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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ウィリアム・ワイラー監督「ローマの休日」(★★★★★)

2010-10-19 12:00:29 | 午前十時の映画祭

監督 ウィリアム・ワイラー 出演 オードリー・ヘップバーン、グレゴリー・ペック

 オードリー・ヘップバーンの透明な美しさが輝いている映画である。何度見ても、その透明さに驚く。
 と、書いたあとでこんなことを書くのは変かもしれないが、私がこの映画でいちばん好きなのは舞踏会のシーン。オードリー・ヘップバーンがドレスの下でハイヒールを脱ぐ。右足をほぐし、左足の裏側をかく。そんなしぐさをする。そして靴が倒れる。
 王女もそんなことをするんだ--という、うれしいような感覚が、この瞬間生まれるから、というのはもちろんだけれど……。
 このシーン、とっても変でしょ? 何がって、ドレスの下なんて、見えない。それなのにカメラは平気でドレスの下にもぐりこんでオードリー・ヘップバーンの足を写している。俗なことばでいえば「盗撮」だね。しかも、堂々とした盗撮だねえ。
 でも、映画だから、もちろん「盗撮」ではない。
 では、何か。
 映画の「暗示」である。
 この映画は、オードリー・ヘップバーン王女様が、窮屈な生活から逃れ、ひととき、庶民にもどり、ふつうの生活を楽しむ。その解放感を描いているのだが、その喜びは、実は「外側」だけではない、解放は「外側」だけではない、という暗示である。
 それは、オードリー・ヘップバーンがセックスをしたという意味ではなく、その楽しみはセックスにつながる楽しみであるという暗示である。
 もともと靴を脱ぐというのはセックスをするという意味に重なる。だからポルノ映画で娼婦がハイヒールを履いているのは、実はセックスをしていません、という意味なのである。その姿態が見えていても、隠しています、という意味なのだ。だから、エロチックなのだ。
 この映画では、この靴と肉体の関係はもう一度出てくる。
 オードリー・ヘップバーンはベッドのなか。外から音楽が聞こえてくる。その様子を見るためにオードリー・ヘップバーンが窓に駆け寄る。そのとき侍女が「スリッパを履いて」と注意する。それは足がよごれるというよりもスリッパを脱ぐということがセックスにつながるからである。
 スリッパは「裏窓」でもセックスの象徴としてつかわれていた。グレイス・ケリーがジェームズ・スチュアートのアパートに泊まりに行く。そのときスリッパをもっていく。それは靴を脱ぐ。セックスもする、ということである。知人がスリッパに目を止めたとき、ジェームズ・スチュアートが「そんなところまで見るなよ」というような顔をするのはそのためである。
 そういう暗示を踏まえて、「ローマの休日」を見つめなおすと、ますますおもしろくなる。どこまでもどこまでも清純なオードリー・ヘップバーン。世間知らず。その美しさ。世間知らずだけれど、人間だから嘘をつくことくらいは知っている。知っているけれど、嘘がどんな結果を引き起こすか--まあ、自分で責任をとったことがないので、それもよく知らない。だから、真実の口の中へ手を突っ込むことが出来ない。グレゴリー・ペックの芝居にびっくりしてしまう。これもたわいのないシーンといえばたわいのないシーンなのだが、嘘のかけひきと思うとおかしいねえ。嘘を楽しんでいる。男と女は、ときどき嘘を楽しむね。相手の表情がかわるのが楽しくて。
 オードリー・ヘップバーンが、いわゆるグラマーな体つきでないのも、この映画からセックスを隠し、逆にセックスを感じさせる。オードリー・ヘップバーンよりはるかに王女っぽいグレイス・ケリーがこの役をやっていたら、こんな映画にはならない。少女のまま(少年っぽいとさえいえる--パジャマ姿が、とくにそう感じさせるねえ)オードリー・ヘップバーンだから、それが「恋の芽生え」、そしてそれゆえのセックスを知らない興奮、ときめき、清らかなあこがれになる。装飾の少ないブラウス、そしてシンプルなスカートは、その固い殻のなかで動く肉体をすっきりと暗示する。装飾のない裸の肌の美しさを、処女をそのまま感じさせる。
 処女だから無防備、処女だからそれを守ってやろうとする男。「騎士道」のかっこよさ。むり、というか、粋。やっている本人にいちばん無理なことが他人からは「美しく」見える。そこには一種の逆説のセックスがひそんでいる。矛盾が感じさせるエロチシズムがある。そういうもの、隠されたこころの動きを、カメラは、ほんとうは撮っている。スカートのなかの「盗撮」のように。



 付録。オードリー・ヘップバーンがグレゴリー・ペックのアパートへ行って、「ここはエレベーター?」と聞くシーンもおもしろいなあ。これと逆が「チャンス」にある。ピーター・セラーズがエレベーターのなかで、「ここにはテレビはないの?」と聞く。エレベーターと部屋の区別がつかない。この混同が「高貴」の象徴であるらしい。
                          (午前十時の映画祭37本目)
 
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ヤノット・シュワルツ監督「ある日どこかで」(★)

2010-10-13 19:17:51 | 午前十時の映画祭

監督 ヤノット・シュワルツ 出演 クリストファー・リーヴ、ジェーン・シーモア、クリストファー・プラマー

 「午前十時の映画祭」の1本だが、どうにも分からない映画である。ある日、若者の前に老いた女性があらわれる。「会いにきて」とつげて懐中時計を手渡す。若者はその女性に会いに70年前(?)の過去へとタイムトラベルする。そして若い美人の女優に会う。「会いにきて」とつげた女性だ。
 ふたりは当然のように恋に落ちるのだが、ぜんぜんおもしろくない。
 クリストファー・リーヴは「時」を忘れて恋をするのだが、その「時」をわすれてという感じが伝わってこない。「ロミオとジュリエット」の結婚式前のロミオとジュリエットの、神父にさえぎられながらキスするシーンの方がはるかに「時」を忘れている。すぐにあきるまでキスできるのに、いましたい、いまキスしたい、キスしたい、キスしたいと、それしか考えていない。いいなあ。「時」を忘れるって。
 まあ、我を忘れて――というのは、ジェーン・シーモアが芝居のせりふにアドリブで変えてしまうシーンがあるにはあるんだけれど。でも、せりふというのはことばだからねえ。映画を見ている気がしないなあ。「小説」を読んでいる感じ。
 「小説」なら、これでもいいのだろうけれど、映画なんだから映像で見せてほしい。肉体でみせてほしい。

 クリストファー・リーヴ、ジェーン・シーモアが好きじゃない、ということかなあ。だれならおもしろい映画になりうるか。うーん、わからない。


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フランコ・ゼフィレッリ監督「ロミオとジュリエット」(★★★+★)

