を嫌って自由に生きるのが人間の「宿命」のようなものだからである。
 いま、フィンランド、スウェーデンのNATO加盟をめぐってトルコが反対しているが、こういうことはこれからも起きるし、さらにNATOの拡大を、「理念の押しつけ」と感じ、対抗する動きはさらに高まるだろう。ロシアだけではなく、多くの国が不安を感じるだろう。
 NATOの主要国(そして、その主要国になったつもりでいる岸田=安倍)は、NATOが拡大すればNATOは安定すると思っているだろうが、きっと逆である。
 NATOは、新しい「植民地主義」なのである。「軍国主義」と「資本主義」が組み合わさった強力な支配体制であり、それは次々に「仮想敵国」をつくあげることで「連帯」を強化し、その強化された「アメリカ軍国主義的資本主義」の支配下で固有の文化(民族/ことば)が奪われていく。より合理的にものをつくり、売りさばくには「多様な言語/多様な文化」はじゃまである。「ひとつの言語/ひとつの文化」の押しつけがはじまるだろう。すでに日本では、「論理国語」だかと「低学年での英語教育」がはじまっている。
 それくらいでは、固有の「文化/ことば」が崩壊しない、と考える人は多いかもしれない。しかし、きっと反動のようにして、別の動きがはじまる。
 アイデンティティを否定する動きに対しては、かならず、反発が生まれる。「概念/理念」で人間を支配できるのは100年もつづかないのである。ソ連の誕生、ソ連の崩壊、その後の周辺国の動きを見れば、それがわかる。

 かつて「西欧」の植民地であったインド、アフリカの国々が、いま起きているNATO拡大の動きをどう見ているか。その視点を忘れてはならない。もし寄って立つべき「視点」があるとすれば、「植民地」であることを拒絶して「独立した国」の「視点」だろう。「支配の理念」ではなく「独立の理念」から、いま起きていることを見つめなければならない。
 アメリカの支配下を生きることが「独立」と思い込んでいる岸田=安倍には、絶対に見ることのできない世界がある。
 「支配」ではなく、「多様な生き方(文化)の共存」という視点から見つめなおさない限り、ロシア・ウクライナの問題は解決しないと思う。ロシアは最終的には敗北するだろうが、それは決してNATOの勝利にはつながらない。「理念」は絶対に「勝利」できない。世界は「支配-被支配」でできているわけではないからだ。

 ロシアは必ず敗北する。私はそれを確信している。しかし、ロシアがウクライナから撤退した後、ヨーロッパがNATOに完全支配された後、そこに「自由で安全な世界」が確立されるとは思わない。アメリカの資本主義と、その資本主義が引き起こす幻の自由は、それぞれの民族・文化を駆逐しようとして動くはずだ。それに抵抗する運動がかならずおきる。
 スペインというか、キリスト教というべきか。コロンブスが引き起こした南北アメリカ大陸の「制圧」に対して、いま、少しずつ抵抗(反撃)の動きがはじまっているが、21世紀は、そこから大きく変わっていくと思う。多様な文化(民族/言語)の共存の先にしか、人間が生き残る方法はない。
 単純に、日本のことを考えればわかる。老人がどんどん増え、働き手がいなくなる。社会が成り立たなくなる。どうしたって他の国からの人的支援に頼るしかなくなる。多くの国から、多くの言語を持った人間を受け入れ、共存するしかないのだ。日本が「多文化/他国語化」していくしかない。そうでなかったら、日本人が日本にやってくる外国人労働者のように、中国やインドへ「出稼ぎ」に行くしか方法がない。その「出稼ぎ」に行った中国やインドで、「日本人」は「日本語/日本文化」をどうやって引き継いでいくか。ここでも「国語(日本語)」や「日本文化」というものが問題になってくる。
 これから考えなければならいないのは、そういうことなのだが。

 こういうことは、ベルリンの壁崩壊、ソ連の解体を現実問題として見た記憶のない世代は思いつかないだろうと思う。
 安倍や岸田のように、自分を「欧米の白人」と思っている人間にも思いつかないだろう。金さえあれば「自由」で「豊か」だと思っている人間には、想像もつかないだろうが、世界は変わっていくのだ。変わっているのだ。
 プーチンの言っていることを支持するつもりはないが、ウクライナ侵攻の「理由」がロシア系住民への圧迫(暴力)であったことを、いま一度、思い返すべきである。「国語/文化」の問題は、21世紀のいちばん大きな課題だ。

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「かきまぜる」

2022-05-26 14:15:31 | 考える日記

 捨てようとしたノートから、紙がこぼれてきた。こんなことが書いてあった。
 ひとつの新しいことばが加わることで、それまでのことばの意味づけ(価値)が変わってくる。そういう運動をひきおこすのが詩のことばである。
 たとえば「かきまぜる」という動詞。
 エリオットの詩のなかにあっても、日常の会話のなかにあっても「意味」は同じだ。
 だが「荒れ地」のなかでは特別な意味を持つ。それは「生と死」を「かきまぜる」。反対のものをかきまぜる。「異質なもの」を超えて、反対のものをかきまぜる。
 だから驚く。詩を感じる。

