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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三木清「人生論ノート」から「秩序について」

2022-12-18 22:43:35 | 考える日記

イタリア人青年と読む三木清。
「秩序について」は、散らかった書斎から、外的秩序と内的秩序の違いから書き始める。
途中から、経済、物理、国家(体制)を経て、最後の一段落は「人格とは秩序である。」という短い文章ではじまる。この「人格とは秩序である。」にことばを補うと、どういうことばが考えられるか。
私の質問は、かなり抽象的な質問なのだが。

彼は「人格とは心の秩序である」と、ほとんど即座に答えた。
びっくりしてしまった。同じように即答できる日本の高校生が何人いるだろうか。50人にひとりくらいかもしれない。選択問題なら、答えを選べるが、自分でぜんぶ考えないといけない。

途中に「今日流行の新秩序論」ということばがあって、これは三木清が生きた時代を知らないと説明がむずかしいのだが(私は歴史が苦手で説明に困るのだが)、彼は東条英機を知っている。二・二六事件まで知っていて、クーデターが成功していたら日本は違っていたかも……などと私よりも歴史に詳しかった。
日本の高校生、ムッソリーニを知っているかな?

さらに、N2検定に合格したイギリス人の作文には問題が多かったのだが、その文法的間違いを直しながら、さらに文章を分かりやすくするという課題も75%クリアできた。
「民主主義国は包含的な考え方は一番大切ながいねんだと思います。」を「民主主義国は包含的な考え方をすることは一番大事だと思う。」と直した。「包含的」は、ふつうの日本人はつかわない。漢字を見れば意味は想像できるが、日常の会話でつかうと、きっと通じない。イギリス人が言いたかったことを、「包含的」をつかわずにほかの言い方で言い直せるかと質問してみたら。
「多様な(考え方)」とぱっと答える。

ちょっとではなく、とてもすごい、と私は思う。

 

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「防衛の視座」の視座(読売新聞記事の書き方、読み方)

2022-12-18 09:48:17 | 考える日記

 2022年12月18日の読売新聞(西部版・14版)で「防衛の視座」という「作文」連載がはじまった。「安保3文書 閣議決定」を受けての、「勤勉」な作文だ。
 きのう、
↓↓↓
 防衛研究所の高橋杉雄・防衛政策研究室長は「抑止が破られる可能性を低くし、均衡を保つには、日米の足し算が必要だ。米国の足らざる部分をいかに日本が埋められるかが鍵を握る」と語る。
↑↑↑
 という記事があることを紹介した。ポイントは「米国の足らざる部分をいかに日本が埋められるか」。アメリカが補完するのではなく、日本がアメリカを補完する。これが「集団的自衛権」の本質。
 連載の一回目は「「戦える自衛隊」へ脱皮」という見出し。この見出しには、「どこで」戦うかが書いてない。日本で? 違う。「外国で」(国外で)である。そして、この国外で戦うことを、あるときは「集団的自衛権」と言い、あるときは「反撃能力」と言う。どのようなことば(表現)も、必ず「言い漏らし」がある。それは「隠す」でもある。「集団的自衛権」も「反撃能力」も「どこで」を省略することで、問題の本質を隠している。ニュースの基本は5W1H。書かれていない要素を補って読まないと、書かれていることが把握できない。

 「反撃能力」について、「作文」はどう書いているか。
↓↓↓
 最大の柱が、戦後一貫して政策判断で見送ってきた反撃能力の保有だ。攻撃すれば反撃されると想起させてこそ、抑止は機能する。首相は、反撃手段を確実に得るため、米国製巡航ミサイル「トマホーク」の導入も決断した。11月13日の日米首脳会談では、バイデン大統領から優先的に取り組む約束を取りつけた。
↑↑↑
 岸田が「反撃能力」を確保するためにトマホーク(5年間に500発)の購入をバイデンに持ちかけ、バイデンは「優先的」にそれに応じる約束をした、と読売新聞は書いている。
 だが、それは本当に岸田が持ちかけたのか。バイデンが「買え」と言って、岸田が「わかりました」と答えたのではないのか。「買え」と言ったのだから、もちろん「優先的に売る」。前段の交渉が書かれていないので、わからない。
 なぜ、私が「バイデンが買えと言った」と想像するかといえば、二面にこういう記事があるからだ。
↓↓↓
【ワシントン=田島大志】バイデン米大統領は16日、日本が新たな「国家安全保障戦略」など安保3文書を閣議決定したことを受けて「我々は平和と繁栄への日本の貢献を歓迎する」とツイッターに投稿した。バイデン政権は「唯一の競争相手」と位置付ける中国との覇権争いを巡る日本の役割拡大に期待している。
↑↑↑
 バイデンは、中国を「唯一の競争相手」と位置づけている、と書いているが、何の競争相手? W杯? 軍事力? 経済力? 5W1Hの「何(what)」が欠けている。いや、ほんとうは書いてある。「覇権争い」。しかし、この「覇権争い」がまた、不透明である。軍事力の覇権争い、経済力の覇権争い。軍備のことを書いているので「軍事力の覇権争い」という点から見ていく。「どこで(where)」。これも書いていないが中国周辺(あるいはもっと絞り込めば、台湾)である。でも、なぜ、アメリカがアメリカから遠いアジアで「軍事的覇権」を握らなければならないのか。アメリカがアメリカ周辺で「軍事的覇権」をにぎり、アメリカを攻撃させないというのならわかるが、わざわざアジアまでやってきて、アジアを支配するのはなぜ? ここから「経済的覇権」の問題が浮かび上がる。中国に金もうけをさせたくない。中国がアジアで金もうけをすると、アメリカがアジアで金もうけをできなくなる。しかし、この問題は、また別の機会に書くことにして……。
 「覇権争い」に関しては、こういう記事がある。(バイデンのことばではないが。)
↓↓↓
 米紙ワシントン・ポストも16日、防衛費の増額に着目し、「日本の勇気をたたえるべきだ。アジア全域を防衛する重荷を米国単独で負うことはできない」との論評を報じた。↑↑↑
 バイデンでも、岸田でもない、「第三者」の論評だからこそ、「本音」が書かれている。読売新聞が岸田の「本音」をついつい書いてしまうのと同じだ。その本音とは、繰り返しになるが
↓↓↓
アジア全域を防衛する重荷を米国単独で負うことはできない
↑↑↑
 ワシントンポストは「アジア全域を防衛する」と書いているが、なぜ、そんなアメリカ以外の国を防衛する必要があるのか。これは防衛ではなく「軍事支配する」ということである。アメリカの軍事に対抗できないようにする、ということである。アジアはアメリカから遠い。そんなところをアメリカ単独で支配できないから、日本にそれを加担させようとするのである。
 これは、きのう引用した
↓↓↓
 防衛研究所の高橋杉雄・防衛政策研究室長は「抑止が破られる可能性を低くし、均衡を保つには、日米の足し算が必要だ。米国の足らざる部分をいかに日本が埋められるかが鍵を握る」と語る。
↑↑↑
 これと、まったく同じ視点。アメリカだけでは、間に合わない。日本がアメリカの「足りない部分」を補足する。政治家は、そういうことを言わないが、それはだれもが知っている。そのだれもが知っていることが、読売新聞やワシントン・ポストの記者を通じて漏れてしまう。隠しておけないくらい、その情報が流布しているということだろう。
 新聞は、こういうところを読んでいくのがおもしろい。私は推理小説(探偵小説)を読まないが(好まないが)、フィクションよりも、現実のなかに隠されている「伏線」を読むのがおもしろい。