2010-10-05 13:58:10 | 午前十時の映画祭

監督 フランコ・ゼフィレッリ 出演 オリヴィア・ハッセー、レナード・ホワイティング

 「時分の花」ということばを思い出してしまった。
 初公開は1968年。もう40年以上も前のことである。このときのオリヴィア・ハッセーととにかく若かった。輝いていた。あの当時、古いファッションの胸元から見える「胸の谷間」にどきどきしたことを覚えているが、いま見るとそんなに大きくない。(深くない?)40年の間に若い女性の体型も変わってきたのかもしれない--ということは「時分の花」とはあまり関係ないか。(ある、かも。)
 最初に見たとき、いちばん印象に残ったのは、オリヴィア・ハッセー、レナード・ホワイティングが、教会でキスするシーンである。結婚式を控えている。ふたりは式のことは忘れたみたいに、会えたよろこびで(きのう会ったばかりだけれど)、キスしようとする。それを神父が引き離す。引き離されても引き離されても、その引き離しをかいくぐりキスしようとする。引き離されれば引き離されるほどキスをしたくなる。このときの動きがすばらしい。とてもいきいきしている。
 シェークスピアの台詞に傷つくことなく(そのシーンに台詞がないのだから、あたりまえといえばあたりまえだが)、その輝かしい肉体、その眼、その黒髪が、いっそう輝く。とくに眼が、ほんとうに恋人をみつめている。まるで演技ではなく、キスしたくてたまらない少女、キスをはじめて知った少女のような「夢中」という感じが、とても美しい。
 この若さがあるから、とても不思議なことが起きる。シェークスピアの台詞そのものは、とても若いオリビア・ハッセーには手におえない。「ロミオ、なぜあなたはロミオ」のような独白はいいけれど、恋の駆け引きというか、男とのことばのやりとりは、どうしても「意味」が浮き上がってしまう。
 はずである。
 実際、「肉体」のなかに、ことばが踏みとどまらない。
 だけれど、これが不思議なことに美しい。恋のために背伸びしているという印象ではなく、オリビア・ハッセーのなかから見知らぬだれかが生まれてくる--そういう印象に変わる。オリビア・ハッセーはこのとき演技しているのではなく、「恋人」として生まれている。
 恋人に出会い、新しく生まれるように、ことばに出会い、そこであたらしく「恋する少女」として生まれつづける。一生で一度だけの、幸福な「映画」との出会いが、そこにはある。そう思える。

 その後、オリビア・ハッセーの映画を何本見ただろうか。ベトナムかどこかを舞台にしたジャングル映画。タイトルも忘れた恐怖映画。何か日本映画にも出ていたはずである。(ぜんぜん、思い出せないのだから、どれもいい作品とは言えないのだろう。)そして、最新作は「マザー・テレサ」だろうか。これも、マザー・テレサの格好をしていた、ということしか思い出せない。
 「時分の花」だけの役者だったのかもしれない。そうであるけれど、この「時分の花」というのは、すごい力だなあ、とも思う。やっぱり、引きつけられてしまう。
                       (「午前十時の映画祭」35本目)


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フィル・アルデン・ロビンソン監督「フィールド・オブ・ドリームス」(★★★)

2010-09-28 12:34:12 | 午前十時の映画祭

監督 フィル・アルデン・ロビンソン 出演 ケヴィン・コスナー、エイミー・マディガン、ギャビー・ホフマン、レイ・リオッタ

 公開当時、私はこの映画の緑に非常に驚いた。アメリカ映画ではじめて美しい緑を見たと思った。私は、イギリス映画の緑と日本の映画の緑は好きだが、アメリカ映画の緑は一度も美しいと思ったことはなかった。この映画で、ほんとうにはじめて美しいと思った。しかし、今回福岡天神東宝で見て、そんなに美しいとは思わなかった。(「ゴッド・ファーザー」のときは「黒」が汚いのに驚いた。)音も非常に悪かったから、これは劇場の問題かもしれない。それとも、その後、アメリカの緑が美しくなり、「フィールド・オブ・ドリームス」の緑の印象が弱まったのか……。
 私は、ただただ、あの懐かしい緑の美しさを見に行ったのだが、それが見られなかったので、映画そのものの印象もずいぶん悪くなった。もともと私はこの映画は好きではない。今度見て、好きではない、ということを確認しただけだった。

 何が好きではないか。何が嫌いか。
 この映画は映画ではなく、「小説」だからである。冒頭の「それをつくれば、彼は帰って来る」という台詞が、もうどうしようもなく「小説」である。つまり、ことばである。この映画はことばを追いつづけて進んでゆく。
 ことばを追いかけてシカゴへ行き、会うのは作家である。そして、その作家と野球場で見るもの「文字」である。ことばである。「音」でも「映像」でもなく「ことば」。ことばがケヴィン・コスナーを動かしていく。
 最初に見た20年前(?)は、緑の美しさに目を奪われて、ことばが主人公を動かしていくことにそんなに気を取られなかったが、緑がないとなると、もうことばがうるさくてしかたがない。
 途中に、文学作品の検閲とそれに対する抗議というシーンもあるが、これも「ことば」の問題であり、「小説」の問題であって、映画らしいところは何もない。
 そして、もっとも嫌いなのはラストシーンである。
 ケヴィン・コスナーと父親が和解をする。そのとき、ことばは消え、ふたりは無言でキャッチボールをする。この、ことばの否定の仕方、ことばのないところで「感動」を揺さぶる技巧--それが、またまた「小説」そのものである。「余韻」という、いやらしい美しさ。ぎょっとしてしまう。
 ことばで語ったあと、それを映像でなぞっている。
 この映画には「原作」があるようだが、まあ、小説の方が映画よりは感動的だろう。小説はなんといってもことばでできている。ことばでひとを動かしていくのは当然だから、そこにはことばに対する真剣さがあるだろう。
 映画は、映像に対する真剣さを欠いてしまっては、とてもつまらない。
                         (「午前十時の映画祭」34本目)




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フランク・ダラボン監督「ショーシャンクの空に」(★★★★)

