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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(43)

2019-07-02 10:44:20 | 嵯峨信之/動詞
* (ここに夕が)

ここに夕が あそこに朝が
並んだ日々のなかにずり落ちそうな一日が懸かつている

 「並んだ日々」のすべてを覚えているわけではない。ある日は「朝」を、ある日は「夕」を、書かれていないが、ある日は「昼」あるいは「夜」を覚えている。一日を印づけるのは、大きな出来事もあれば小さな出来事もある。
 「ずり落ちそうな一日」というのは、どんな記憶も呼び覚まさない日のことだろうか。思い出せるけれど「ことば」にすることができない日かもしれない。「ずり落ち」そう、しかし「懸かつている」。「……いる」は「いま」もその状態である、継続しているということ。
 ほんとうに書かなければいけないのは、その「一日」である。でも、書けない。










*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(42)

2019-07-01 10:07:02 | 嵯峨信之/動詞
* (失われた恋は)

眠りに刻まれた笑い顔のように
つかのまになぜ消えてしまわぬのか

 恋は失われても、消えない。記憶は消えない。「失われた」という意識が残る。
 この「抒情の論理」よりも、「眠りに刻まれた笑い顔」という比喩が生々しい。
 「笑い顔」はだれの笑い顔だろうか。恋人のか、嵯峨自身のか。恋人の顔と受け止めるのが自然なのかもしれないが、私は恋が失われたことに気づき、むりやり笑った自分の顔かもしれないと、ふと思った。
 なぜ笑ったのか。
 悲しいのに、笑った。その「矛盾」が記憶に残る。後悔よりももっと深く。









*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(41)

2019-06-30 13:14:34 | 嵯峨信之/動詞
* (ぼくが記憶のなかで)

ぼくが記憶のなかで失つた多くの路上を
いまだれかが歩いているだろう

 「記憶のなかで失つた」という表現が意識を覚醒させる。「忘れる」とは違う。「記憶」そのものはあるのだが「路」がない。でも、記憶は「ある」。
 だからこそ次の行の「歩く」という動詞が可能になる。動くことができる。
 疑問に思うのは、なぜ「多くの」路上なのだろうか。この「多く」は「路」を指しているのか。それとも「長さ」を「多く」と言いなおしているのか。さらに二行目の「歩いている」のはひとりなのか。「多く」は「歩いている」ひとを間接的に修飾しているのか。
 ひとは「多く」のものをなくす。けれどなくしたと意識するのは、「ひとつ」ではないだろうか。そういう疑問も残る。









*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(40)

2019-06-29 11:03:03 | 嵯峨信之/動詞
雑草詩篇 Ⅲ

* (小さな水溜りは)

風が吹くと
水溜りはおさない翼でいつしんに飛び立とうとする

 小さな波を翼に見立てている。
 「おさない」と「いつしん」の呼応が強い。さらにそれが「する」へと結びつく。「いつしんに」「する」。
 飛び立てるように、嵯峨は祈ってる。その祈りも「いつしん」だ。


*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(39)

2019-06-28 08:49:43 | 嵯峨信之/動詞
* (時と空気と)

時と空気とがずれると
息がとまる

 時間と空間ではなく「時と空気」。
 こう書くとき、嵯峨は「時」をどんなふうにとらえていたのだろうか。
 「時」の実感はなく、「空気」の密度(濃度)のようなものだけが、息苦しいまでに実感されている。空気だけが「時」を置き去りにして希薄になったのか、空気が「時」に押し寄せて濃密になったのか。どちらの場合も瞬間的に息ができないと感じるだろう。
 後半を読むと、嵯峨がどちらを感じていたかわかるのだが、そのことについては書かない。「意味」になりすぎるから。
 私は後半の「意味」よりも、一行目の「ずれる」がおもしろいと思った。
 「時」と「空気」は一体のものかもしれないが、別々の名前で呼ばれ、別々であると意識したときから「ずれ」が始まる。
 「ずれ」が他のものに影響していく。それが引用しなかった後半の「意味」である。










*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(38)

2019-06-27 09:07:57 | 嵯峨信之/動詞
* (ある者は)