 ことばには一定の結びつきがある。水と小麦粉をかきまぜる。水と油をかきまぜる。これは「異質なもの」をかきまぜる。かきまぜるには、「異質」であることを無視してしまう乱暴さ(暴力)がある。
 ここまでは、これまでの「ことば」が体験してきたことである。それは「ことばの肉体」になっている。「無意識の文体」と言っていいかもしれない。
 エリオットのことばは、この「文体」を破ったのだ。
 ことばがそれまで結びつけてこなかったものを結びつけ、新しい世界をつくったのだ。いや、つくったといってはいけないのかもしれない。つくろうとしている。その動き(進行形)のなかに、詩がある。

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「戦争」と物価

2022-05-25 10:04:46 | 考える日記

 2022年05月24日の読売新聞(西部版・14版)の「いまを語る」は、東大教授・渡辺努のインタビュー。「物価上昇 乗り切る知恵/親、祖父母の経験 若者に伝えて」という見出しがついている。
 ロシアのウクライナ侵攻に関連して、物価上昇がつづいていることに対する対処方法を語ったものである。
 そのなかで、非常に気になる部分があった。
↓↓↓↓↓
 日本の物価が上がりにくい一因に、労働者の賃金が上がっていない点があります。米国は労働者の賃金も急上昇しているので、企業側も原材料費の急騰を受けて商品を大幅値上げしていますが、日本は十分に賃上げしていません。消費者が買い控える可能性があり、企業は原材料費の上昇分すべてを商品価格に転嫁できないのです。
↑↑↑↑↑
 これだけ読むと、日本の物価が上昇していないように見えるが、実際は上がっている。原材料費の上昇分「すべて」を商品価格に転嫁しているかどうかはしらないが、随分転嫁されている。なかには原材料費の上昇分を上回る金額が転嫁されているかもしれない。
 このあと、渡辺は、さらに、こういっている。
↓↓↓↓↓
 日本の物価上昇は緩やかで、今後も消費者物価指数は2%程度プラスアルファで推移するとみられています。今年の春闘で2%超の賃上げで妥結した大企業が増えたので、中小企業への波及も期待されていますが、賃上げ以上の物価高が続けば、景気がふるわなくなるでしょう。
↑↑↑↑↑
 渡辺の「見通し」が当たるかどうかはこれからわかることだが、私が注目したのは「今年の春闘で2%超の賃上げで妥結した大企業が増えた」という部分である。これはトヨタが早々と満額回答をしたときに書いたことだが、なぜ、「今年の春闘で2%超の賃上げで妥結した大企業が増えた」かということだ。
 ロシアのウクライナ侵攻はすでにはじまっていた。世界の状況が不安定になることは誰にでも予測できた。こういうとき、ひとは、ふつうは何をするか。金を使わない。これから起きることに対して備えようとする。私が会社の経営者なら、「賃上げ」などしない。製品が売れるとはかぎらないし、源材料費の価格がどうなるかわからないからだ。コロナだって、まだ終息するかどうか、だれにもわからなかった。(今だって終息したとはいえない。)
 では、なぜ、賃上げをしたのか。
 理由は(そのときも書いたが)簡単である。物価が上がることが「大企業」にはわかりきっていたのだ。政府からの「レクチャー」もあったかもしれない。戦争の影響で物価はどんどん上がる。賃金を上げておかないと、「物価が上がっている。こんな賃金では暮らせないという声が労働組合から噴出する。そうなると社会が混乱する」と考えたのだろう。
 いま物価がどんどん上がっている。それなのに「賃金を上げろ」という要求がどこの労働組合からも出て来ていない。(私が知らないだけなのかもしれないが、新聞にはそういう報道がない。)「すでに春闘で賃金を上げている。いま、さらに賃上げをする余裕はない」という「説得」を資本家側が先取りしているのかもしれない。わたしは、きっと、そうだと思う。そういう論理を展開するために、大企業は春闘で賃上げを実施したのである。
 渡辺は暢気に賃上げが「中小企業への波及も期待されています」と話しているが、いったい「いつ」波及するのか。もう春闘は終わっているだろう。来年の春闘のことを言っているのか。それまで、大企業の従業員ではないひとは、どうやって暮らせというのだ。
↓↓↓↓↓
 「インフレが長く続くわけではないので、貯金を取り崩して対応した」「分散投資した」「あわてて株やモノを買って損した」といった経験が共有されれば、20、30代もうまくインフレを乗り切れるでしょう。戦争を体験した世代が戦争の語り部になったように、インフレを体験した世代はその体験を伝承すると、喜ばれると思います。
↑↑↑↑↑
 いろいろ提案しているが、「分散投資した」「あわてて株やモノを買って損した」というのは「金持ち」のしたことであって、きょう、あすの生活に苦しんでいるひとは、そんなことはできない。「貯金を取り崩して対応した」というのも余裕があるひと。取り崩したくても取り崩す貯金がないひとはどうすればいいのか。
 ただ、黙って、がまんしろ、ということだろう。
 「ほしがりません、勝つまでは」という古い古いスローガンが、どこからとも聞こえてくると感じるのは私だけだろうか。