2010-09-21 12:13:27 | 午前十時の映画祭

監督 フランク・ダラボン 出演 ティム・ロビンス、モーガン・フリーマン、ウィリアム・サドラー

 このシーンはいいなあ、大好きだなあと言わずにはいられないシーンがある。ティム・ロビンスが「フィガロの結婚」のレコードを見つける。そばにプレーヤーがある。我慢しきれずに、レコードをかける。それからマイクをとおして刑務所中に放送する。
 オペラを見たことのない人ばかり(たぶん)の刑務所。突然流れてくる歌声。みんな耳を澄ましている。それが何かわからない。わからないけれど、モーガン・フリーマンは、それがみんなのこころに届いているのを実感する--というようなナレーションが重なる。このシーンが、ほんとうに美しい。
 「フィガロの結婚」をなぜかけたのか--そのために独房に入れられ、やっと独房からティム・ロビンスがでてきたとき、モーガン・フリーマンがたずねる。ティム・ロビンスは、「誰の心にも、他人が触れることのできないもの(不可侵のもの)がある。希望がある。それに触れるのが音楽である」というようなことを言う。
 これは、この映画のテーマでもあるのだけれど、私はティム・ロビンスが語ったこととは別に、希望について考えた。
 世界にはわからないものがある。知らないことがある。そういうものに人間は触れることができる。そして、そのわからないもの、知らないもの--それを何だろうと思うこころこそ「希望」だと思う。
 わからない何か、知らない何か--それに触れ、それについていくこと(それに導かれるままに行動すること)。その結果、何が起きるかわからない。自分がどうなってしまうかわからない。それでも、どうなってもかまわないと決意して、知らないものについていくこと。それが、「希望」だ。
 ティム・ロビンスは脱獄を計画する。その計画が実現するかどうかは、わからない。そんなことをしたことがない。そういうことがあることは知っているが、ほんとうは知らない。体験したことがない。わからないけれど、知らないけれど、やってみる。
 そのことをすれば、自分が自分でいられなくなる。
 この映画では、具体的には、ティム・ロビンスは脱獄したあとは、それまでの「名前」「身分」をすっかり捨ててしまって「別人」という形で、「自分が自分でいられなくなる」という状態を表現している。
 「無実」が証明され、判決が取り消されない限りほんとうの解決ではない、という覚めた見方もあるかもしれないけれど、まあ、そんなことはどうでもいい。
 わからないもの、知らないものに身をまかせ、自分が自分でなくなる--そのときの「自由」を「希望」というのだ、とつげるメルヘンなのである。この映画は。
 ストーリーそのものが、そういうふうに展開していくけれど、私は、そのストーリー全体よりも、「フィガロの結婚」のシーンが好きなのだ。あのシーンがすべてを象徴している。刑務所の塀を越え、空の高みへ登り、どこまでも広がっていく音楽--その音に耳をすますとき、「いま」「ここ」にないもの、そしてそれまでどこにもなかったものが、たしかにこころに触れてくるのである。
                        (「午前十時の映画祭」33本目)

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ウォルター・ラング監督「ショウほど素敵な商売はない」(★★★★)

2010-09-13 11:27:32 | 午前十時の映画祭

監督 ウォルター・ラング 出演 エセル・マーマン、ドナルド・オコナー、マリリン・モンロー
 
 芸人一家と、芸人をめざすマリリン・モンローのかけあい。芸人一家の方に力点があり、歌も踊りも芸人一家の方がすばらしく、マリリン・モンローがかわいそうと書くとミュージカルファンには叱られるだろうか。
 楽しいのは、末っ子の男がマリリン・モンローに夢中になり、デートして、家まで追いかけて行ったあと。マリリンを思いながら庭で歌い踊る。庭の彫刻や噴水までも彼の歌にあわせて踊りだす。ミュージカル以外ではありえないシーンだね。
 マリリンがカウチであれこれ思い、そのまわりで末っ子と姉が歌い踊るシーンも楽しい。マリリンのスローテンポな動きと二人の鍛え上げられたスピーディーな動き。その対比がおもしろい。
 ラスト近く。家出した末っ子がやっと帰ってくる。舞台で歌い踊っていた母が、袖で見つめている末っ子を見つけ、はっ、と驚く。けれどそれは一瞬で、歌をやめない。音も狂わない。ダンスも踊りとおす。芸人の生き方を貫く。その「厳しさ」みたいなものをさらりと描いている。
 そして、あ、この一家はほんとうにショーが大好きなのだ。ショーを見て、喜んでくれるひとがいる限り、ショーをつづけるんだということが、まっすぐに伝わってくる。
 ミュージカルの原点だねえ。
                        (「午前十時の映画祭」32本目)


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ビリー・ワイルダー監督「お熱いのがお好き」(★★★)

2010-09-07 11:17:38 | 午前十時の映画祭

監督 ビリー・ワイルダー 出演 マリリン・モンロー、トニー・カーティス、ジャック・レモン、ジョージ・ラフト

 マリリン・モンローが♪アイ・ウォナ・ビ・ラブ(ド)・バイ・ユーがとても魅力的だ。この声で、学校教科書のアイ・ウォント・トゥが「アイ・ウォナ」ということを知った。「ビー」も「ビ」、「ラブド」の「ド」なんか発音せずに舌を歯茎の裏側に強く押し当て、息をその両側にそっともらすだけ、ということも。
 やっぱり、生(?)の英語(アメリカ語)はいいなあ。
 聞きながら、ケネディー大統領の誕生日に、マリリン・モンローが♪ハッピ・バー(ス)ディ・ミスタ・プレジデン(ト)と歌ったのをテレビで見たのも思い出したなあ。
 うまい歌というわけでもないんだろうけれど、いろいろ想像させるね。
 ジャック・レモンと富豪の老人がタンゴを踊るシーンもおもしろいなあ。
 マリリンが、ジッャクの胸をみて「ぺちゃんこでいいわねえ。どんな服でも似合うから」というシーンも好きだなあ。いまの女優に比べるとマリリンはそんなにグラマーというわけでもないのだけれど、昔は胸が大きい女優は多くはなかったのだ。
 映画は--まあ、映画はどっちにしろ嘘なんだから、トニー・カーティス、ジャック・レモンの女装なんて、モノクロならではのお遊び。(女装する前の、トニー・カーティスの長いまつげの方が、妙にオカマっぽい。)夜行寝台の、ジャック・レモンのベッドにみんながあつまってくるなんていうデタラメなんか楽しくていいなあ。

(「午前十時の映画祭」31本目)

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ビリー・ワイルダー監督「アパートの鍵貸します」(★★★★)

2010-08-30 22:46:58 | 午前十時の映画祭

監督 ビリー・ワイルダー 出演 ジャック・レモン、シャーリー・マクレーン、フレッド・マクマレイ、レイ・ウォルストン、デイヴィッド・ルイス

 とても好きなシーンがある。ラスト近くなのだが、ジャック・レモンがテニスのラケットに1本残っているスパゲティを見つける。シャーリー・マクレーンに食べさせようとして料理したときのものだ。その1本を指に搦め、指をくるっとまわす。そうするとスパゲティが指にくるくるっと巻きつく。
 なんでもないシーンなのだけれど。
 この指の動きから、何か思い出しません? エレベーターガール(古いことばだなあ)のシャリー・マクレーンが「○階です」というような案内をするとき、指を(掌を?)くるっとまわすしぐさをする。
 同じ動きではないのだけれど、あ、ジャック・レモンとシャリー・マクレーンの指の演技合戦だ、映画ならではの遊びだ、と思ってとても楽しくなる。
 二人の目の演技合戦も楽しいけれど、この指の演技合戦は、映画の本筋そのものとは関係ない。特に、シャリー・マクレーンの指の動きは何ともからんでこない独立した「逸脱」なのだが、そういう「逸脱」があるから、映画に奥行きがでる。登場人物の「肉体」がくっきりと伝わってくる。
 シャーリー・マクレーンが自殺未遂したあと、ジャック・レモンの隣の部屋のドクターの妻がスープを持ってくる。シャリー・マクレーンに食べさせる。その親切な感じも、いまの世界からは消えてしまった人情というものを感じさせる。1960年というのは、そんなに遠い昔ではないのだけれど、昔は、「いいひと」がたくさんいたのだなあ。
                     (「午前十時の映画祭」29本目)