 少し元にもどって。ニュースの基本の5W1H。繰り返し出てきた「5年」。最近は隠していたが「防衛の視座」では、復活してきて、きちんと説明している。
↓↓↓
 目標期限は2027年度――。16日に閣議決定された国家安全保障戦略と国家防衛戦略、防衛力整備計画の3文書では、5年後までの防衛力強化に力点を置き、「27年」が随所に登場する。今後の5年間は、計画期間の単位以上の意味を持つ。
 27年は、中国の習近平政権が3期目の集大成を図る年であり、中国人民解放軍「建軍100年」の節目でもある。安保専門家の間では、この年までに中国が台湾の武力統一に乗り出す可能性があるとの分析が広がる。
↑↑↑
 習近平はもちろん「台湾統一」をめざす。中国の指導者なら、だれでもめざすだろう。しかし、それが「武力統一」かどうかは、わからない。そういう見方をしているのは「安保専門家」である。ここが、問題。もし「経済専門家」なら? あるいは「文化専門家」「料理専門家」なら? 「旅行代理店」なら? あるいは、台湾に住んでいるひとなら? そう考えてみれば「安保専門家」だから、軍事を持ち出したというだけのことである。
 習近平は先の大会で「台湾独立を、軍事支援する外国の勢力があるなら、それとは戦う」というようなことは言っているが、「軍事統一」するとは言っていない。「安保専門家」は、「文章の専門家」ではないから、テキトウに読んだのだろう。
 でも、なぜ、そんなに「5年間」にこだわるのか。
 習近平の「任期」というよりも、今後5年で、コロナでつまずいたとはいえ、中国の経済は拡大する。経済の「覇権争い」で、アメリカはトップではいられなくなる。アメリカは、それに気づいたからではないのか。
 ロシアがウクライナに侵攻する前、ヨーロッパとロシアとの経済関係は、天然ガスや石油で強く結びついていた。それは逆に言えば、アメリカの化石燃料の販路が縮小したということである。同じように、中国がアジア諸国にさまざまな商品の販路を拡大し、経済的覇権を強めれば、アメリカの販路はそれだけ縮小する。金もうけができない。アメリカの強欲主義は、これを我慢できない。これがwhay。だから、経済覇権を守るために、軍事覇権を利用するのである。アメリカから遠い場所で戦争を勃発させ、ライバルを失墜させる。これがhowこの作戦は、アメリカの軍需産業にとっても好都合である。どんどん武器が売れる。
 5W1Hを整理し直してみる。
who(だれが)アメリカが
what(何を)戦争を引き起こす
when(いつ)5年以内に
where(どこで)台湾で
why(なぜ)中国の経済発展(台湾統一)を阻止するため
how(どのように)日本の軍事力を利用して(日本を戦争に巻き込み)

 日本経済はどんどん衰退していっている。5年以内、10年以内に、日本人は中国に出稼ぎに行くしかない。それがいやなら、中国と戦争をするしかない。戦争で、日本人の不満を収束させるしかない。それが岸田の狙っていること。
 アメリカの強欲主義が存在するかぎり、世界平和はありえない。アメリカの強欲主義のために、戦争の危機が窮迫している。
 戦争ではなく、アメリカも日本も(特に日本は)中国を最大の経済パートナー(貿易相手国)にする方法を考えないといけないのだが、それができないから、戦争に頼るのだ。

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閣議決定でいいのか(読売新聞記事の書き方、読み方)

2022-12-17 09:30:04 | 考える日記

 2022年12月17日の読売新聞(西部版・14版)は、安保3文書、税制改正一色の紙面。あ、戦争がはじまった、と私は震えてしまった。書きたいことが多すぎて、とても書き切れない。少しだけ書く。(番号は私がつけた)
↓↓↓
「反撃能力」保有 明記/安保3文書 閣議決定/戦後政策を転換(見出し)
①政府は16日、今後10年程度の外交・防衛政策の指針となる「国家安全保障戦略」などの3文書を閣議決定した。
②自衛目的で敵のミサイル発射拠点などを破壊する「反撃能力」の保有を明記し、戦後の安保政策を転換した。
③中国の台頭などで揺らぐ国際秩序を守るため、防衛費と関係費を合わせて2027年度に現在の国内総生産(GDP)比2%とし、防衛力を抜本的に強化する。
↑↑↑
 私が一番問題にしたいのは、
①「閣議決定」である。
 安倍以来、いろいろなことが「閣議決定」された。「安倍昭恵は私人である」というようなくだらないものが多いせいか、閣議決定は「どうでもいいもの」として見過ごされてきた。その延長線上に「安倍国葬」があった。民主主義を破壊した安倍が、閣議決定という独断で「評価(尊敬される政治家)」されてしまった。国会で審議されることなく「実施」が決まった。そして、実際に実施された。「戦争法」さえ国会審議があったのに、「安倍国葬」は国会審議がなかった。私は、これに抗議するために、東京のデモに参加したが、デモ参加者は予想以上に少なかった。国会審議をしなくても、閣議決定さえすればなんでもできる、という「風潮」ができあがってしまった。
 今回のニュースも、それを伝えている。
 閣議決定をした、だから、これはもう変更できないのだ、国会審議の必要はない、という「論調」で読売新聞の紙面は展開する。批判の声は、四面に、立憲民主党の声、社会面に沖縄知事の短いコメントが載っているくらいである。
②と③は、よく読むと、整合性があるようで、整合性がない。
②は「自衛目的」ということばではじまっている。「敵」は、明確に書かれていないが中国、北朝鮮(さらにはロシア)を想定しているのは、これまでの報道からもわかる。この「自衛目的」が、
③で「中国の台頭などで揺らぐ国際秩序を守るため」にかわる。「敵」ということばのかわりに「中国」が登場し、「自衛」のかわりに「国際秩序を守る」があらわれる。ここには大きな飛躍がある。「国際秩序」は日本の意志だけ(閣議決定だけ)で決められることなのか。「国際秩序」を議論するために「国連」があるはずだ。
 国際紛争(いわゆる有事、戦争)が起きたとき、侵攻された国はどうするのか。もちろん抵抗(反撃)もするだろうが、国連の場で訴えるだろう。国連で、自国への支持(相手国への批判)を求めるだろう。ロシアに侵攻されたウクライナだって、そうしている。
 ウクライナは、「国際秩序」のためではなく、ウクライナ自国のために戦っている。その戦いが「国際秩序」を守ること(回復すること)につながるとしても、それは「前提」ではない。まず「自国を守る(自分たち自身を守る)」である。
 「自衛目的」から「国際秩序を守る」への表現の転換は、単なる表現の問題ではない。そこには表現を変える必要性、隠された問題があるのだ。
 本当は何をしようとしているのか。三面に、重要な分析が載っている。
↓↓↓
④防衛研究所の高橋杉雄・防衛政策研究室長は「抑止が破られる可能性を低くし、均衡を保つには、日米の足し算が必要だ。米国の足らざる部分をいかに日本が埋められるかが鍵を握る」と語る。
↑↑↑
 「日米の足し算」ということばだけを読むと、日本だけでは防衛できない部分をアメリカに助けてもらう、日本が攻撃されたらアメリカに助けてもらう(日米安全保障)と考えがちだが、高杉はちゃんと正確に言い直している。今回の「安保3文書」の目的を理解して、ぽろりと「本音」を語っている。(読売新聞の「ばか正直」なところは、それをそのまま書いてしまうところ、自分はこんなに知っていると得意顔で書いてしまうところである。)
 何と言い直しているか。
 「米国の足らざる部分をいかに日本が埋められるか」
 「安保3文書」改訂は、米軍の補完のためである。
 三面の記事の見出しは「対中均衡 米と連携」となっているが、中国を封じ込めようとする動きに日本が協力する、ということである。
 中国はすでにアメリカ本土を直接攻撃する軍備を備えているだろう。(北朝鮮も開発中である。すでにミサイルはアメリカ本土を射程に入れている。)その中国(そして北朝鮮)を攻撃する(反撃する)には、アメリカ本土から攻撃(反撃)するよりも日本から攻撃(反撃)する方が効率的である。日本からならICBMをつかわなくてもトマホークで対応できる。これが「米国の足らざる部分をいかに日本が埋めの」ということだ。
 日本から「反撃」するかぎり、中国、北朝鮮はまず日本(日本にあるアメリカ軍基地)を攻撃するだろう。日本が攻撃されているかぎり、アメリカ本土への攻撃は「手薄」になる。これがアメリカの作戦である。
 アメリカを守るための「捨て石」になる。(日本をアメリカを守るための「捨て石」にする。)それが、安保3法案である。これが「閣議決定」だけで決まってしまうのだ。
 内閣支持率がアップしない岸田は、アメリカから「首相でいたいんなら、アメリカの政策に協力しろ。協力すれば、応援してやる(首相でいらせてやる)」というようなことを言われているのだろうか。
 そして、このなことのために、増税が行なわれようとしている。
↓↓↓
防衛増税 3税決定/法人・所得・たばこ 「時期」先送り/与党税制大綱(見出し)
⑤自民、公明両党は16日、2023年度の与党税制改正大綱を決定した。最も注目された防衛力強化の財源確保では、法人、所得、たばこの3税を増税し、27年度に年間1兆円強の財源確保を目指すとした。引き上げ時期の決定は先送りした。
↑↑↑
 問題は、「時期先送り」だろう。なぜ「時期」を先送りしたのか。一つは、来春の統一選対策である。増税をすぐ実施すれば選挙で批判される。票が獲得できない。だから、実施は先送り。しかし、実施を先送りするなら、いま決めなくてもいいだろう。なぜ、いま決めないといけないのか。
 アメリカに説明するためである。「トマホークを買います、そのための予算を確保しています」と「証明」するためである。「増税し、予算を確保します」と言うためである。売る方だって、本当に金が入ってくるかどうか確認する必要がある。銀行でローンを組むとき、収入を訪ねられるようなものだ。「与党税制大綱」と言うが、実際は「閣議決定(岸田の決定)」である。
 長くなるので記事は引用しないが、見出しだけ抜き書きしておく。
↓↓↓
⑥首相、増税議論を主導/防衛財源 「説明責任」強調
⑦税調、首相の要望くむ/与党税制大綱 宮沢会長「指示だから」
↑↑↑
 安倍以来、首相が言うことにしたがうだけ(そうしないと選挙のとき応援してもらえない)が、「政治」になってしまったのだ。