 連合は労働者の意見を政府にぶつけるというよりも、いまは政府にすり寄っている。それは、私には「物価上昇することを自分にレクチャーしてくれてありがとう。おかげで、連合の母体である大企業は春闘で賃上げし、従業員はその後の物価高にも対応できている。これからも、どれだけ賃上げすれば物価高を乗り切れるか、価格転嫁はどこまでできるかを教えてちょうだい」と言っているように見える。
 参院選は、もうすぐだ。
 ほんとうに労働者のことを考えるなら、連合が主体になって消費税引き下げを提言したらどうなのか。消費税引き下げを野党の統一要求にし、連携するということを提案したらどうなのか。
 いまの連合は、そういうことは絶対にしない。大企業以外の労働者のことなど、気にしていない。資本家と、大企業の従業員さえ満足なら、他は気にしない。貧乏人のめんどうなんかみない。「自己責任だ」というだけだろう。
 それにしても。
 物価上昇にともなう消費税の増収はどれくらいになるのだろうか。岸田はバイデンに防衛費の増額を約束したが、財源は? きっと、物価高で増収になった消費税を防衛費にまわすのだろう。「防衛こそが最大の社会保障、軍備なくして社会保障はない」というに違いない。
 ロシアのウクライナ侵攻からはじまった「戦争」はいろいろなところに影響を及ぼしている。大勢のひとが苦しんでいる。一方で、それをきっかけに大儲けしているひとたちもいる。アメリカの軍需産業と、アメリカの石油(燃料)産業がその代表だろう。彼らは「物価高」のことなんかぜんぜん気にしないだろう。物価が上がればあがるだけ、利益があがるのだ。
 若者に伝えなければならないのは、「親、祖父母」の「我慢体験」ではない。政府(政治)に対して、どういう働きかけをしていくか。こういう状況を産み出している政治に対して何をすべきかという提言だろう。

 読売新聞に寄稿している学者のことばは、とてもうさんくさい。「物価上昇 乗り切る知恵」というインタビュー記事は、簡単に言い直せば、「知恵を出して物価上昇を乗り切るのが国民の仕事だ」と言っている。国(政府)のすべきことについては何も言っていない。これは、「政府が間違っているのではない。政府に間違いはない。困難な状況のときは、国民が力を合わせて政府に協力すべきだ」と言っているだけなのだ。政府の宣伝は言っていないが、不満を言わないことは、政府を肯定することなのだ。東大教授は、きっと大企業の従業員のように生活が保障されているから、「えっ、カップラーメンが値上がりしたの?」という会話などしないのだろう。

 

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バイデンの強欲主義的想像力

2022-05-24 10:11:24 | 考える日記

バイデンの強欲主義的想像力

 2022年05月24日の「日米首脳会談」を伝える読売新聞(西部版・14版)の一面の見出し。

①首相「防衛費 相当な増額」/対中国 同盟の抑止力強化
②バイデン氏「台湾有事に軍事介入」

 記事は①②の順序だが、これはウクライナ情勢を受けての「緊急首脳会談」だとすれば、どう見ても書き方が逆だろう。つまり、「真意」を隠した報道の仕方だろう。
 アメリカは、ウクライナへのロシア侵攻を誘発し、その後、ロシア封じ対策で世界をリードした。その結果、アメリカの軍需産業は利益を拡大し、アメリカの化石燃料産業もぼろもうけをしている。資源大国のアメリカは農産物(穀物)でも大幅な利益を上げるだろう。
 次は、すでに経済大国になっている中国をどう封じ込めるか。中国に、台湾を攻撃させ(中国軍を台湾に侵攻させ)、それを契機に中国を批判し、中国を孤立させるということだろう。
 だが、この思惑は、アメリカの思い通りにはいかないだろう。ロシア対ウクライナの関係と、中国対台湾の関係は、「同じ構造」ではない。アメリカは「同じ構造」にしたがっているが、まったく違う。
 アメリカが「台湾」を「独立国」としてあつかい始めたのはトランプのときからだと記憶しているが、それまでは「中国はひとつ」という中国側の認識を受け入れていた。(日本は、いまでも台湾を「国」とは呼んでいない。)この「方針転換」は、台湾と中国の関係を、ウクライナとロシアの関係と「同じ構造」にするための第一歩だが、絶対に同じ構造にならない。
 なぜなら、台湾と中国は、同じ中国語をつかっているからだ。同じ文化を生きている。もちろん大陸出身者と、ずーっと台湾で生活していた人との違いはある。しかし、ある地域では「北京語」を話し、ある地域では「台北語」を話し、「北京語」を話す住民は「台北語」を話す住民から迫害されているということもない。
 香港がそうであったように、「経済政策」が引き起こす「差異」はあっても、文化的アイデンティティ、人間の根源的アイデンティティーは共通しているから、そこには「人間の対立/尊厳の対立」というものは起こり得ない。
 これはベルリンの壁崩壊後のドイツを見れば、もっと簡単にわかるかもしれない。ドイツはあっと言う間に「東西の対立」を解消し、融和した。もちろん、まだ問題が残っているかもしれないが、なんといっても「東ドイツ」にいたメルケルが首相になったことでもわかる。「経済体制」というようなものは「人為的制度」であって、「人間の対立/アイデンティティーの対立」とは関係がないのだ。
 これは、さらに冷戦崩壊後の「東側の国々」の状況を見れば、さらによくわかる。多くの国が「アメリカ資本主義」を受け入れ「自由化」したが、その結果何が起きたかというと、「ひとつの国」に統一されるのではなく、いままで「ひとつ」だった国が、いくつにもわかれるということが起きた。「民族のアイデンティティー(それを支えることばのアイデンティティー)」にもとづいて、それぞれの「国」が次々に誕生した。文化的アイデンティティー(人間の尊厳)は資本主義の統一を内部から突き崩す。資本主義は個人の多様化を受け入れながら変化していかなければならない段階なのだが、いまのアメリカ資本主義にとって、これは最大の不安なのだろう。自分の利益が、ロシアに、あるいは中国に奪われてしまう。だから、奪われないようにするために、戦争を引き起し、ロシア、中国を批判する、その「批判力」を「資本主義維持(自分の金儲け維持)」のために利用したいのだろう。
 