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キャロル・リード監督「フォロー・ミー」(★★★+★)

2010-08-22 00:56:52 | 午前十時の映画祭


監督 キャロル・リード 出演 ミア・ファロー、トポル

 この映画のなかほど、ミア・ファローとトポルがロンドンの街を歩き回るシーンがおもしろい。台詞はないのだが、台詞が聞こえてくる。こころの声が聞こえてくる。その声を聞きながら、突然思ったのだが、この映画、キャロル・リードではなく、ノーラ・エフロンが撮ったら、どうなるだろう。もっとすばらしくなるのではないだろうか。
 この映画が公開された当時、まだ女性の監督はいなかったかもしれない。いたかもしれないが、私は思い付かない。公開当時も、二人が歩き回るシーンだけがとても新鮮で、とても好きだったが、そのときはなぜそれが好きなのかわからなかった。いまなら、わかる。そこで描かれている「恋愛」は女の感覚なのである。
 男の感覚は、ミア・ファローの夫の視線で描かれている。
 その男の感覚が窮屈で、ミア・ファローは、そこから逃れるようにして街をさまよう。そしてトポルに出会う。トポルはミア・ファローの「感覚」にあわせる。追跡--ついていくというのは、自分がどうなっても気にしないで、ただ相手にまかせてついていくということなのだが、このとき女の方は追跡されながら「自由」になる。自分の歩きたいところへ歩いていけば、男はついてくる。何も言わない。そのときの「自由」。すべてをまかせられていると感じる「自由」。それを存分に味わったあとで、「ついておいで」という男の誘いにもついて行ってみる。ことばで何かを言うわけではないから、そのときも女は「自由」である。自分の感じたことを感じたままに、修正しないですむ。その修正しない形の感情・感覚・よろこびを男が見ている--その視線を感じるとき、いま感じたことがいっそう強くなる。
 これは、当時の若い(?)私にはわからなかった。いま、それがほんとうにわかるかといえば、まあ、怪しいけれど、昔よりはわかる。
 とはいいながら、その「わかった」感覚で言うと、キャロル・リードの映像は、まだまだ硬い。堅苦しい。ロンドンの街の「ハム通り」だの「塩通り」だのを歩くシーン。トポルが鳥の真似をしながらミア・フォローをリードしていくシーンや、トポルがミア・ファローを見失った(追跡しそこねた)と思い、そのトポルを雑踏に探すシーンなどおもしろいのだけれど、映像が、どうしても男の視線である。--というか、え、なんで、こういう映像になるの? と驚くことがない。
 わかってしまうのである。
 トポルはいつも何かを食べている。(これは、とても女っぽい。)そして、ミア・フォローが最初にトポルに気づくとき(気づいたと、夫に話した内容によれば……)、トポルはマカロンを食べている。そのマカロンの描き方が、男っぽい。女の描き方ではない。
 ノーラ・エフロンなら、単に「トポルがマカロンを食べていた」とは言わない。(そんなふうには、描かない。)そこに「匂い」をつけくわえる。映像を乱す何かをつけくわえる。「マイケル」では「甘いバターの匂い」というものをつけくわえていた。女が、甘いバターの匂いがするという。それに対して同行した男は「匂いなんかどうでもいい」というように、女の感覚(嗅覚)を無視するシーンに、女の監督ならではの「味」があった。その描き方に、私はびっくりしてしまった。
 キャロル・リードの描き方には、何か、あっと驚くものがない。
 最初にトポルが登場する会計事務所。そこでマカロンを食べている。オレンジを食べる。書類を散らかす--そういう「日常」の侵入に、女の侵入(女の視線)があるのだけれど、それはまだ「理屈」(理論)のまま。何かが欠けている。男には思い付かない、やわらかい何かが欠けている。
 それが、映画が進めば進むほど、あ、違う。何かが足りない、と感じるのだ。
 ノーラ・エフロンの、女としかいいようのない感覚--その感覚で、この映画をリメイクすれば、ロンドンの街はもっと違ってくる。映画のなかに登場する博物館(美術館?)の絵も、ホラー映画も、「ロミオとジュリエット」も、トポルが露店で買うホットドッグのようなものも、きっと違ってくる。「ハム通り」も「塩通り」も、看板の文字をはみだして、違うものになると思う。
 男の(キャロル・リードの)視線では、看板の「ハム通り」「塩通り」というような文字が象徴的だけれど、何かしら「ことば」(頭脳)で処理してしまう。
 でも、女の恋愛は、ことばではないのだ。ただ、同じところにいて、同じものを見る。同じものを感じる。感じ方が違っていても、ことばにしなければ、感じは「同じものを体験した」という時間のなかで溶け合ってしまう。そのときの、ことばを超えた何か--それがキャロル・リードではとらえきれない。
 ノーラ・エフロンでなければ、だめ、と私は思うのである。
 でも、これはいまだから感じる感想だねえ。1970年代のはじめに、こういう映画が生まれた、キャロル・リードが、ふしぎにかわいらしい映画を撮ったということは、たいへんなことかもしれない。で、★を1個プラスしました。
                     (「午前十時の映画祭」29本目)


【日本語解説付】フォロー・ミー (Follow Me!)
サントラ
Harkit/Rambling Records

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チャールズ・チャプリン監督「チャップリンの独裁者」(★★★)

