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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マルセル・カルネ監督「天井桟敷の人々」(★★★★★+★★★★★)

2010-12-05 10:30:20 | 午前十時の映画祭

監督 マルセル・カルネ 脚本 ジャック・プレヴェール 出演 アルレッティ、ジャン= ルイ・バロー、ピエール・ブラッスール、ピエール・ルノワール、マリア・カザレス、マルセル・エラン

 この映画の充実は冒頭の「犯罪大通り」とラストのシーンに象徴されている。スクリーンからあふれる群衆。手前で重量挙げ(?)の大道芸、遠くでカンカン踊りの呼び込み――が1カットに納まる。あ、いったい何人動員して撮影したんだろう。リハーサルはどうしたんだろう。手間がかかるよなあ。でも、その手間を惜しまず、丁寧に丁寧に作ったのがこの映画だ。
 そして手間暇をかけるといえば、やっぱり、恋愛。人生でいちばん手間がかかることを、ほんとうに丁寧に描いている。恋愛と同棲(セックス)と結婚は別、そして恋愛(愛)こそが人間の名誉がかかった大切なもの――というフランス人の「哲学」が、まあ、丁寧で丁寧で丁寧で、これは若者にはわかりませんねえ。
私は30年ほど前に見た時は、変な三角関係(二重の三角関係)くらいの見方しかできなかったが、いやあ、違いますねえ。
特に、男のうじゃうじゃとした「嫉妬」がすごい。女の方は「嫉妬」しない。セックスの結婚も超越して、ただ純粋に「愛」を生きている。信じている。きっぱりと、生きている。愛のプロだねえ。「愛に正しいも、間違いもない。ただ愛の人生があるだけだ」は「ウエストサイド物語」のなかのセリフだが、その女の「愛の人生」のなかで、男がうじゃうじゃしている、ああだ、こうだ、と悩み、決闘も、暗殺(?)もしてしまう。去った女を、必死に追いかける。
その出会いから別れまで、ほんとうに丁寧だなあ。
如実にあらわれるのが、セリフだ。ことばがどんどん磨かれてゆく。「愛している人同士にはパリは狭い」というのは、最初は「ほんとうに愛しているなら、必ずあえるはず。約束しないと会えないのは愛がないから」という拒絶の意味だったのが、「会いたい、会える」という祈りにかわる。最後は、その「狭い」パリ、狭い狭い犯罪大通りの人ごみの「狭さ」が愛し合っている2 人を引き裂いてしまう。「ガランス」と叫ぶ声をかき消してしまう。(「望郷」のラストみたいだなあ。)
そのほかのセリフも、愛が真剣になるばなるほど、とぎすまされ、無駄のないことばになっていく。どこをとっても「名セリフ」ばかりである。しかし、それが「ことば」として浮いてしまわないのは、役者の力だなあ。
その役者の力にあわせるように・・・。
「愛」の人生の一方、役者人生、芸人人生がオーバーラップするのも、おもしろいなあ。「芸人」を描いた映画ともいえる。「嫉妬」に苦しみ、その果てに「オセロ」を演じることができると確信するところなんか、すごいなあ。「女(恋愛)は芸のこやし」を地でやっている。「生活」が「芸」を育てていく。「生活」を「芸」のなかに次々にとりこんでゆく。「オセロ」のように人間理解だけではなく、嫌いな人間を芝居のなかでからかったり、アドリブで芝居をかえたり・・・たくましいねえ。
けっして見あきることのない映画、傑作中の傑作のこの映画が、しかし、第二次大戦中、ドイツの占領下でつくらたというのは奇跡だ。さすが恋愛の国フランス、映画の国フランスだね。



書きそびれたが、アルレッティは不思議な女優だ。私は、アルレッティを美人だと思ったことはないが、どんな視線も飲み込んでしまう(ひきつけるを通り越している)肉体をもっている。最初、見世物小屋の「ヌード」で登場するが、そのエセヌード、女体の秘密でさえ、なんというか怒ることを忘れさせる何かがある。だまされているのに怒りださない「紳士たち」の気持ちがなんとなく納得できる。人間ではなく「おんな」がそこにいる。それは「男」とは違っている。「おんな」としか言えない「いきもの」がまっすぐに存在している。その、「まっすぐ」の力がすごい。

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