 だんだん書いていることが拡大してしまうが。

 元に戻すと、中国と台湾で起きている問題(それがあると仮定して)は、ウクライナで起きた問題とは関係がない。台湾の人々は、ことば(文化)的迫害を中国からは受けていない。同じ「漢字文化」を生きている。「ことば」の迫害を受けたということは聞かない。「経済体制」の違いはあるかもしれないが、経済交流はある。
 こういう状況では、人間同士の戦い、憎み合いというものは基本的に起きない。納得するかどうかはわからないが、相手の言っていることが「理解」できる。互いに理解しあうことが簡単だからである。
 戦争が起きるとしたら、それは「人間のアイデンティティー」を越えた要素によって、人為的に引き起こされるしかない。
 アメリカは、それをしようとしている。
 ありもしない「対立」をむりやりつくりだし、戦争を起こそうとしている。台湾をアメリカ軍の支配下に起き、中国にアメリカ軍を攻撃させ、それを台湾への攻撃と見なし、中国に反撃する、という「作戦」を実行しようとしている。そして、これに日本を参戦させようとしている。
 なぜか。
 繰り返しになるが、「戦争」は拡大すればするほど、軍需産業がもうかるからだ。「戦場」がアメリカではないだけに、「戦争」の拡大はアメリカにとっては利益にこそなれ、損失にはならない。岸田は、アメリカの要求にあわせて「防衛費を増額する」と明言している。
 こんなことをすれば、いま朝鮮半島で起きている不幸が、より激烈な形で中国と台湾の間に定着することになる。アメリカの軍事支配(日本の加担)によって、中国と台湾が対立したまま、民族の融和が不可能になる。もし、民族融和(中国の統一)があるとすれば、それは「台湾」が「中国」を支配してしまう形しかない。アメリカ資本主義が「台湾」を足場にして、「中国」を乗っ取るという形しかない。
 そんなことをする「権利」がアメリカにあるのか。
 もし、アメリカが台湾を起点にして、中国を「アメリカ資本主義」の支配下におさめたとして、そのときチベットやウイグルで起きている問題は、どうなるか。

 バイデンも岸田も、人間(個人)のことなど、なにも考えていない。アメリカの軍需産業がどうすればもうかるか。アメリカの軍需産業がもうかることで、自分の懐にいくら金が転がり込んでくるかしか考えていない。アメリカ資本主義は、金持ちが金持ちになることだけのために維持されているシステムなのだ。それに支配されたくないという自覚をもった国(政府)がいくつもある。だからこそ、アメリカのロシア制裁に同調しないのだ。いくつもの政府は、アメリカ資本主義に、自分たちのアイデンティティーが壊されてしまうことを懸念している。多様化を許さないアメリカ資本主義に対して、疑念を持っている。

 資本主義の最大の「敵」は「多様性」である。資本主義は「合理主義」だが、「合理主義」とは簡単に言い直せば「多様性」を否定し「単純化(規格化)」するときに効力を発揮する。逆に言えば、「多様化」が無限に拡大すれば「資本主義を完成させるための戦争」というのは不可能になる。「私はその戦争に与しない」という人が増える。「戦い」というものがあるとしても、それは「個人対個人」に限定され、「国」が入り込む余地はない。

 それにしても。
 バイデンのことばの「軽さ」に驚いてしまう。 
↓↓↓↓↓
 米国のバイデン大統領は23日、日米首脳会談後の共同記者会見で、中国が台湾に侵攻した場合、米国として軍事介入する考えを明らかにした。
 会見で記者から「台湾を守るため軍事的に関与する意思があるか」と問われたのに対し、「イエス。それが我々の責任だ」と答えた。
↑↑↑↑↑ 
 記者の質問に、簡単に答えている。この質問をしたのが、たとえば、習近平だったとしたらどうなるのか。そのまま戦争に突入してしまうだろう。バイデンは質問の意味を理解していない。単に記者が質問しているから記者に対して答えただけなのだ。「世界」に向かって答えていない。習近平も聞くかもしれないと考える「能力(想像力)」がない。
↓↓↓↓↓
「武力で制圧できるという考え方は不適切で、地域全体を混乱させるものだ」とも強調した。
↑↑↑↑↑
 これは、では、仮に中国が台湾に武力侵攻したと仮定したとして、その中国をアメリカの武力で制圧するという考え方は適切なのか、という問題を含む。どうしたって、「反撃」は「攻撃の補給路」をたたなくてはいけない。中国への攻撃になってしまう。それは中国を武力で制圧するということだろう。
 「武力で守る」とは「武力で反撃する」であり、「武力で敵を制圧する」ということであり、それは「地域全体を混乱させる」。
 バイデンは、彼の頭の中にある「アメリカの世界戦略がうまくいかない(自分の金儲けがうつくいかない)」ことを「混乱」と言っているにすぎない。なぜ、アジアがアメリカの世界戦略にしたがわなければならないのか。