2010-08-16 23:28:16 | 午前十時の映画祭

監督 チャールズ・チャプリン 出演 チャールズ・チャプリン

 私は、どうやらチャプリンの映画が苦手なようである。ことばが嫌いなのだ。
 私がおもしろいと感じるのは、この映画では、ヒトラーの演説を真似したドイツ語(?)の音。私はドイツ語を知らないが、なんとなくドイツ語風の響きに聞こえる。ドイツ語の癖を音楽のように再現している。それは、ことばではなく、音楽になっている。だから、おもしろい。ときどき、合いの手(?)のようにして翻訳が入る。それも、とてもおもしろい。もちろん、拍手をとめる手の動き、そのときの音と音の空白、それも音楽だ。
 もう一つ、ヒトラーがゴム風船の地球儀をつかってダンスするシーンも、非常におもしろい。風船のふわふわしたリズムと、それにあわせた肉体の動きがとても楽しい。映像から音楽があふれてくる。
 ところが、ヒトラーを演じていない部分のチャプリン--理髪師のチャプリンが、あまりおもしろくない。定型化している。ハンガリアン舞曲にあわせて髭を剃るシーンは、この映画で3番目に好きなシーンだが、ほかはおもしろくない。
 最後のチャプリンの演説は世界に向けたメッセージだけれど、そしてそのメッセージは非の打ち所のないもの、まったく正しいものだけれど、その完全に正しいということろが、つまらない。もちろんこんなことを言えるのはいまの時代だからであって、ヒトラーが台頭してきた時代に、チャプリンが真っ正面からメッセージを発したことはとても重要だとわかっているのだが、それでもおもしろくない、と私は言いたい。
 ゴム風船の地球儀をもてあそぶ映像で、ヒトラーを厳しく批判したチャプリンが、最後でことばに頼っているということがおもしろくないのである。ことばに頼らずに、映像と音楽でなんとかできなかったのか。そういう疑問が残るのである。最後のことば(メッセージ)のために、それ以前の映像と音の楽しみを踏み台にしてしまう、踏み台として利用してしまうというのは、ちょっとなあ……なんと言っていいのかわからないが、こまるなあと思ってしまうのである。
                         (「午前十時の映画祭」28本目)

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チャールズ・チャプリン監督「ライムライト」(★★★)

2010-08-13 01:41:53 | 午前十時の映画祭
監督 チャールズ・チャプリン 出演 チャールズ・チャプリン、クレア・ブルーム

 私はこの映画はあまり好きではない。ことばが多すぎる。また、長すぎる。
 いちばん好きなシーンは、ノミのサーカスのシーンである。実際のサーカスでやってうけるかどうかはわからないが、映画では楽しい。ノミを追うチャプリンの目の演技がはっきりわかるからだ。私だけの印象かもしれないけれど、私には、チャプリンの目は、ノミを見ていない。もともといないのだから見えるはずはないのだが、それでも見えていると思い演技をするのが、ふつうの俳優の演技だと思う。チャプリンは、そうではない。最初から目を見せるために演技をしている。ノミを見せるための演技ではなく、目を見せるためにノミの存在を利用している。他の動きもそうである。ノミがいるから、そんなふうに動くのではない。チャプリンが演じている動きそのものを見せるために、架空のノミがひっぱりだされている。そんなふうに見える。
 「役」を見せたいのではない。チャプリンという「肉体」を見せたいのだ。こういう姿勢は、私は嫌いではない。役者らしくていいなあ、芸人らしくていいなあ、と思う。「役」そのものは、「役」でしかない。
 ラストシーンも、わりと気に入っている。チャプリンが死ぬ。舞台の上では、クレア・ブルームが踊りつづけている。チャプリンが死ぬ(死んだ)ということを、クレア・ブルームは知っている。知っているけれど踊ることをやめない。その芸人魂、芸人根性のようなものが、なんだか気持ちがいい。チャプリンが芸人に伝えたいのは、そういうことだろうと思う。何があっても動いてしまう「肉体」、「肉体」を見せつづけるという姿勢。「肉体」を見せたい、というのが役者の(芸人の)欲望である。その欲望を貫くこと--それが美しい。観客が見ている「肉体」を演じつづけるのではなく、自分の「肉体」をさらしつづけるのだ。
 観客というのは単純である。クレア・ブルームが踊るのをやめ、死んでいくチャプリンに駆け寄るのを見れば、その瞬間に、クレア・ブルームの演じている「役」など忘れ、現実に起きている「物語」の方へ一気にのめりこむ。架空の芝居よりも現実の方がはるかに好奇心を刺激するからである。そのとき、観客は役者の「肉体」など見ない。そこで実際に起きている「こと」を見てしまう。役者の「肉体」は消えてしまうのだ。
 これでは役者の意味(存在価値)がなくなる。
 だから、クレア・ブルームは、死んでゆくチャプリンに駆け寄りなどはしないのである。そんなことをしないのが役者(芸人、パフォーマー)であることを学んだからだ。
 別な視点から言いなおそう。
 チャプリンがドラムの上に落ちて動けなくなる。そのままでは死ぬだけだとわかっていても、舞台に出て何か言う。それは芸人として観客に対して責任を持つという見方もあると思うが(そういう見方の方が多いと思うが)、私はそうではなく、芸人というのは死につつある(動けない)という「肉体」さえ、見せたいのだと思う。
 こういう「本能」のようなものが噴出する瞬間が、私は好きである。こういう「本能」が噴出する瞬間というのは「本物」という感じがする。この「本能」は私のもっている「本能」とは無縁である。私などは、痛いときは痛いと騒ぎまくる本能しかもっていない。だからこそ、私を超越する「本能」を生きているひとを見ると引きつけられる。好きになる。すごいものだと思う。
 考えてみれば、役者というのは変な存在である。それはチャプリンも実感していたのだと思う。だからこそ、映画のなかに、とても強いことばが出てくる。「血は嫌いだが、血は私の肉体のなかを流れている」。それが生きている、ということなのだ。
 あ、なんだか、映画の感想という感じがしないね。書きながら、そう思う。こういう感想しか書けないのは、この映画が心底好きではない、という証拠である。などと、もってまわった言い方になったが、実際、私はこの映画がなぜ「名作」といわれるのかさっぱりわからないのだ。「キッド」の方がはるかにおもしろいのに……。でも「キッド」は「午前十時の映画祭」のなかには入っていない。



 少し補足(?)すると……。
 この映画でのチャプリンの目はなんだかすごい。私は「人間」を感じない。「役者」を感じる。入っていけない。多くの人間がもっている「感情の交流」というか、やわらかみ、弱みをもっていない。完璧に「自立」している。
 「こころの一部」というより「肉体の一部」。
 チャプリンは「こころ」を見せるのではなく、「肉体」を見せる。それは「目」においても同じ。その強靱さが、私は怖いのである。

                         (「午前十時の映画祭」27本目)


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シドニー・ポラック監督「追憶」(★★★★)