 ここでまた「国葬」にもどるのだが、あれを阻止できなかった野党の責任は重い。岸田は、何だかんだと言って国葬を実施した。批判されたが、もちこたえた。私は実際に東京のデモと集会に参加して感じたのだが、国会審議もなしに国葬が行なわれたことに対する怒り(恐怖)が、あまりにも小さい。
 どうして、こんなふうになってしまったのか。
 私は、太平洋戦争の前に何があったのか、実際に体験したわけではないからわからないが、いま起きている「無力感の蔓延」は、とてもおそろしい。怒りが減って、権力にすりよることで保身をはかるという姿勢の蔓延がおそろしい。ジャーナリズムが、それを率先してやっていることがおそろしい。
 いま私はジャーナリズムが率先してやっていると書いたが……。実は、ジャーナリズムは、いちばん流行に鈍感な存在である。流行をつくりだすことはない。流行が起きてから、これこれが流行しているというのがジャーナリズムズある。だから、読売新聞がやっている「リーク記事」を「特ダネ」と自慢するようなことは、ほんとうは世間で流行しているのかもしれない。他人から教えてもらって「頭」で知っているだけの知識なのに、まるで自分がそれを体験しているかのように語る風潮、それがなんというか、「自分の知らないことを知っている人(たとえば岸田)の言うことは正しい」という「風潮」につながっている。
 北朝鮮や中国がほんとうに日本を侵略しようとしているかどうかなんて、私は知らない。しかし、私は電気代、ガス代が高くなり、年金だけでは金が足りず、ちょこまかしたアルバイトでは追いつかず、貯金が目減りしつづけていることを知っている。だから、増税なんか許せない。法人税を払うわけではない、たばこ税を払うわけではない。しかし、その税金が、私の暮らしのためではなく、アメリカの世界戦略のための軍備につかわれるというのは、許せない。
 私は、基本的に、私の知らないことを一大事のようにして語るひとのことばを信じない。「正しい」と鵜呑みにしたりはしない。そういう新聞のことばを信じない。矛盾を探し、疑問を書く。
 二面にこういう記事もあった。
↓↓↓
安保支出 世界3位へ/27年度11兆円 GDB2%確保で
↑↑↑
 「生活保障、教育費支出 世界1位」というようなことこそ、見出しになってほしい。そういう世界になってほしい。岸田の身分と金もうけのために、防衛費が世界3位になることに、いったいどんな意味があるか。

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三木清「人生論ノート」から「利己主義について」

2022-11-27 20:13:17 | 考える日記

 

簡単そうで、なかなか書けないテーマ。読むのも、かなり難解なところがある。
三木清は、ときどき、数学で言う「虚数」のようなものを「仮説」として持ち出す。つまり、否定するための「径路」。論理を強固にするための「手段」。

①「利己主義」ということばを、どんなときにつかうか。だれに対してつかうか。だれかを「利己主義」と思ったことはあるか。だれかから「利己主義」と批判されたことはあるか。
②「利己主義」と批判したときと、「利己主義」と批判されたときでは、どちらがいやな気持ちがするか。
③「利己主義」に似たことばはなにか。「利己主義」の反対のことばはなにか。

このことを話し合った後、読解に進んだ。

第一段落の次の文章はなかなか難解である。

いったい誰が取らないでただ与えるばかりであり得るほど有徳あるいはむしろ有力であり得るだろうか。逆にいったい誰が与えないでただ取るばかりであり得るほど有力あるいはむしろ有徳であり得るであろうか。純粋な英雄主義が稀であるように、純粋な利己主義もまた稀である。

「英雄主義」の文章は理解できる。「取らないで与えるだけ=有徳・有力」。しかし、「利己主義」はどうか。「与えないで取るだけ=有力・有徳」。「与えないで取るだけ」は「力があるもの」なら可能だろう。しかし、それがどうして「有徳」なのか。この「有徳」が「虚数」のようなものなのである。現実には存在しない。しかし、本当に「有徳」なひとがいれば、彼は何も取らなくても、多くの人が彼のところになにかを与えようとするだろう。語弊があるかもしれないが、ほんとうに「神」がいれば、多くのひとは何も期待せず、ただ感謝の気持ちとしてなにかを「与える」だろう。「返し」を期待しないで、ただ「与える」ということがあり得るだろう。

注意しなければならないのは、三木清がここで「純粋な」ということばをつかっていることである。「純粋な英雄主義」「純粋な利己主義」。この「純粋な」は「絶対的な(論理的に正しい)」と言い換えることができるだろう。

ことば(想像力)が、したがって、このあと問題になる。想像力とは、構想力のことである。ことばをつかって、どんなふうに世界を描写するか。ことばは、それを否定するための「仮説」である。ことばを何が否定するか。倫理(道徳)=行為が、ことばを否定するというか、ことばを超越する。「道」が「ことば」を超越する。行為によって「超越」されるために「ことば」はある、と三木清は考えているかどうか知らないが、私は、そう読み取っている。もちろん、「日本語の読解」なので、こういうことまでは語らないが。

二段落目の次の文章も厳しい集中力を払わないといけない。

 我々の生活を支配しているギブ・アンド・テイクの原則は、たいていの場合は意識しないでそれに従っている。言い換えると、我々は意識的にのほか利己主義者であることができない。
 利己主義者が不気味に感じられるのは、彼が利己的な人間であるよりも、彼が意識的な人間であるためである。それゆえにまた利己主義者を苦しめるのは、彼の相手ではなく、彼の自意識である。

ここでは「意識(する)」が「意識的」「自意識」という具合に、少しずつ変わっていく。この「変化」を見落とすと、何が書いてあるかわからなくなる。

哲学は、あることばを別のことばで定義することと言い直せると思うが、このとき、ことばの「ずれ」「ずらし」というのは非常に微妙であり、ことばだけではなく「文体」に注意しつづけることが重要である。最初に引用した文章では「取る/与える」が「与える/取る」とことばの順序がかわると、それにつづく「有徳/有力」は「有力/有徳」と順序をかえている。そのことに気づくなら、その後に出てくることばに「純粋な」という形容動詞がついていることにも気がつくだろう。この「純粋な」は、実は、その前に存在する文章(省略した文章)にもつかわれている。つまり、三木は「純粋な」論理問題として、論を進めていることになる。

倫理と哲学は別の学問かもしれないが、三木清は倫理と哲学を接近させてことばを動かしている。それが、彼の文書をを難しくしているし、おもしろくもしている。この三木清の文章を「好き」「おもしろい」といえる18歳のイタリア人というのは、すごいなあ、と私は感心している。

写真は、きょうつかったテキストのメモ。

 

 

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三木清「人生論ノート」の「瞑想について」

2022-11-13 21:03:41 | 考える日記

三木清講読。「瞑想について」。
この文章は非常に難しい。ふつう、人が考えるような「瞑想」とは違うことを考えている。
瞑想というと、こころを落ち着かせる( 安定させる) を想像するが、三木清は「思索」「思想」「瞑想」を比較している。
いきなり読んでも、つまずくばかりなので、最初に雑談をした。
「瞑想したことがある? 」
「ない」
「じゃあ、1 分、瞑想してみようか」
ということろから、はじめた。