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Luigi Alberto Di Martino「Espana como pais Multocultural」

2022-05-22 11:25:10 | 考える日記

Luigi Alberto Di Martino「Espana como pais Multocultural」(出版社、発行日不詳)

 Luigi Alberto Di Martino「Espana como pais Multocultural」には「スペイン語読書の教科書(libro de lectura para estudiante de espanol )」と書いてある。 
 この本を読みながら思ったことは、ひとつ。私たち(といっていいのか、私と言うべきなのかわからないが)日本人の「国家」に対する意識は、多くの国の国民が持っている「国家」の意識とはぜんぜん違うのではないか、ということである。
 ことばひとつをとってもみてもそうである。私はあるひとと話していて「おまえはカステジャーノ(いわゆるエスパニョール、スペイン語だろうか)を話すのかカタラン(カタルーニャ語)を話すのか」と聞かれて、「そんなことを聞かれても、区別がつかない」と困ってしまったことがある。日本人は、だれか外国人に向かってに「おまえは日本語を話すのか、それとも〇〇語(たとえばアイヌ語)を話すのか」と聞くことはない。「ことば(公用語)」はひとつと信じて疑わない。
 でも、スペインには17の自治州(?)がある。そして、それぞれの自治州が「公用語」を決めている。バスク語は明らかに違うが、ほかのことばは、私のような初心者には区別がつかない。マドリッドでは「ブエノス・ディアス」と言っていたが、バレンシアやその周辺では「ブエン・ディア」というあいさつをよく耳にした。そのことをマドリッドの友人に話したら「おれは絶対にブエン・ディアとは言わない」と言った。「ことば」が違うのだ。そして、それぞれが自分の育った場所でつかっている「ことば」に対して誇りを持っている。
 これは何もスペインにかぎらないだろう。たとえば、ショーン・コネリーは「スコットランド訛り」を絶対になおさなかったと言われる。(私は、聞いて、識別できるわけではない。)きっと彼にとっては、それは「訛り」ではなく「スコットランド語(国語)」だったのだ。フランスにしたって、「公用語」は「フランス語」だが、その他の「ことば」も様々な場所で話されている。そのことばは、その人たちにとって「母語」である。

 そして、「ことば」が違えば、当然のことだけれど、そこから「アイデンティティ」の問題が派生し、そのために「独立運動」という問題が起きる。バルセロナがあるカタルーニャやサンセバスチャンがあるバスクが独立を要求するのは当然だろう。バスクは、スペインとフランスに跨がっているから、彼らが「スペイン人」と名乗るときは、私たちが「日本人」と名乗るときとは、きっと違った「意味合い」があるはずだ。(スコットランドにも独立の動きがある。)
 スペイン人やイギリス人にとっては、「国家」は最初から存在する「ひとつの組織」ではなく、何らかの「条約(合意)」にもとづく「集合体」なのだろう。それはアメリカ合衆国についても言える。「アメリカ」という国とは別に、それぞれの「衆(州?)」が独立して存在する。アメリカでは堕胎が衆によっては禁じられているし、衆によって堕胎ができる「期間」も違っている。それぞれの衆が「法律」を持っている。こういうことは、日本以外では「常識」かもしれない。
 で、ここから思うのだ。
 いま、ロシアのウクライナ侵攻が問題になっている。このとき、日本のジャーナリズムは、ウクライナは日本のように「ひとつの国」と見ているが、ほんとうにそうなのだろうか。私はウクライナのことを知らないから、何とも言えないが、かなり疑問に思うのである。プーチンの主張が正しいというわけではないが、プーチンはロシア国境に近いウクライナ東部(ドンバス)でロシア系の住民(ロシア語を話す人)が虐殺されている、それを守るために侵攻したと言った。ウクライナには「アゾフ大隊」という組織があるから、何らかの対立があったことは確かだろうと思う。ウクライナは、日本人が考えるような「単一民族」の「国」ではないのだろう。世界には「単一民族」で構成された「国」は少ないだろう。(日本も、単一民族の国ではない。)
 ついでに書けば。ウクライナの隣国のモルドバ。その国の「母語」はモルドバ語。ルーマニア語に似ているといわれているけれど、実際、モルドバの公用語はルーマニア語のようだけれど……。でも、ある地域では、モルドバ語が「公用語」として認められているとも。
 こういうことを無視して「敵国」という概念を持ち出し、「防衛」のために軍事力を増強する必要があるというような議論(改憲の動き)は、何か、根本的に間違っていると私は感じる。「国」というのは、何らかの「合意」にもとづいてつくりだされた「ひとつの組織」であり、そこでは「その組織を運営する人」の利益が優先されるのであって、それぞれの生活の場で生きている人の事情は無視される。(だから、独立しよう、という動きも生まれる。)
 「国」を持ち出してきて、「戦争」を語ることの危険性を、私は強く感じる。「戦争」を引き起こすのは、「国」であって、住民ではない。「国」という概念から離れて「戦争」を考えないといけない、と思う。
 