2010-08-01 12:14:07 | 午前十時の映画祭

監督 シドニー・ポラック 出演 バーブラ・ストライザンド、ロバート・レッドフォード
 
 バーブラ・ストライザンドが一生懸命に演技している。ふつう、こんなふうに一生懸命に演技されてしまうとなんだか嘘っぽくなるのだけれど、なぜか嘘っぽくならない。役柄の女性の一生懸命さとぴったり重なるからだねえ。「ケイティー」という女ではなく、あ、バーブラ・ストライザンドがいる、と思ってしまう。「ケイティー」ではなく、バーブラ・ストライザンドを見ている--それが「役」であるにもかかわらず、バーブラ・ストライザンド本人を見ているような気分になり、引きこまれる。
 卒業のダンスパーティー。ロバート・レッドフォードの動きをひたすら追いつづけるバーブラ・ストライザンドの目、その表情が、なんともすばらしい。あからさまに恋を語っている。まわりの誰かを気にすることなく、ただただロバート・レッドフォードを追っている。
 叶わぬ恋なのに、恋せずにはいられない。正確や主義も違う。合うはずがない。それでも恋してしまう。
 一方のロバート・レッドフォードの方も自分向きの女ではないとわかっているのに、どこか、そのいちずさにひかれるところがある。たぶん、彼のまわりの女とは何かが違うのだ。一生懸命さが違うのだ。そこに、もしかしたら「自分が変わる」というきっかけ、何か不思議な飛躍を見ているのかもしれない。
 いったん別れる決心をし、「眠れない」と訴えるバーブラ・ストライザンドをなぐさめに行く。そこで、ロバート・レッドフォードは「自分は変われない」(だったかな?)という。即座にバーブラ・ストライザンドが「私たちは変われる」と、「アイ」を「ウィー」に言い換える。「できない」を「できる」に言い換える。その瞬間、ロバート・レッドフォーは「まいったな」という。彼がかすかに感じていたこと、なぜバーブラ・ストライザンドにひかれるかといえば、その「私たち」と「できる」という強い確信をバーブラ・ストライザンドが持っているからなのだ。
 このシーンが、この映画のなかでいちばん美しい。そして、かなしい。
 結局、「変わる」ことは「できない」からである。人間は、変わらない。愛というのは、自分がどうなってもいいと覚悟して、自分以外の人間といっしょに生きることだが、それはやはりむずかしいことなのだ。
 でも、青春の、ある一瞬は、そのできないことをやってしまう。
 それが美しく、せつなく、忘れられない。

 もしこの映画の主人公がバーブラ・ストライザンドでなかったら、どんな映画になっていただろう。全身で「一生懸命」を真剣に伝えることができる女優でなかったら、どうなっていただろう。
 バーブラ・ストライザンドは美人である--と思ったことは、私は、一度もない。(ふっと、笑ったときの顔は、ユダヤ人特有の人懐っこさがあり、かわいいとは思うが。)でも、映画を見ていると美人であるかどうかということを忘れてしまう。真剣さ、うるさいくらいに真剣な姿勢に、知らずに私の姿勢が変わっているのに気がつく。「どうせ映画なんだから」という感じが消えて、そこにほんものの人間を見てしまうのだ。
 ロバート・レッドフォードがけんかのはてに「まいったなあ」というみたいに、ふと、まいったなあ、と思ってしまうのだ。何か大切なものを、はっと感じてしまうのだ。
 映画だけではなく、歌もまた同じである。聞いていて、何か歌を聞いているという感じを忘れるときがある。声を聞いている。何かを言おうとする必死な声。英語だから「意味」はわからないのだが、「意味」を超えて、「思い」を感じてしまう。いや「思い」というのは正確ではないかもしれない。詩のなかの、ことばのなかの「思い」ではなく、歌い、伝えようとするバーブラ・ストライザンドの生き方そのものを感じて、ふっと、背筋が伸びる一瞬があるのだ。

 *

 映画と関係があるかどうかわからないが……。
 バーブラ・ストライザンドにはニューヨークが似合う、と感じた。ロサンゼルス(ハリウッド)の場面ではバーブラ・ストライザンドは「空気」と向き合っていない。ニューヨークでは「空気」と向き合っている。「空気」のすみずみにまで、自分の「思い」を伝える、という感じで生きている。
 最後のロバート・レッドフォードの再会のシーンでも、自分の「本拠地」はニューヨークという感じが、「地」として出ている。おもしろいなあ、と思った。
                         (「午前十時の映画祭」26本目)


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ピーター・ウェアー監督「刑事ジョン・ブック 目撃者」(★★★★★)