「瞑想できた? 」
「できない」
「どうやっていた? 」
「目をつむっていた」
「何か考えた? 」
「いろいろ、1 分たったらタイマーが鳴ると言うので、いつ鳴るかなとか考えた」
「そういうのを、雑念というのだけれど、瞑想ってむずかしいね」「どうしても何か考える」
「どうやって、考えた? 」
「えっ」
「何をつかって考えた?」
「頭をつかって」
「うーん、たとえばピカソは絵の具をつかって絵を描く。モーツァルトは?」
「ピアノをつかって。音符をつかって」
「考えるときは?」
「ことばをつかって」

 そのあと、連想ゲーム。瞑想から思いつくことば、瞑想ということばが似合う人、似合わない人、いつ瞑想できるか、どんなふうにするか。どんな時瞑想できないか。
 どうも、瞑想は黙ったまま、静かな状態でするもの、ということがわかってくる。
 そして、その「静かな状態」というのは「黙って」するもの、ということを共通の認識としてもつことができた。
 最初にやった「瞑想」疑似体験から考えたことと重ね合わせると、瞑想は「ことば」とは縁がない、むしろ「無(心)」に近いということがわかる。そのイメージを共有して、三木清が「ことば」と「瞑想」「思索」「思想」をどう定義しているかに注目しながら読み進んだ。

 書き出しの「たとえば対談している最中に私は突然黙り込むことがある。そんな時、私は瞑想に訪問されたのである。」という文章の「対談」とはどういうことか。ことばをつかって、二人が話すこと。「黙り込む」とはどういうことか。ことばを話さないこと。「瞑想」は「黙り込むこと(沈黙)」と何か関係がある、ということになる。「黙り込む」のはなぜだろう。ことばが思い浮かばないからかもしれない。ことばをつかわずに、考えているのかもしれない……、という具合。
 二時間で、なんとか「読了」できたが、とてもむずかしかった。それは、結局、瞑想をしてみるという体験がないからだ。頭では瞑想ということばを知っているが、肉体で体験したことがない。そういうことは、考えることもむずかしいし、理解することもむずかしい。
 それがわかったのが、今回の「収穫」かもしれない。

 

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三木清「人生論ノート」から「嫉妬について」

2022-10-30 21:02:32 | 考える日記

読解はの方法を変えてみた。
(1)全文を読み通す。読めないことばは「なになに」と読んで、そのままつづける。わからないことばも、そのまま読み続ける。
(2)全文を読み終わったとあとで、わかったこと、考えたことを要約する。
(3)最初から、一段落ずつ読み直し、読めないことば、意味わからないことばの質疑・応答。
このとき、愛に関係することば、嫉妬に関係することば、愛と嫉妬の両方に関係することばを抜き書きしながら整理する。
(4)もう一度、(2)でやったように、考えたことをまとめる。

このあと、愛の反対のことば、「憎しみ」があるが、「憎しみ」と「嫉妬」はどう違うかを考えた。

*

読めない漢字や熟語がかなりあったのだが、最後まで読み、要約もできた。
「狡猾」は日本の高校生でも読めない人がいると思う。「術策」「詐術」も説明できる生徒は多いとは言えないだろう。
途中「特殊」を読めなくて、「特別」と読んだ。
あとで「特殊」と「特別」は似ている。全体の文脈のなかでは「特別」と読み替えても論理的には同じだと説明した。

5ページ強のテキストだが、作文の指導を含めて90分で済んでしまった。時間が余った。18歳のイタリア人。驚嘆の理解力。

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三木清「人生論ノート」の「人間の条件について」

2022-10-17 22:53:41 | 考える日記


何が書いてあるか、読めないかもしれないが。
私の「ノート」。
これに見ながら、イタリア人といっしょに「人生論ノート」を読んでいる。

 

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読売新聞の「要約」の仕方(あるいは、世論操作の仕方)

2022-10-17 22:30:38 | 考える日記

 中国共産党の20回大会が開かれた。2022年10月17日の読売新聞(西部版・14版)は、一面の見出しと前文。
↓↓↓
中台統一 武力放棄せず/習氏政治報告 共産党大会開幕/米に対抗 核開発強化(見出し)
 【北京=吉永亜希子】中国共産党の第20回大会が16日、北京の人民大会堂で開幕した。3期目政権発足が確定的な習近平総書記(国家主席)は党中央委員会報告(政治報告)で、台湾統一について「武力行使を決して放棄しない。あらゆる選択肢を持ち続ける」と宣言し、台湾への関与を強める米バイデン政権と台湾の蔡英文政権を威嚇した。習氏は米国を念頭に核抑止力を強化する方針も示し、今後も強国・強軍路線を突き進む考えを鮮明にした。
↑↑↑
 見出しは、前文を的確に要約している。どこにも「間違い」はない。
 この見出し、記事(前文)を読むかぎり、中国は台湾統一へ向けて「武力を行使する」可能性がある、と読んでしまうそうになる。やっぱり「台湾有事」は起きるのか。中国が台湾に侵攻するのか。ロシアがウクライナに侵攻したように。たいへんなことになるなあ、と思ってしまう。
 でも、この読売新聞の「要約」は正しいのか。
 「政治報告の要旨(全文ではない)」が6面に掲載されている。そこでは、どう書いてあるか。(番号は、私がつけた)
↓↓↓
①「一つの中国」原則と「1992年合意」を堅持し、「台湾独立」に断固反対する。
②台湾問題の解決は、中国人自身が決める。最大の誠意と努力で平和的統一を実現するが、決して武力行使の放棄を約束せず、あらゆる必要な措置をとる選択肢を残す。
③このことは外部勢力からの干渉とごく少数の「台湾独立」分裂勢力に向けたものであり、広範な台湾同胞に対したものではない。
④統一は必ず実現しなければならず、必ず実現できる。
↑↑↑
 少しずつ説明する。
①習は「台湾独立」に断固反対する、と言っている。「台湾を統合する(中台統一)」とは言っていない。中国は「台湾」を中国の一部と認定している。「統合する」もなにも、すでに「ひとつ」である。これは、国連も認めているし、日本も認めている。習がいっているのは「台湾独立反対」である。だから、見出しの「中台統一」、前文の「台湾統一」ということばは正確ではない。
②「台湾問題の解決は、中国人自身が決める」というのは、中国と台湾の問題は「国内問題」であり、国民の「中国人自信が決める」という意味であり、これは当然の権利である。そして、その当然の権利を守るため(国内問題を国民自身で決定する権利を守るため)なら、「武力行使の放棄を約束せず」というのである。つまり、外国が(正確に言えば、アメリカが)台湾を独立させるような動きをするなら、「内政干渉」を理由に、それに対して武力行使を辞さないというのである。「内政干渉」ということばは読売新聞の要約には書いていないし、習がそう言ったかどうかはわからないが、これまでの習の発言から推測すれば、そうなる。
③は、私が②で書いたことを、補足説明するためにつけくわえたものである。「武力行使の放棄を約束せず」という文言だけを取り出して、アメリカやアメリカに追随する国が、「中国は武力で台湾を統一しようとしている」と主張することがわかっているから、そうではない、と念押しするために、つけくわえたのが③である。「このことは外部勢力からの干渉(略)に向けたもの」である、と断言している。「干渉」ということばが、ここにはっきり書かれている。読売新聞は、これを「わざと」無視して、記事の前文、見出しを「ねじまげている」。
 もちろん、台湾にも「台湾独立」をめざすひとが、「ごく少数」いる。そのことは習も認識している。そのこともはっきり書いている。この「ごく少数」は習の「認識」であり、台湾の「実情」かどうかはわからないが、いまだって台湾の人々が権利を迫害されているわけではないのだから「ごく少数」だろうと私は推測している。
 だいたい中国人は、金もうけ第一主義的なところがある。金さえもうかるなら、中国に統一されたってかまわないと考えるひとの方が多いだろう。現実に、台湾と中国を行き来している経済人がいる。中国が世界一の経済大国になれば、台湾は、ぱっと中国に統一・吸収されるだろう。