地球のどこかに
何処へも歩きつけない一すじの道がある

 「歩きつけない」。どこへもつかないとしたら、その道を歩いている人はどうなるのだろうか。
 道に「なる」。
 嵯峨は、道が「ある」と書いているが、その「ある」は歩いている人にはわからない。道に「なる」の「なる」も歩いている人にはわからない。
 それが何かわからないけれど、「なる」ということが「ある」のが詩だ。
 私は、嵯峨のことばを、こう書き換えて読む。

地球のどこかに
何処へもたどりつけない一篇の詩がある










*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(37)

2019-06-26 09:04:13 | 嵯峨信之/動詞
* (ぼくはよろめいた)

ぼくはよろめいた
地球の大きな影につかまりそうになつた

 なぜ「よろめいた」のか書いていない。
 二行目は一行目の結果かもしれないが、私は逆に読んでみる。二行目が「原因」であると。
 地球の影につかまりそうになる、というのは「気づき」である。自分やまわりにあるものの影ではなく、地球そのものにかげがあると気づいた。気づきの衝撃が嵯峨をつかまえてしまう。それからのがれようとして「よろめく」。
 「よろめく」には自分の力を超える何か、自分ではどうすることもできない何かを感じさせるものがある。








*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(36)

2019-06-25 09:49:33 | 嵯峨信之/動詞
* (水に溺れながら)

水に溺れながらきいた鐘の音は
死体になると
どちらの耳から空へ帰るのだろう

 「死体になる」は「死ぬ」。しかし、嵯峨は「死体になる」と書く。その「死体」があるから、次の行の「耳」がリアルになる。「死ぬ」という動詞では「耳」が唐突に感じられるだろう。つまり「耳」に特化するための「物語」が必要になる。
 「耳」がリアルだからこそ「どちら」もリアルになる。
 そして「空へ帰る」という動きを印象の強いものに変える。「空想」ではなく「事実」に帰る。「空想」が「事実」になる。









*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(35)

2019-06-24 00:00:00 | 嵯峨信之/動詞
* (円の中は)

円の中は
隅々まで明るい

 円はどれくらいの大きさだろうか。円を見つめるとき、嵯峨はどこにいるのだろうか。円の外側か、円の内側か。
 円の大きさは自在に変化する。
 明るいと感じたところまでが円なのだろう。円い明かりが円の中に降り注いでいる。「明るい」は形容詞だが、「明るくする、明るくなる」という動詞として感じられる。

 この詩には、あと一行あるのだが、それを省略して、私は「誤読」する。







*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(34)

2019-06-23 10:08:24 | 嵯峨信之/動詞
雑草詩篇 Ⅱ

* (曙はその銀色の)

曙はその銀色のターバンをはずして
雪の沈黙の中から
今日 ある世界として現われる

 一行目の銀色は想像を裏切るが、二行目の雪によって「現実」になる。この「なる」を「ある」と言いなおして、三行目は書かれている、と私は読む。
 「或る」ではなく「在る」。
 「在る」と「現われる」が同時に書かれることは、「学校文法」からみれば「間違い」である。「学校文法」的には「あるひとつの世界」として「現われる」ということになるが、それでは「弱い」。「論理的」すぎてつまらない。「現われた世界が、在る」とことばを倒置させて読むのでもなく、いま「在る」世界が「在るという姿」そのままに「あらわれる」。むき出しの「在る」を体験するのだ。







*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(33)

2019-06-22 09:49:03 | 嵯峨信之/動詞
* (その地図は)

その地図は色も塗つてなければ海と空と陸地との区別もない
地名も何も記入されていないが
川だけが名づけられている

 一行目は非常に印象的だ。「地図」とは「地」の「図」だから、ふつうの地図には「海と陸地」の区別はあるが、「海と空」「空と地」の区別はない。空を含めた地図は存在しない。ふつうは存在しないものが、あたかもあるかのように書き出されている。
 これは、しかし、あくまでそれにつづく二行を導くためのことばである。ありえないこと、つまり非論理的なことを書いているが、そこには「非論理」という論理がある。論理を刺戟するものがある。つづく二行は、だから、論理がどんな形で存在しているかを見落としてはいけない。
 「地名」は「川」ということばと出合い「名づける」という動詞を呼び覚ましている。「名づける」とき、すべてが存在し始める。
 ここから一行目へもどると、空も空と名づけられたときから存在することになる。名づけたものにとって、それは省略できない何かである。だからこそ、空をふくめた「地図」が存在してもいい。
 この川は「白い川」と呼ばれている。その最終行。