 そして。

 ここからとんでもなく「飛躍」して考えるのだが。
 「国」というものが、実際に、その土地,その土地で生きている人間とは関係なく、別の概念として作り上げられたもの(人工的なもの)であるなら、いまヨーロッパで起きているNATOの拡大は、NATOという「国」をつくろうとする試みなのではないのか。NATOを「軍事同盟」ではなく「ひとつの国」にするための「概念」がNATOなのではないのか。もちろん、これは「アメリカ」の「拡大」である。「アメリカ合衆国」ではなく「NATO合衆国」というアメリカの世界戦略なのではないのか。
 その「NATO合衆国」というのは、いったい、何のための組織なのか。「軍事産業」が利益を上げるための組織ではないのか。「国の安全」という名目を掲げ、軍事資本主義を押し進めるための組織ではないのか。少なくとも「NATO」はそれぞれの地域で生きている文化を守るための組織ではない。少数のひとの言語、文化を守るためには「軍事」とはべつの支援が必要なのだ。

 ここから、逆戻りする。
 この本では、タイトルが示しているようにスペインの「多文化性」が語られる。「ことば(公用語)」がいくつもあるように(たしか、四つ)、スペインではいくつもの文化が共存している。宗教的に言っても、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教が共存しているし、その文化が生きている。いまは、世界の様々な地域から「移民」が増えている。スペイン全人口の10%を超える人が「移民」である。スペインにかぎらず、フランスでも「移民」が多い。世界は、「国」の内部で「多国籍化/多文化化」が進んでいる。世界の進むべき方向は「国」を「単一文化」に閉じこめるのではなく「多文化化」へと開いていかないといけない。「単一文化」が「軍事で国を守る」という概念であっては困る。
 プーチンが間違っているのは、ここなのだ。
 ウクライナの東部で、ロシア系の住民(ロシア語を話す住民)が迫害を受けている。「アゾフ大隊」がナチスのように振る舞っている。その暴力からロシア系住民(ロシア語を話す住民)を守るために武力侵攻するという方法が間違っている。それは単にウクライナ東部を「ロシア」にしてしうまうこと、ロシア以外の文化(ロシア語以外のことば)を追放することである。それは「ことばの単一化」(ことばの押しつけ)である。実際、ロシアが支配するようになった地域では教育はロシア語でおこなう方針という。これでは意味がない。「ことば(文化)」の共存、多言語化をプーチンは提唱できなかった。
 「文化戦略」ができなかった、ということである。

 この問題は、いつでも、どこでも起きる。実際に起きている。中国で起きている「人権侵害」も、簡単にいってしまえば、その土地で話すことば、その土地で育まれてきた文化を否定しているところに問題がある。アイデンティティの否定である。
 これは、これからの日本で起きることでもある。日本は、もう外国人を受け入れないことには存在し得ない。中国へ出稼ぎに行く、というのも生き残りの方法だけれど、それは若い人ができることであって、これから死んでいく人間にはできない。様々な文化(ことば)をもった人がやってくる。そういうひと、文化とどう共存していくか。このことを考えるとき、スペインやフランスの「多文化化」の動き(肯定の動き)は明確な指針になる。「国」は「多文化化」へ向けて開かれていかなければならない。

 

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「ことば」の持つ意味(新聞の読み方)

2022-05-15 09:26:44 | 考える日記

 2022年05月15日の朝刊(西部版・14版)の「コラム面」の「広角多角」というコーナーで、社会部次長・木下敦子が、「「認知症」と「キーウ」呼び名を変えた意味」という作文を書いている。
 「認知症」は、それまでつかわれていた「痴呆」や「ぼけ」が侮蔑的であるという理由で「認知症」に改められた。そうした日本の現実を踏まえた上で、ウクライナ問題に関して「キエフ」が「キーフ」に改められたことに書いている。木下自身のことばではなく、在日ウクライナ人、ソフィア・カタオカ語らせている。彼女は、こう語っている。
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 今回の呼称変更は、私たちにとって非常に大きな、尊厳の問題につながります。
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 これは大事な問題である。「尊厳の問題」である。これを、木下は、こう言い直している。
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▽ウクライナには固有の歴史と文化があり、固有の言葉がある▽にもかかわらず、長年にわたり、ロシアによって言語を含めた『ロシア化』を強いられてきた▽ウクライナについてウクライナ語で証言することは、ウクライナという国を尊重し、その歴史や文化を応援する(=ロシアの深更を認めない)ことになる。
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 この木下の「自説」(とても正しい)を補強するために、木下はさらにソフィアのことばを引用する。
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もし日本で日本語が話せなくなったらどんな気持ちがするか、考えてほしい。言葉を奪われることは国を奪われること。
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 そして、論をこう展開する。
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ウクライナの人たちは武器を手に取って侵攻に立ち向かうだけでなく、言語でも戦っている。
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 とても「感動的」な作文である。
 だからこそ、問題がある。
 この「感動」を演出するために、木下は、ある事実、ある歴史を隠している。
 日本は、ロシアがやっているのと同じことをしてこなかったか。台湾や朝鮮半島で何をしてきたか。日本語を押しつけたことがなかったか。そのひとの固有の名前さえ否定し、日本人風の名前を強要しなかったか。
 このことを隠し、いまのロシアの政策が間違っているとだけ指摘するのは(さらに、そのために在日ウクライナ人の声だけを引用するのは)、どう考えてもおかしい。こういうことを「歴史修正主義」というのではないのか。この木下のような「隠れた歴史修正主義」は非常に危険である。語られていることだけを取り上げれば「論理」として完結し、その論理自体には矛盾がないからである。だから、深く考えないひとには、そのまま「間違いのない論理」として広がって行ってしまう。
 そして、この「ことば」の問題に関して言えば、たぶんプーチンは同じ論理で反論するだろう。実際、それに類似することを「侵攻」にあたって語っている。ウクライナ東部にはロシア語を話す市民がいる。彼らは人権的圧迫を受けている。ウクライナ人の一部がナチス的行動をしている。そういうことからロシア系の市民を守るために侵攻した。ナチス的行為をやめさせるためだ、と言っていたのではないか。
 このプーチンの主張がどれだけ正しいか、私は判断するだけの知識を持っていないが、「論理的」には木下やソフィアの言っていることと同じである。