 ちょっと余分なことを書いてしまったが、習は「中台統一のために武力放棄せず」とは言っていない。台湾を独立させようと「(内政)干渉」する「外部勢力」に対しては、それに対抗し「武力放棄せず」と言っているのである。
 これは言い換えると、アメリカが台湾を独立させるために、台湾や台湾周辺で軍事活動をするなら、それと戦う。そのとき「武力放棄せず」と言っているのである。前文に「米国を念頭に」ということばがある。これは何も、アメリカ本土を攻撃するということを前提にした発言ではなく、台湾問題についてアメリカがどう行動するか、その行動を抑止するために、ということだ。
 習は、【外交】という項目で、こういうことも言っている。これは先に引用した【祖国統一】という項目につづく部分である。
↓↓↓
 中国は独立自主の平和外交政策を揺らぐことなく実施する。覇権主義、内政干渉、ダブルスタンダードに反対する。中国は永遠に覇権を唱えることも、拡張することもない。
↑↑↑
 ここにはっきり「内政干渉」ということばが出てくる。「台湾独立」をそそのかすのは、「内政干渉」である。それは、アメリカの「覇権主義(台湾をアメリカの傘下に収める)」である。アメリカは、わざわざ中国のすぐそばまでやってきて、そこに軍事基地を造る必要はない。アメリカは、アメリカ国内におさまっていろ、と主張しているのである。

 そう認識して読売新聞の「見出し」「前文」を読み直すと何が見えてくるか。「台湾有事」を引き起こして、戦争によって金もうけをしようとしているアメリカの思惑に、読売新聞は寄り添っているということが見えてくる。自民党も、アメリカの軍需産業をもうけさせるために「台湾有事」を期待しているのだろう。日本がどうなろうが、アメリカの軍需産業さえもうかれば、その利益が自分たちに流れ込んでくると考えているのだろう。「台湾有事」葉、アメリカが望んでいることだ。それは「ウクライナ有事」が、同様にアメリカが望んだことをも意味する。

 

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三木清「人生論ノート」

2022-10-09 23:01:25 | 考える日記

「人間の条件について」(前半、254-257ページ)
本文を読む前に、まず「人間の条件」とはなにか、を考える。
人間に必要なもの。「いのち」。これがないと人間ではない。「いのち」の反対のものは「死」。

そのうえで、まず一行目に出てくる「集中」について考える。
「集中」とはどういこと? どういうときに「集中」ということばをつかうか。ここから「集める」が出てくるのだが、「集めて、何をする? 何のために集める?」ここから「形成する」も出てくる。それは「関係をつくる」ということ。
その反対は? 「ばらばら」「つながりがない」(関係がない)。ここから「分解」「要素」ということばが関係してくる。(分解、要素は「関係がある」)

似たことばと、反対のことば。
そのなかで、いちばんむずかしいのは一回しか出てこないことば。
何かを形成する、何かと何かを関係づけて、ひとつのものにする。そのとき大切なのは?
三木清は「秩序」ということばをつかっている。
これを探し出せるかどうか。

私といっしょに三木清を読んでいるイタリアの高校生は、これが、できた。
いやあ、びっくりした。
何かを集めて、形をつくる(形成する)、つまり、ものとものとの関係をつくる。しかし、関係自体は、どういうときでも「できる」。できてしまう。
たとえば、スニーカーの上にチョコレートを置き、そのうえにキャベツを置く。これは「現代芸術」なら表現としてありうるかもしれないが、日常では「ばらばら」(でたらめ)。だから、、、、「ばらばら」「でたらめ」にならないために、何かが必要。「区別」が必要。靴は「履物」であり、「食べ物」ではない、チョコレートと野菜は「食べ物」だけれど、ひとつは加工品、ひとつは加工されていない。で、こういう「区別」をほかのことばで言えるか。
「秩序」ということばを三木清はつかっている。「関係」がうまく「形成」されるためには「秩序」が必要である。

「秩序」さえあればいいのか、というと、これはまた別の問題だが。
それにしても、キーワードのひとつとして「秩序」を、この文章のなかから見つけ出し、それを全体と関連づけることができるというのは、たいへんな能力だと思う。

しかし、三木清の文章はおもしろいねえ。
書き出しの「どんな方法でもよい、自己を集中しようとすればするほど、私は自己が何かの上に浮いているように感じる。」わかります?  「浮いている」? この「比喩」めいた表現はいったいなんなのか。書き出しだけに、すぐには意味がわからない。
これがしばらくすると「海」と「泡沫」の関係として語られ、その「海」と「泡沫」は次の段落で「無数のもの」と「要素」と言い直される。「泡沫」は海の一部(要素)であり、海がなければ泡沫はないが、泡沫がなければ海もない。その「泡沫」としての人間。それが「浮いている」のなかに隠れている。人間は泡沫のようなものだ、という比喩だね。それが書き出しにもどってくる。

この「往復」のなかに、

「生命とは虚無を掻き集める力である。それは虚無からの形成力である。虚無を掻き集めて形作られたものは虚無ではない。虚無と人間とは死と生のように異なっている。しかし虚無は人間の条件である。」

こういうかっこいい文章が出てくる。ここでの「虚無」を「死」と読み替えると、三木清が「死について」で書いていたことが、くっきりとよみがえってくる。
こういうときの「興奮」、覚えていますか? 昔読んだことが、突然、「いま」を支えてくれる。わからなかったものが(わかったつもりになっていたことが)、より鮮明にわかるようになる。その喜び。
こういうことは、私は、イタリアの青年(少年と言ってもいいかもしれない)といっしょに楽しんでいる。
自分が若がえっていくのがわかる。

私は、本のなかの活字よりも、書き込みの方が多いんじゃないかと思うくらい書き込みをする。書き込みをすることで、ことばを整理するのだが、イタリアの青年は、書き込みなしでこれをやってしまう。いつか、私の方が、彼から日本語を習うときがくるかもしれない。 

 

 