2010-07-25 10:19:47 | 午前十時の映画祭

監督 ピーター・ウェアー 出演 ハリソン・フォード、ケリー・マクギリス、ジョセフ・ソマー、ルーカス・ハース

 これは、これは、これは。と、思わず言ってしまうくらい、好きなシーンが次々。どこから書いていいかわからない。
 時系列(?)で言うと、少年が警察で犯人の写真を見つける。指さす。その指をハリソン・フォードの掌がそっと包んで隠す。いいなあ。ふたりとも何も言わない。何も言わないけれど、会話が全部聞こえてくる。少年もいいし、私の大嫌いなハリソン・フォードもこのシーンはいいなあ。少年が「表彰陳列棚(?)」の前で動けなくなるに気づき、それから近づいてきて、少年の指を隠すまでの、スリルに満ちた時間。いやあ、どきどきします。えっ、誰か、ハリソン・フォードが少年の指を隠すの見なかった? ね、心配になるでしょ? 思わず、まわりを見わたしてしまう。映画なのに。まるで、少年と、ハリソン・フォードがいる警察署にいる気持ち。今回は「午前十時の映画祭」。この映画を見るのは2回目になるが、やっぱりまわりを見わたしてしまった。気づいた警官、いないよね、と。
 あとで書く好きなシーンも台詞がないのだけれど、その少ない台詞のなかで、唯一2回くりかえされることばがある。「このことを知っているのは私ときみと、ふたりだけ」。ハリソン・フォードの上司のことば。このことばが手がかりになって、ハリソン・フォードは真相を知るのだけれど、このときも映画は「わかった」というようなことは言わない。ハリソン・フォードに台詞はない。頭の中に、上司の声が響く。それだけ。この、あることをきっかけに動いていく意識の自然な流れ--それをことばにしない。意識の自然な流れ、必然を、無言のまま見せるので、この映画は、台詞になっていないことばで満ちあふれる。観客が自分で「ことば(台詞)」をつくっていく。
 こういう映画が好きだなあ。
 好きなシーンの二つ目。ケリー・マクギリスが夜中、体を洗っている。それをハリソン・フォードが見てしまう。目があう。でも、ふたりとも何も言わない。この瞬間、ちょっと不思議なことを感じてしまう。映画は、ふたりが見つめ合う前にケリー・マクギリスの沐浴をアップでていねいに撮っている。それは実際にはハリソン・フォードが見たすべてではないけれど、つまり、ハリソン・フォードが見る前のシーンなのだけれど(観客しか知らないシーンなのだけれど)、なぜか、ふたりが見つめ合った瞬間、すべてをハリソン・フォードが見ていたと錯覚する。そして、ケリー・マクギリスも、まるでハリソン・フォードが見ているのを知っているかのように、ゆったりと体を洗う。ハリソン・フォードの視線を体のすみずみにまで誘うために、スポンジをもった手が動く。そして、そこからこぼれる水さえ、ハリソン・フォードを誘っているのを知っているかのように、きらめく。
 こういうことは時間の流れから言うとまったくの間違い、矛盾なのだけれど、そういうことが起きる。つまり、知らないはずの「過去」が「いま」のなかに噴出してきて、それが「未来」へと人間を動かす--その動き(人間を動かそうとする力)が、知っている以上にわかってしまう。そういうことが瞬間的に起きる。
 これは、少年が犯人の写真を指さし、その指をハリソン・フォードがそっと隠したときにも起きたことである。ハリソン・フォードは「過去」(つまり、少年が目撃したこと)を知らない。知らないけれど、少年の動きから、「過去」を少年が見たままというより、少年が見た実際の光景よりもはっきり見てしまう。「殺し」というものがどういうものか知っている--そのハリソン・フォードの「過去」が、少年の小さな動き、それを隠すハリソン・フォードの肉体のなかに、あざやかに噴出してくるのである。
 沐浴シーンにもどれば、ハリソン・フォードがケリー・マクギリスをみつめるとき、彼女は手を動かしていない。けれど、ハリソン・フォードにはその手の動き、水の動き、体のすべての動きが見えるし、またケリー・マクギリスには、そういう動きを見つめる男の目が見えるし、そういう視線の前で繰り返してきた肉体のすべてが、いま、噴出していることを知っている。「愛」の時間が、そこに噴出している。「愛」がふたりを動かそうとしているを瞬間的にわかってしまう。そして、わかるから、それをおさえる。そうすると、肉体のなかで、そのわかったことが行き場を失って、ふくらんでくる。肉体を突き破って出て行こうとするのがわかる。
 これを、ことばなしで、肉体、その視線の色の強さだけでスクリーンにあふれさせる。いいなあ。
 三つ目。夕暮れ。ケリー・マクギリスがかぶっていた帽子(?)を脱ぐ。帽子を脱ぐ、髪を見せる、というのは、ヨーロッパの習慣で靴を脱ぐのはセックスを意味するのと同じように、やはり肉体を解放するという意味をもっているのだろう。ケリー・マクギリスは、そっと帽子を部屋の中に置く。そして、外へ飛び出す。ハリソン・フォードと抱き合い、キスをする。そこで描かれるのはキスまでだが、それはケリー・マクギリス性交以上に、濃密な愛の瞬間である。このシーン。美しい美しいシーンを、ピーター・ウェアーは憎らしいことに、鮮明な映像ではなく、かすれた、粗い画質でとらえている。スクリーンに映し出す。あ、まいるねえ。それは不鮮明だから美しい。セックスがそうであるように、それは「見せる」ためのものではない。だから、不鮮明でいい。それは「ふたり」だけの体験、ふたりだけのものであるから、観客には見せなくていいのだ。いや、観客に見せているのだけれど、見せながら、これは観客のために撮っているのではなく、ふたりの「実感」のための映像なのだとピーター・ウェアーは言うのだ。実際、この瞬間、映画を見ているのを忘れるねえ。まるでハリソン・フォードとケリー・マクギリスになってしまう。そして、あした、この家を出て行ってしまうハリソン・フォード、離ればなれになるふたりにとって、このキスは、記憶のなかで、こんなふうにいくぶんかすれた色になりながら、だからこそ、その実感を強くゆさぶる大切な瞬間になるのだなあとも思うのだ。
 ふつうの、というか、「流通映画言語」なら、こういうシーンは、美しい夕暮れの空気がふたりを包む感じで、くっきりと撮影するだろう。そうせずに、あえて、粗い映像にしている。そこに、ピーター・ウェアーの映像意識を見たように思った。



 視点をかえて、別なことを。
 この映画の原題は「ウィットネス」である。「目撃者」である。「刑事ジョン・ブック」ということばはない。
 「目撃者」は最初は事件を目撃した少年そのものを指している。ところが、最後の最後でその意味が違ってくる。ハリソン・フォードの上司が、ハリソン・フォードの居場所を突き止め、殺しにやってくる。そして、ケリー・マクギリスを人質(盾)にしてハリソン・フォードを射殺できるところまで追い詰める。
 そのとき。
 まわりには、大勢の村人がいる。「目撃者」が多数いる。その「目撃者」を証人として、ハリソン・フォードは言う。「何人殺すつもりか」。ハリソン・フォードを殺しても、上司は「救われない」。有罪から逃れられない。法廷から逃れられない。全員を殺すほど銃弾はないし、「目撃者」だらけになってしまって、その「証言」を否定できなくなる。
 これはなんでもないことのようだけれど、すごい。
 その「自明の事実」がすごいということもそうだけれど、このときのハリソン・フォードのことばのなかに、ハリソン・フォード(刑事ジョン・ブック)の「人間の変化」が象徴されているからである。
 刑事ジョン・ブックは、少年の情報から「犯人」探しに出かけ、そこで出合った無実の人間を平気で殴ってしまう乱暴者である。ある意味では力(暴力)で「事件」を解決してきた人間である。その人間が、ケリー・マクギリスたちと暮らす内に、違った人間性を身につけるのである。(ピーター・ウェアーの映画は、主人公がいままで知らなかった世界に触れ、そこでかわっていくことが一貫したテーマであり、哲学である。この映画でも、それは貫かれている。)
 銃によって事件が解決するわけではない。銃によって何かを葬り去ることはできない。非暴力、「目撃(者)」が、「事実」を「事実」として告発する。その力の方が、銃よりも強いのである。少年も、ケリー・マクギリスも、村人も銃をつかわない。それでも、その「目撃」と、その「ことば」の証言は、銃より強い。そのことを刑事ジョン・ブックは実感として「発見」する。
 日本語のタイトルを「刑事ジョン・ブック」だけにしなかったのは、そういうことを配慮してのことなのかどうかわからないが、もしそうであるなら、「刑事ジョン・ブック」というタイトルそのものはやめて「目撃者」だけにすればよかったのに、と思った。

                          (午前十時の映画祭、25本目)

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アルフレッド・ヒッチコック監督「北北西に進路を取れ」(★★★★★)