白い川に説明はない

 「説明」とは論理のことである。
 「名づける」という動詞は論理を超越している。絶対的な「行為」であることを、この最終行は暗示している。

 (途中を省略してあるのでわかりにくいかもしれないが、私は、詩の「解説」を書いているのではないので、こういう書き方になる。私の書いていることばは、あえていえば「註釈」だが、それは私自身のための註釈である。私のことばを動かすための註釈である。他人と共有することを目指してはいない。むしろ他者を拒むためのことばである。わたしはそれを詩と呼ぶことがある。)





*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(32)

2019-06-21 10:00:24 | 嵯峨信之/動詞
* (友情が重さをますのは)

塩を大きな袋に詰めながら
ひとりの男が唄つている

 唄は男の仕事(塩を詰める)と関係があるか。たぶん、ないだろう。「作業唄」ではなく、男がふと思い出す唄を思う。
 「唄う」という動詞は、どう言うことだろう。
 もし唄わずに、おなじことばを話していたら、この男はとても風変わりに見えるだろう。
 唄う人は人を安心させる。
 唄うというのは、その人の何かを解放すると同時に、聞く人にその解放を伝えるものかもしれない。
 しかし、そういう感想を裏切るように、この詩は、こうつづいている。

魂の外に出ようとするとそこにながれているのは死の唄だ

 いつもとは違い「魂」と嵯峨は書いている。
 「魂しい」と「魂」を嵯峨はつかいわけているようだ。
 概念としての「魂」、嵯峨の実感としての「魂しい」と考えることができる。
 概念の外には「死」が存在する。死んだあと、肉体を「魂」が抜け出すということを人は言うが、肉体をのがれた「魂」は「肉体の死」、あるいは「死の肉体」を目撃することになるのか。
 私は「魂」の存在を実感したことがないので、こういうことについて書くのは、どうもこころもとないが、嵯峨は「魂」を「死」と結びつけ、「魂しい」と「生(いのち)」と結びつけているのではないかという気がする。
 「魂しい」という書き方をすれば、たぶん「死」はこの詩に登場しなかっただろう。つまり、違う詩になっていただろう、と思う。
 単なる「直感」だが。





*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(31)

2019-06-20 00:00:00 | 嵯峨信之/動詞
* (このように細々と)

その音がやむと
大空のはてを
僧侶の一行が遠ざかつていくのが見えた

 「音」と「イメージ」の関係が印象的だ。
 音が「やむ」とイメージが「見える」。しかも「見える」ものは「遠ざかつていく」。つまり消えていく。音とイメージは、一瞬のうちに交代し、「消える」という動詞のなかでひとつになる。「消える」という動詞はここには書かれていないのだが。




*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(30)

2019-06-19 00:00:00 | 嵯峨信之/動詞
* (文字板の上を)

文字板の上を這いずりまわる昆虫
虫たちの小さな出合い 別れ
司会者が笑いながらその時刻を空に書いている

 「司会者」とは誰だろうか。何の「比喩」だろうか。
 私は「太陽」を思い浮かべた。「時刻を空に書いている」。こういうことができるのは太陽だ。そして「時刻」は「正午(真昼)」を想像した。いちばん強い光が虫たちの影をいちばん小さくする。裸の虫たちが出合い、別れる、その瞬間を想像した。

 「這いずりまわる」というのは、私の耳には非音楽的に響く。けれど、そのあとの光景を「真昼」ととらえると、風景は一気に「絵画的」になる。そうして、そのあと明るい「笑い」が広がる。



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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(29)

2019-06-18 09:14:54 | 嵯峨信之/動詞
* (水子たちが)

きまつているのは
水子たちはどこかへ行かねばならぬということだ

 「きまつている」。これは、だれが決めたことだろうか。「きまつている」は「決める」よりも強い。「決める」を超える力がそこにある。
 そして、その力が「行く」をぐいぐいと押す。
 もどることはできない。「行く」だけなのである。

帰路のないひそかな遠いところへ

 「ひそかな」ということばは、「きまつている」と結びついている。「きまつている」(確実である)から、「ひそか」であっても揺るがない。水子は消えるが、その消える場所は「消える」ということがない。



*

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