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岸田の所信表明演説

2022-10-04 20:41:10 | 考える日記

 ほんとうは、別のこと(物価高)について書きたかったのだが、そのことについて書くために岸田の所信表明演説を読んで、びっくりした。読売新聞(2022年10月04日、14版、西部版、3面)によると、
↓↓↓
 首相は就任後、3回行った国会演説では、過去の例に倣い、勝海舟やジョン・F・ケネディ元米大統領らの言葉を引用した。政府関係者によると、今回も先人の言葉を引いて「国難」を乗り越える思いを示す案が浮上していたが、「ただ愚直に仕事に打ち込む姿勢を打ち出した方が危機感が伝わる」との判断から最終的に外したという。
↑↑↑
 ということで、とても短くなっている。短くなったのはいいのだが、これはねえ、単に岸田のゴーストライターが「手抜き」をした、ゴーストライターさえも岸田から離れ始めているということじゃないのかなあ。だれかのことばを引用するには、そのことばを読んでいる必要があるが、岸田がほんとうに先人のことばを読んでいるとは思えない。「聞く力」というが、岸田はもともと「聞く力」などもっていない。他人のことばの「読み方」を知らない。
 それは、所信表明演説を読むだけでわかる。この所信表明演説もだれかが書いたものだが、それを読んで「このままではわからない」(順序を変えないといけない)という判断もできずに、岸田はそのまま読んでいる。
 そのことを指摘しておく。読売新聞の「章立て」にしたがって紹介すると、①はじめに②政治姿勢③経済政策④新型コロナ、という具合につづいていく。私が注目しようとした経済政策(物価対策)は、①物価高・円安対応②構造的な賃上げ③成長のための投資と改革と三つにわけて対策が発表されている。この③の部分に、岸田の「理解力のなさ」があらわれている。
 ここから、突然「カタカナ」が増える。まず、こう書いている。
↓↓↓
社会課題を成長のエンジンへと転換し、持続的な成長を実現させる。この考えの下、科学技術・イノベーション(技術革新)、スタートアップ(新興企業)、GX、DXの4分野に重点を置いて、官民の投資を加速させます。
↑↑↑
 「カタカナ」が増えるのは、官僚の作文の特徴だが、「イノベーション」「スタートアップ」には「技術革新」「新興企業」と、日本語(?)で言い直されている。なんとなく、わかる。でも「GX」「DX」って、何? よほど経済政策に関するニュースを読んでいないとわからないだろう。「イノベーション」「スタートアップ」はなんとなく英語からも見当がつくが、「GX」「DX」って、なんなのさ。「カタカナ」でさえない。
 その説明は、あとに出てくる。
↓↓↓
 第三に、グリーントランスフォーメーション、GXへの投資です。
 年末に向け、経済・社会・産業の大変革である、GX推進のためのロードマップの検討を加速します。
↑↑↑
 最低限「GX=グリーントランスフォーメーション」であることは、最初に「GX」ということばを発したときに言っておかないと、なんと言ったかさえわからないひとがいるかもしれない。で、そのグリーントランスフォーメーションって、なんなのさ。
↓↓↓
 その中で、成長志向型カーボンプライシング、規制制度一体型の大胆な資金支援、トランジション・ファイナンス、アジア・ゼロエミッション共同体。これまで申し上げてきた政策イニシアチブを具体化していきます。
 同時に、GXの前提となる、エネルギー安定供給の確保については、ロシアの暴挙が引き起こしたエネルギー危機を踏まえ、原子力発電の問題に正面から取り組みます。
↑↑↑
 「カタカナ」だらけで、これまた、わからない。でも、きっと、だれにでも「エネルギー危機を踏まえ、原子力発電の問題に正面から取り組みます」はわかるな。原発を増やす、と言っている。原発を増やさなければならないということを言うために、カタカナでごまかしている。これが官僚の政策なのだが、エネルギー源に原発を活用すると言わずに、変なことばで、演説を聞いているひとをたぶらかしている。
 「そのことば、わかりません。説明してください」「わからないのは、おまえが勉強していないからだ。何も知らない人間は、だまって、知識のある人間(カタカナことばをつかえる人間)の言うことを聞け」
 これが官僚の「口癖」のようなものだが、岸田も「聞く力」を発揮して、それをそのまま受け入れ、「書かれた文章」をそのまま読んで、知ったかぶりをしている。
 岸田自身が自分で文章を書いたなら、少なくとも「GX=グリーントランスフォーメーション」は最初に言う。何のことかわからないから、「質問」もできず、そのまま読んでいるのだ。
 「DX」は、こうである。
↓↓↓
第四に、デジタルトランスフォーメーション、DXへの投資です。
↑↑↑
 そうか、Dはデジタルの略だったのか。それならそうで、これもやはり最初に言うべきだろう。いまどき「デジタル」ということばを知らない人間はたぶんいない。最初に「デジタル」ということばを出すだけで、演説を聞いていて、内容が推測できる。そういう「効果」を岸田は知らない。
 でも、つづきを読む(聞く)と、どうか。(途中にマイナンバーカード活用のくだりがある。原発とおなじように、じつは、これが目的か。)
↓↓↓
 また、メタバース、NFT(非代替性トークン)を活用したWeb3・0(ウェブスリー)サービスの利用拡大に向けた取り組みを進めます。
↑↑↑
 これは、いったいなんなのか。何の説明もないまま、
↓↓↓
 産業のコメと言われ、大きな経済効果、雇用創出が見込まれ、経済安全保障の要でもある半導体は、今後特に力を入れていく分野です。
↑↑↑
 と、突然、だれもがわかるようなことばで視点をずらす。
 ということは、と私は、再び読み返し、考える。
↓↓↓
 また、メタバース、NFT(非代替性トークン)を活用したWeb3・0(ウェブスリー)サービスの利用拡大に向けた取り組みを進めます。
↑↑↑
 ここには多くの人が疑問をもっている「マイナンバー」以上に危険なことが隠されている。それを知られたくないから、教えない。「えっ、そんなことも知らないの? 遅れてるなあ。わからなかったら、知っているひとの言う通りにすればいいんだよ」がここに隠されている。
 これから問題になる「デジタル化」の問題は「メタバース、NFT(非代替性トークン)を活用したWeb3・0(ウェブスリー)サービス」と、私は、私の文書を読んでいる人に「警告」しておく。私はこういうことばに疎いから、実際にどういうことがこれから起きるか想像できないが、とても危険なことが「メタバース、NFT(非代替性トークン)を活用したWeb3・0(ウェブスリー)サービス」としておこなわれる。それは「マイナンバーカード」どころの騒ぎではない。
 この問題は、岸田自身も理解していない。理解していて、それでなおかつ隠している、隠蔽している、とは思えない。岸田は、何度でも書くが、とても口の軽い男である。(私は口が軽いので有名だが、たぶん、私の比ではない。私から見てさえ、岸田は口が軽い、のだから。)
 で、その「口の軽さ」は、この所信表明演説にもあらわれている。つまり、わかりもしない「GX」「DX」を、そのまま知ったかぶりをして最初に言って、あとからカタカナで言い直しているところにね。少し慎重なら、「GX=グリーントランスフォーメーション」「DX=デジタルトランスフォーメーション」と言っておこう、と思うはずである。

 で、ついでに書いておくと、この所信表明演説を書いたのは「ひとり」ではない。複数の人間が手分けして書いた。問題の部分も「前文」
↓↓↓
社会課題を成長のエンジンへと転換し、持続的な成長を実現させる。この考えの下、科学技術・イノベーション(技術革新)、スタートアップ(新興企業)、GX、DXの4分野に重点を置いて、官民の投資を加速させます。
↑↑↑
 はだれか「経済対策」のリーダーが書き、「イノベーション」「スタートアップ」「GX」「DX」は別人に割り振ったのだ。だから、前後の統一性がなくなっているのだ。具体的に「GX」「DX」の部分を担当した人は「前文」を書いたひとの部下。だから、上司に対して「GX」「DX」の説明は、最初に言った方がいいのではないでしょうか、と提言もできない。そういうことも、この所信表明演説からは見えてくる。

 思想というか、考えていることは、単につかうことばだけではなく、そのことばのつかう順序(文脈構成)からもわかるものである。岸田がどういう人間であるか(彼の思想がいかに他人任せの借り物であるか)がよくわかる「所信表明演説」である。
 こんなことは国会では審議されない。だからこそ、書いておく。こういうことは、書かれている「内容(テーマ、意味)」以上に重要である。なんといっても「思想」の根本にかかわるからである。

 

 

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三木清「人生論ノート」を読む

2022-09-25 19:21:21 | 考える日記

イタリア人(18歳)と一緒に三木清「人生論ノート」を読んでいる。そのときの、私のノート(といっても、本の書き込み)をアップしておく。
三木清は、ことばを少しずつ変えながら、ことばを定義していく。その過程がとてもおもしろい。
最初につかっていたことばが、あとで復活してきて、動く。そのとき、定義がより強靱になる。そういうことばの運動がとてもおもしろいのだが、この「日本語授業」についてこられることに私は仰天している。
きょう読んだのは「虚栄心について」。その前に「作文」の添削をするので、解読は90分くらいだが約7ページ(旧字体、旧かな)を読んで、理解してしまう。

私は、この「精読教室」を、ほんとうは日本人相手にやってみたいのだが。
興味のある人、います?

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読売新聞の特ダネ記事の書き方(その読み方)