 さらに、ここから「国家」における「言語の多様性」という問題を考えるとどうなるか。日本の政策を見つめなおすとどういうことが浮かび上がるか。
 きょう5月15日は「沖縄復帰50年」にあたる。「編集手帖(筆者不明)」はNHKの「ちむどんどん」を引き合いに出しながら、沖縄のことばについて触れている。その沖縄で、日本はどういうことをしてきたか。標準語(?)/共通語(?)の使用を強要するために、学校で「方言」を話したものに対して、首から札をかけさせるということをしたのではないか。沖縄では特にそういう政策が厳しく取られたのではないのか。そういう差別があったことを忘れてはならない。(現在の基地対策も、きっとこの差別の延長にある。)
 差別。
 アイヌ語については、どうなのか。日本政府は、その言語の存在を認めようとしたのか。さらにいえばアイヌ人の存在を認めようとしたのか。アイヌ人の文化と尊厳についてどれだけ配慮をしてきたか。アイヌ人を、日本に住んでいた人たちであると認めるようになり、保護対策を進めるようになったのは最近のことである。
 日本政府は、日本国外においても、日本国内においても、それぞれのひとがつかっている「ことば」に対して弾圧を加え、「日本語」を強制してきた。それなのに、そういうことがまるでなかったかのように、ロシアだけが(プーチンだけが)、ウクライナから「固有のことば」を奪っている、それは許せないという論を展開することは、あまりにも「恣意的」である。
 木下が、台湾や朝鮮半島でとってきた日本の政策について知らない、沖縄の人やアイヌ人について取ってきた政策について知らないために(たぶん、私などよりも随分若いはずである)そう書いたのなら、そう書いたことに対して、誰かが(編集局内の誰かが)、日本にはこういう問題が「歴史」としてあった、ということを知らせ、何らかの形で、そういうことを書き加えさせるべきだろう。
 さらに、過去の「歴史」だけではなく、いま日本で起きている問題からも同じことがいえる。日本には、正式な名称は私はよく知らないが朝鮮半島に出自の基盤を持つひとがいる。その人たちの「学校」もある。その「学校」に対して政府はどんな対策をとっているか。「祖国」について学ぶこと、その人たちの教育に口出しをしていないか。多くの学校が「教育無償化」の対象になっているのに、その対象から除外していないか。教育の自由を否定し、教育を受ける権利を侵害している。
 これが日本の現実なのだ。
 これは、もっと問題を広げることができる。いまはコロナ禍のために、外国人の入国が制限されているが、日本で働いている外国人は多くいる。そして、彼らには子どもがいる。その子どもの「言語教育/文化教育」はどうなっているか。彼らが自らの尊厳を守りながら共存できるように政策をとっているか。多くのひとの「文化」を剥奪し、「日本化」させようとはしていないか。

 きょうの木下の「作文」は、露骨に「アメリカの世界戦略応援」という形の論ではないだけに、逆に、非常に危険である。日本が過去に何をしてきたか、日本政府がいま日本でどういうことをしているか。問題が何もないかのような印象操作である。

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戦争とことば

2022-05-01 09:36:54 | 考える日記

 ロシアのウクライナ侵攻、その戦争。この報道をめぐることばには様々な問題がある。読売新聞を引用しながら何度か書いてきたが、別の問題(たぶん他紙にも共通するだろう)について書くことにする。
 読売新聞は、自民党寄り、あからさまにアメリカ戦略の宣伝機関となって報道している。しかし、その読売新聞(西部版、朝刊14版、夕刊4版)が、こんな見出しをつけている。①は2022年05月1日朝刊、②は2022年04月30日夕刊。

①ウクライナ/露軍 東部拠点で「停滞」/イジューム 激しい抵抗受け
②ウクライナ/露軍 東部作戦に遅れ/米分析「補給維持へ慎重」

 私は、ロシアの侵攻を正しいとは一度も思ったことはないし、かならずロシアが敗退するだろうと思っているが(その理由はすでに書いた)、つまり、ロシアを支持するのではなく、ウクライナを支持するのだが。
 その私が、この見出しを読んで感じることは、ただひとつ。
 この見出しはロシア側からの視点で書かれていないか。主語が明確になるように助詞を補えば、こうなる。