2022-09-06 09:38:00 | 考える日記

 2022年09月06日の読売新聞(西部版・14版)に、安倍国葬を巡る、岸田支持の記事が書かれている。
↓↓↓↓
「国の儀式」に国葬想定/内閣府設置法 法解釈 2000年文書に明記
↑↑↑↑
 この見出しを読んで、いったい、何人が書かれている記事の内容を正確に把握できるだろうか。詳しく読み直したりはせず、簡単に「安倍国葬」に「法的根拠がある」と思うだろう。
 記事(前文)を読むと、こう書いてある。(番号は、私がつけた。)
↓↓↓↓
①政府が、2001年1月の内閣府設置法施行前から、内閣府所管の「国の儀式」の一つに「国葬儀(国葬)」を想定していたことが分かった。②00年作成の内部文書に明記されていた。③安倍晋三・元首相の国葬実施が決まる前から、政府の法解釈が維持されていることを示すものだ。ただ、国民に理解は広がっておらず、丁寧な説明が求められる。
↑↑↑↑
 ①注意しなければならないのは、まず「分かった」という書き方である。どうしてわかったのか。「読売新聞の調べでわかった」とは書いていない。独自に調査したのではない。だれかから教えられたのだ。つまりリークされた「特ダネ」なのである。
 ②は、内部文書の作成時期が安倍殺害前なので、時系列的にみて、国葬の根拠になるということだろう。しかし、それはあくまで「内部文書」である。つまり、公開されていない。そんなものを「根拠」といわれても、誰も納得できないだろう。③に関係するが「内部文書」なのだから「国民に理解は広がっておらず」は当然のことであり、こういう「内部文書がある」だけでは「丁寧な説明」にはなりえない。
 で、これは①につながるのだが、読売新聞はどうやってその「内部文書」を手に入れた? 書いていない。つまり、記者が自分で調べたのではなく、政府関係者が「これを書いてくれ」と提示したのだ。言い直すと、政府に代わって、読売新聞が「丁寧に声明」しようとしている。政府の「代弁」をしている。
 記事を読んでいく。
↓↓↓↓
④内部文書は00年4月、政府の中央省庁等改革推進本部事務局内閣班が作成した「内閣府設置法コンメンタール(逐条解説)」。同法4条が所管事務に挙げる「国の儀式」には〈1〉天皇の国事行為として憲法が定める儀式〈2〉閣議決定で「国の儀式」に位置づけられた儀式――の2種類があると説明。〈2〉の例として、「『故吉田茂元総理の国葬儀』が含まれる」としている。
⑤岸田首相は7月14日、この解釈に沿い、国の儀式として安倍氏の国葬を行う方針を発表し、同22日に閣議決定された。
↑↑↑↑
 ④は「内部文書」の説明。問題の「内閣府設置法」というのは「平成11年(1999年)」にできている。「内部文書」は読売新聞の報道では「00年(平成12年)4月」に作成されている。最初からあったのではなく、あとでつくられたもの。だから法案ができたときは、だれもそれを知らない。もちろん法案を審議するとき、その問題が討議されたかもしれないが、それならば、多くの国会議員が知っているだろう。どうも、そうではないように思える。
 問題の内閣府設置法の4条(3項33号←これは、記事には書いておらず、表の中に書いてある)というのは、詳しく見ていくと。
↓↓↓↓
第4条 内閣府は、前条第1 項の任務を達成するため、行政各部の施策の統一を図るために必要となる次に掲げる事項の企画及び立案並びに総合調整に関する事務(内閣官房が行う内閣法(昭和22年法律第5 号)第12条第2 項第2 号に掲げる事務を除く。)をつかさどる。
(略)
3 前二項に定めるもののほか、内閣府は、前条第2項の任務を達成するため、次に掲げる事務をつかさどる。
(略)
三十三 国の儀式並びに内閣の行う儀式及び行事に関する事務に関すること(他省の所掌に属するものを除く。)。
↑↑↑↑
 内閣設置法を読むだけでは「国の儀式」が何を指すかは「特定」できない。だからこそ、「内部文書」が必要なのだろうが、その「内部文書」が法の成立後にできているということは、法が成立する前は、そのことが審議されなかったことを意味するかもしれない。審議済みであれば、「内部文書」よりも、その「討議議事録」を明示する方が、「法的根拠」になる。つまり、このことは国会で審議しており、野党も了承済みと言えるのだが、そういう書き方をしていない。
 だからこそ、政府のだれかからリークされたことを、そのまま、書き流しているのだと推測できるのである。
⑤は、あたかも岸田が最初からそれを知っていたかのように書いているが、もし最初から知っていたのだったら、いまごろになって「丁寧に説明する」ではなく、最初の段階で、「国葬」は内閣府設置法4条にもとづく。該当項目は3項33号。2000年の「内部文書(逐条解説)」に明記されている、と言える。
 そうしなかったのは、知らなかったからである。
 国葬が問題になってから、すでに一か月以上たつが、その間に、誰もこの「内部文書」のことを言わなかったのは、だれもが知らなかったからである。やっと「内部文書」を見つけ出し、読売新聞に提供し、あたかも「特ダネ」のように報道させている。政府関係者(あるいは岸田)がいま公表すれば、なぜ、それを最初に言わなかったのかと批判されるからである。でも、読売新聞に「スクープ」させれば、そういう批判は避けられる。私のように、読売新聞は政府の代弁をしているというような批判がせいぜいである。

 さて。
 読売新聞の「見出し」にもどる。
↓↓↓↓
「国の儀式」に国葬想定/内閣府設置法 法解釈 2000年文書に明記
↑↑↑↑
 この見出しは「文書」とは書いているが「内部文書」とは書いていない。ここが「大きなウソ」の第一歩。「文書」という表現にであえば、たいていの読者は「公式文書」と思う。「法解釈」に関係する文書なら、なおさらだろう。
 しかし、その文書は「内部文書」なのである。だれも知らない。関係者しか知らない。それを「法的根拠」というのは、どうしたって無理がある。
 さらに「内部文書」で「吉田茂の国葬儀」が含まれると書いているからといって、それが安倍に適応できるかどうかは別問題である。統一教会の宣伝マンをやっていた、森友学園、加計学園、桜を見る会(前夜祭)などの「未解明」の問題がある。そういう問題を棚上げにして、「内部文書」を適用した、というのは、単なる政府の言い分である。
 「特ダネ」をリークされたら、それを報道することの「意味」も検討しないといけない。新聞にしろテレビにしろ、「知っていること」の全てを報道しているわけではないはずだ。そこに取捨選択がある。だとしたら、何を捨て、何を報道するか、そこから考え直さないといけない。
 読む方も、なぜこの記事は書かれているか、を考えながら読まないといけない。今回の読売新聞の記事は、「私は政府関係者からこんな内容のことをリークされた、私は政府関係者に通じている」ということを読売社内でアピールするためのものだったんだろうなあ。こうやって記者は、政府に気に入られながら出世していく、そして癒着がさらに深まっていくということだろう。
 「作文」を読むのは、ほんとうに楽しい。

 

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天皇退位と統一教会

2022-09-04 00:29:56 | 考える日記

 ある知人から、統一教会をめぐり、天皇退位にも関係しているのだろうか、と質問を受けた。私が「天皇の悲鳴」で天皇退位問題について書いていたからだと思う。
 私は、大いにありうると思う。
 そのことを書く。

 平成の天皇退位でいちばん問題なのは、だれが「生前退位」ということば(NHKのスクープのときにつかわれた)を思いついたかである。前の皇后が誕生日に「生前退位ということばに傷ついた」と言うまでは、マスコミは「生前退位」ということばをつかいつづけた。皇后の非難で、はじめて「生前退位」ということばをつかうと、それが天皇の本意ではない(皇室では、そのことばはつかわない、と当時の皇后は言った)ことがわかる。読売新聞が大慌てで「退位」に切り替え、朝日新聞が即座に追随した。
 さて、「生前退位」を思いついたのは、だれなのか。NHKが自ら「思いついた」とは思えない。だれがNHKに対して「生前退位」をリークしたのか。安倍の関係者だと私は思っているが、「生前退位」ということばを安倍が思いつくとは思えない。
 ブログに書き、それを大幅に簡略化した「天皇の悲鳴」でも書いたが、だれか「黒幕」がいる。それは、もしかしたら「統一教会関係者」であるかもしれない。
 それを「印象付ける」のが「令和」への元号切替日である。5月1日という、何がなんだかわからない日である。ところが、この日は統一教会の創立日である、という。もちろん、ただの偶然かもしれないが、「必然」かもしれない。統一教会は、天皇を韓国に呼び寄せ、謝罪させるというようなことを「主張」として掲げている。統一教会の創立日に、前の天皇が退位する、新しい天皇が即位するなら、それは前の天皇を「退位させた日」として、統一教会の「歴史」に記すことができるだろう。統一教会の創立記念日に、平成の天皇は退位した。天皇は、統一教会の「支配下」にある、ということを世界に知らせることができた、と言うだろう。あるいは、5月1日に即位した令和の天皇は、統一教会の操り人形である、と宣伝することができるかもしれない。その日を狙っているのだろう。
 荒唐無稽、と感じるかもしれないが。
 しかし、日本は韓国に服従しなければならない、日本の女性は韓国の男性と結婚し奉仕しなければならない、と主張し、他方で国家議員や地方自治体の議員を思うままにあやつっているのだから、それくらいはやるだろう。
 元号変更日を5月1日にした「理由」を安倍は、だれもが納得する形では説明していない。(私が納得していないだけかもしれないが。)令和の天皇の誕生日は「区切り」が悪い。4月1日は年度替わりだが「統一選」と重なり、社会が騒々しい。そんなことが、5月1日の「根拠」になるはずがない。5月1日って、ゴールデンウィークの真っ最中。みんな、どこかへ旅行したい。天皇なんか関係ない、が国民の思いだろう。6月1日でも、7月1日でもいいのに、なぜ5月1日か。
 統一教会が、この日がいいと「推薦」したのかもしれない。