①ロシア軍がウクライナ東部の拠点で停滞している。
②ロシア軍のウクライナ東部での作戦が遅れている。

 これでは、ロシア軍の活動に対して、「もっとがんばれ」と言っている印象を引き起こさないか。少なくとも、私は「ロシア軍、がんばれ」と言っているように読んでしまう。これは、「露軍」を「日本軍」と書き換えれば、すぐわかる。

①日本軍 東部拠点で「停滞」
②日本軍 東部作戦に遅れ

 こうだったら、私は愛国者ではないけれど、多くの日本人はどうしたって「日本軍、がんばれ(負けるな、勝て)」と思うだろう。書かれた「主語」にあわせて、読んだ人間の感情は動く。
 もしほんとうにウクライナの人々のことを思うなら(読売新聞が、単に自民党の政策にしたがっている、アメリカの政策を宣伝しているのではないと主張するなら)、もっとウクライナの人々の立場で見出し、記事を書くべくだろう。読売新聞(日本語版)をウクライナの人が読むわけではないと考えるから、こういう見出しがつくのかもしれない。日本に避難してきているウクライナの人もいるが、その人たちがこの見出し、記事を読んだらどう思うか、考えたこともないのだろう。
 ウクライナを主語にするなら、こういう見出しが考えられる。

①ウクライナ 東部制圧許さず
②ウクライナ 侵攻拡大阻止

 これなら、私は、「ウクライナ軍はがんばっている。ロシアの侵攻を許すな」という気持ちになれる。
 「新聞には文字数の制限がある、だからウクライナを主語にして見出しをつけるのは困難」というかもしれない。でも、それを工夫するのがジャーナリズムズ働いている人間の務めだろう。

 で、ここから翻ってあれこれ思うのだが。
 読売新聞にしろ、その主張の基盤になっているアメリカの方針にしろ、ウクライナの側に立って、ウクライナの安全を守り、戦争を終結させる、奪われたウクライナの領土を取り戻すという「思い」がないのだろう。
 では、読売新聞やアメリカは、どう思っているのか。
 戦争の長期化、拡大を心配するふりをしながら、実は、戦争の長期化を願っている。戦争がつづく限り、米の軍需産業はもうかる。経済制裁により、ロシア経済は弱体化し、ヨーロッパとロシアの経済関係も破綻する。(ロシアはヨーロッパでは金を稼ぐことができなくなる、ヨーロッパ市場をアメリカが支配できる。)核戦争は困るが、戦争がウクライナでつづいているだけなら、これはアメリカ経済にとっては好都合なのだ。
 もちろんアメリカでも市民は「物価高」に苦しんでいる。しかし、それは「プーチンのせい」と言ってごまかすことができる。アメリカでは、軍需産業だけではなく、たぶん「石油産業(化石燃料産業)」も膨大な利益を上げているはずである。それだけではなく、以前書いたことだが、どうやらこの「石油危機」に関係づけて、ベネズエラにもさらに圧力をかけるつもりらしい。読売新聞は、いちはやく、ベネズエラ難民をテーマにした記事を書いている。ベネズエラの現政権を倒さないと、ベネズエラの市民の生活はよくならない、と「アメリカの主張」を代弁している。
 さて、「戦争」を利用した「石油産業(化石燃料産業)」の金儲けは、「戦争」の影響でわかりにくくなっているが、「地球温暖化問題」を「情報」のわきへ押しやっている。電気自動車のことがときどき書かれるが、電気自動車が主流になるまでに、いったい石油はどれだけ売れるのか。「石油危機」(たとえばガソリン高騰)という大宣伝のかげで、いまこそアメリカの石油産業は金儲けのチャンスと喜んでいるだろう。だれもアメリカの石油産業に対して「石油の消費は地球温暖化を招く、売るな」とはいわないだろう。「石油が足りない、売ってくれ」というだけだろう。「石油産業」は批判の対象ではなくなったのだ。
 ウクライナの戦争で、多くの市民が死んでいく。同時に、経済戦争が引き起こした物価高が原因で死んでいく人も増えるだろう。さらに、地球温暖化のせいで死んでいく人もいるだろう。戦争での犠牲とは違って、物価高(貧困)も地球温暖化のために死んでいく人というのは「視覚化」されにくい。死ぬまでの時間も長期間であるから、原因の特定にはなりにくい。
 でも、問題は、そういう見えにくいところにある。
 私たち市民は、そのひとりひとりは「権力」からは「見えにくい」を通り越して「見えていない」だろう。
 この「見えにくい」ところで動いていることばを、なんとしてでも、明確にしていかなければならない。戦争が起きているいまこそ。

 銃を持たない(銃をつきつけられたら反撃できない)というふつうの市民、物価高が進めば生きていけない市民、地球温暖化のために起きる環境破壊によって死んでいく市民。そこから世界をとらえ直し、そのことばで世界を描きなおし、それを提示することがことばにたずさわる人間の仕事だろう。
 「ことば」は思想であり、その思想というものは、たとえばヨーロッパの思想家の著作の中にだけあるのではなく、「えっ、カップラーメンも値上がりするのか」という市民の声のなかにもある。そして、そういう市民の声の方が、より切実で、大切な思想なのである。そういうことを、いまのジャーナリズムは忘れている。それが戦争を報道するときの「視点」のでたらめさに、端的にあらわれている。
 誰の立場から書かれているか、そのことに注目しながら、新聞を読みたい。

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