 そこで。
 次は国葬である。9月27日って、何の日? だれか統一教会の歴史に詳しい人はいない? 岸田はなぜ9月27日という日を選んだのか。何が出てくるか、ちょっと楽しみだ。

 ということは、さておき。
 話をもとに戻そう。安倍が統一教会の「言いなり」になっていたということがわかった以上、「天皇生前退位」から、見直してみる必要がある。そのとき、「手がかり」は何度も書くが「生前退位」ということばをだれが思いついたか、である。
 それがわかれば、すべてがわかる。
 この「パンドラの箱」の蓋を、ぜひ、NHKに開けてもらいたい。NHKがスクープしたとき、だれが「退位」ではなく、「譲位」でもなく、「生前退位」ということばを提案したのか。それを、NHKは知っているはずだ。いま、あれこれ統一教会絡みの報道をして「アリバイ」づくり(あとだしジャンケンの自己保身)をNHKはしている。これも、もしかすると「生前退位」問題を隠蔽するためのものかもしれない。そう考えると、最近の、突然のNHKの豹変ぶりもわかる。なんとしても「生前退位」にまで問題をさかのぼらせてはならない、という意図が動いているのかもしれない。

 

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記事非公開(いやあな気持ち)

2022-09-02 09:49:54 | 考える日記

 2022年08月28日(日曜日)に投稿した「Estoy loco por espana (番外篇182 )Obra,  Jose Manuel Belmonte Cortes」が「非公開」になった。
 「理由」は推定できるが、確定できないので、goo 事務局(?)に問い合わせている。たぶん、写真が問題なのだろうと思う。「彫刻」の写真なのだが、その彫刻があまりにリアルなので、人間の写真と勘違いして、だれかが「通報」したのだろう。
 これは、まあ、私にとっては災難だが、ベルモンテにとっても「名誉」かもしれない。リアリズムに徹底している作風が、そのまま「リアルだ」と評価されたのだから。
 私がアップした写真(たぶん、ベルモンテが撮影)は、まだ、不鮮明だが、実際に作品を肉眼で見ると、笑いだしたくなるくらい「リアル」である。モデルのLuisが包茎であるかどうかは知らないが、その包茎の皮の形までがリアルなのだ。手抜きがいっさい、ない。
 もちろん作者が「著作権違反(無断転写)」を訴え、そのため「非公開」に設定されたということも「理論的」にはありうるが、現実的には、絶対にない。もう何度もベルモンテの作品は紹介してきているし、今度の作品は近く出版する本にも掲載する。それはベルモンテも知っている。

 いま、いやあな気持ちでこれを書いているのは。
 いったいだれが、ベルモンテの作品を「わいせつ」と判断したかということだ。なぜ、そう判断したか、ということだ。
 判断した人は、少なくとも私の書いた文章を読んでいない。写真しか見ていない。文章を読めば、それが「彫刻」であるとわかる。性器を露出した男の彫刻なら、世界にいくつでもある。ミケランジェロのダビデ像はあまりにも有名だ。だれもがその写真を撮るだけではなく、自分の姿といっしょに一枚に収めたりする。

 goo ブログの投稿が、一日当たりいったい何件あるか知らないが、私のような読者のすくないページをgoo 事務局がいちいち閲覧しているとは考えにくい。
 読者のだれかが「通報」したのかもしれない。それはそれでかまわないが、通報する限りは、文章も読み、アップされている写真が「実際の人間」のものか、「彫刻」かくらいは理解してほしい。goo 事務局も、「通報」があったから「非公開」にするというのではなく、「通報」が正しいかどうか、きちんと判断してほしい。さらに、どこに問題があるのか「規約違反」と言うだけではなく、具体的に指摘しないと意味がないだろう。

 

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弔問外交とは?

2022-09-02 09:07:46 | 考える日記

 ゴルバチョフが死んで、また「弔問外交」ということばが飛び交ったが……。
 安倍の「国葬」のときほどは疑問に思わない。安倍の「国葬」での弔問外交って、いったい何? たしか岸田が「弔問外交のチャンス(?)」というようなことを言っていたと思うけれど。
 何が疑問かというと、弔問外交というのは、弔問に行って、そこでなかなか会えない人と会い、交渉するということだと思う。
 たとえばゴルバチョフの「国葬」があると仮定する。岸田が参列する、と仮定する。バイデンも習近平も来る。そこで3人がことばを交わす。これは、たしかにチャンスだね。プーチンとも話せたら、それはすごいなあ、と思う。
 でも、これって「弔問」というくらいだから、「弔問」に行ったひとのすることだね。
 安倍の「国葬」。だれが来るか知らないけれど、岸田が、やってきた人たちと会談できるのか。たとえば、プーチン、バイデン、習近平、だれかわからないけれどイギリスの新首相が弔問に来たとして、岸田は、そのひとたちとどうやって会う? 時間調整は? 100国から弔問が来たとしたら、どう処理する?
 「喪主」ではないが、「国葬」の責任者(?)である岸田が、弔問客と会談している時間なんかあるのか。もちろん岸田以外の閣僚が会談するということも含めて「弔問外交」と呼ぶのだとしても、日本のだれかが外国のだれかと会うこと、そこで何らかの「会談の成果」が産まれるなんていうことは、まあ、考えられないね。

 簡単に言い直せば。
 ふつうの葬儀でも(私は、自分の肉親の葬儀を含めて、まだ10回くらいしか葬儀を体験していないので、実態を知らないのだが)、弔問に行って、遺族(喪主家族)と会談するというのはなかなか少ないのではないか。たいていは、そこで会った旧友、知人と「せっかく会ったのだからちょっと話そうか(飲もうか)」が「弔問外交」ではないのか。
 一般の葬儀とは違うが、「主催者側」に「外交/交流」をしている時間的余裕があるとは、私は想像できない。
 つまり。
 岸田は「弔問外交」の機会というけれど、岸田がほんとうにどこかの国の首脳と会談して、そこで何らかの「成果」をあげることができるのか。せいぜいが「私が日本の首相の岸田です」と言うことくらいしかできないだろう。まあ、顔合わせをして、名前を言う、つまり「面識」をつくるということが「外交」の「成果」と言うのがそれはそれでかまわないが、そんなことをしないと岸田であることを知ってもらえないのだとしたら、それこそ問題だろう。「存在感」がないということを証明するものだ。
 私は、ばかだから、他人のことばをそのまま信じたりはしない。
 安倍の「国葬」も、「国葬」なんかではない。国会で審議して、実施するわけではないのだから。岸田が発案し(?)、閣議で決定したのだから、「閣議葬」にしかすぎない。そこに税金をつぎこむのは、職権の濫用だ。
 でも、その岸田の職権が、はたして「弔問外交」で発揮できるか。岸田はバイデンと会談することに「閣議決定した」というようなことは、できないね。さらに、バイデンはこなかったがマバマが来たので(来ないだろうけどね)、岸田・オバマ会談を「日米首脳会談である、と閣議決定した」なんていうことがありうるわけがない。
 岸田に対して、「それはおかしい。そんなことは認めるわけにはいかない」と、だれも言わないから「閣議決定」が通ってしまう。これは、言い直せば、岸田が国民を支配していると思っているからだろう。バイデンやオバマに対して「日米首脳会談を閣議決定した」と主張し、「だから国葬に参列しろ」とは言えないでしょ?
 こんなことを書くと、アメリカ相手と、国民相手では「条件」が違う、というかもしれないなあ。そんなことは知っている。しかし、アメリカを相手にするとき、それなりの「手続き」が必要だというのなら、国民を相手にするときも、ちゃんとした「手続き」が必要なのだ。日本は「議院内閣制」の国なのだから、国会で審議し、その決定に従うという「手続き」が必要なのだ。
 「手続き」を踏まないことを、「独裁」と呼ぶ。
 安倍の「国葬」は、「独裁」の具体的な始まりなのだ。あの戦争法でさえ、国会で審議し、議決している。

 

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