2010-07-19 15:23:14 | 午前十時の映画祭


監督 アルフレッド・ヒッチコック 出演 ケーリー・グラント、エヴァ・マリー・セイント、ジェームズ・メイソン

 この映画は、おもしろすぎて、どこから語っていいかわからない。
 まず、最初のシーンがとても好き。タイトルバックなのだが、縦の線と斜めの線が交錯し、それが国連ビルに変わっていく。いきなり国連ビルではなく、人間の描いた線--それが重なり、ひとつの姿をとる。その過程。いわば、無から何かを作り上げていくときの、プロセス。そういうものを見せることで、「映画というのは、ひとの思っていることと、現実をうまく組み合わせてつくるもの。あくまで、ひとの方が先」と宣言している。いまの映画は、いきなりはじまるけれど、昔の映画は、こんなふうにしてゆっくりはじまったんだねえ。いいねえ。
 それから、主役がケーリー・グラントである点がおもしろい。事件にまきこまれて007のジェームズ・ボンドみたいなことをやるのだけれど、タフ・ガイという印象がない。映画のなかにも「いいスーツを着ている」というような台詞が出てくるが、着こなしがとてもいい。今では古くさいスタイルになっているのかもしれないけれど、上着から見えるカッターシャツの襟、袖口--その白のバランスがとても美しい。広告会社の社員という設定だけれど、まさに、ひとを騙して(あ、広告会社のひと、ごめんなさい)、みてくれで勝負するという感じ。そういう人間が、007の世界へひっぱりこまれるんだから、おかしいよねえ。
 さらに、ケーリー・グラントの陰りのない感じ、おぼっちゃま、という感じに輪をかけるのが、母親。まるで、マザー・コンプレックスのかたまり。これもおかしくて、たのしい。そのくせ、女にもてる。顔とスタイルの色気。ほんのワンシーンだけれど、ケーリー・グラントが閉じ込められた部屋から逃げるとき、隣の部屋をとおる。寝ていた女が「出て行って」と言った直後、色男ぶりに気づいて「出て行かないで」と声の調子をかえることろなんか、たのしいねえ。
 ショーン・コネリーも、007のなかでは、冷静でユーモアがあって、あ、イギリス人ならではという感じがしたが、ケーリー・グラントもアクションで見せるというより、ふつうの感じ、ふつうの会話のやりとりの「冷静さ」がイギリスのにおいを残していていいなあ。ヒッチコックの、イギリス人の行動が自然に反映しているんだろうなあ。
 アクションじゃなくて、しらずしらずにまきこまれていくというのが、誰にでも起きそう(?)な感じを誘うのもいい。こういうとき、ほら、ショーン・コネリーだとふつうの感じがしない。ケーリー・グラントの、まあ、ルックスとスタイルは別にして、ふつうの人間っぽい体つき、ものいいが、「まきこまれ型」の事件にはぴったりだよね。
 列車内での追跡なんかも、ゆったりしていていいねえ。最近の映画なら、手持ちカメラで画面を揺らし、カットも小刻みで緊迫感をあおるんだろうけれど、悠然としている。どたばたしない。列車の2階のベッドに隠れ、「窒息しそう」とか「必要なのはオリーブオイル。まるで、オイルサーディンみたいだから」なんていうユーモアを忘れないところが、ヒッチコックだねえ。
 ラストシーンもいいねえ。断崖から女を引き揚げる手のアップ--それが一転してカメラが切り替わって寝台列車の上のベッドへ女を引き揚げる手に変わる。似たようなシーンがいろんなスパイ映画につかわれている(パロディー?)けれど、ヒッチコックが最初にやったんだよね。
 実際にセックスするシーンはないけれど、ここでも「裏窓」同様、女がスリッパを履いていることに注目しようね。トンネルに突入する列車でセックスを表現しているなんて、男根主義丸出しの見方があるのだけれど、私はフェミニストなので、靴ではなくスリッパでセックスが象徴されている、と指摘しておきますね。
                           (午前十時の映画祭、24本目)

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アルフレッド・ヒッチコック監督「裏窓」(★★★★★)

2010-07-13 22:07:23 | 午前十時の映画祭


監督 アルフレッド・ヒッチコック 出演 ジェームズ・スチュアート、グレイス・ケリー

 こういう作品を見ると、ヒッチコックはほんとうにおしゃれだと思う。他人の部屋を覗き見している。もしかしたら殺人? 疑いを真実に変える(?)ために、証拠を探す。他人の部屋にまで侵入してしまう。ね、ありえないような、乱暴な話でしょ?
 これをグレイス・ケリーの美貌と、映画の台詞にも出てくるけれど、二度と同じ服を着ないという超現実的な設定で、洗い流してしまう。「あ、これは現実ではありません。えいがですからね」とていねいに説明する。
 夏の、暑い暑い下町なのに、クーラーもないのに、グレイス・ケリーは汗ひとつかかないというのも、クールですばらしい。
 いいなあ。
 オープニングから、「映画」を強調している。三つのブラインドを左から一枚ずつ引き揚げていく。それにクレジットを重ねる。「さあ、はじまり、はじまり」というわけである。
 いまの映画は、CDのように突然はじまる。アナログレコードは針を落とすぷっつんという音、無音(?)のトレースがあって、音がはじまる。アナログレコードはこころの準備ができてからはじまる--そんなふうに、昔の映画ははじまった。
 この感じが、とてもいい。特に「裏窓」のように、そんなことが現実にあったら困ってしまう、というような映画には。殺人--ではなく、のぞきと、のぞきによる告発というか、事件の成立というようなことがあると、なんだか、こわいよね。
 だから、これは映画、これは映画ですよ、と念を押す。
 ヒッチコックがピアニストの部屋に一瞬だけ顔を出すけれど、これも「映画ですよ」というヒッチコック流の「サイン」なのだろう。

 と、書いてしまえば、いまさらほかに付け加えることもない完璧な作品だけれど。
 会話のやりとりがイギリス風ですねえ。「のぞき」自体が「ピーピング・トム」といわれるくらいだからイギリス的なのだけれど、のぞきながらも知らないふりをする--それがイギリス的。
 いろいろな見方があると思うけれど、私は、イギリス人というのは、見ても、それを「ことば」として本人から聞かないかぎりは知らないということを押し通す。ナイスボディーの女性が下着(水着?)で美容体操していても、誰かが「私は見ました」といわないかぎり、それは見たことにはならない。だから、女性の方でも「見られた」ことにはならない。そして、「のぞき見した」なんてことは一般にだれも告白はしない。だから、そこでは「何も起きていない」--これがイギリス的現実。でも、「ことば」になれば、それは存在する。
 イギリスはあくまで「ことば」の国。シェークスピアの国。「ことば」になっていないことは存在しない。そして、「ことば」になりさえすれば、それは存在したことになる。この、ことば、ことば、ことばのおもしろさは、ジェームズ・スチュアートとマッサージのおばさんとのやりとりにたっぷり出てくる。グレイス・ケリーとのやりとりではストーリーの根幹に触れる。「女はバッグを手放さない。結婚指輪は外さない」は、「ことば」が殺人事件を裏付ける。ジェームズ・スチュアートは見て、想像しているだけ。そこには「ことば」の「証拠」がない。グレイス・ケリーは見ていないけれど、「ことば」で証拠を明確にする。「ことば」が成立すれば、ね、事件が成立する。犯罪が成立する。すごいですねえ。
 ちょっと、繰り返し。
 「ことば」にしないかぎり、存在しない、は刑事が、グレイス・ケリーの寝具(スリッパ)を見ても何も言わないことで、何も存在しないことになってしまう。
 このあたりが、特に、おしゃれだねえ。スリッパって靴を脱ぐこと。靴を脱ぐというのは、靴の国ではセックスをすることだからね。そこにセックスが暗示されている。ほら、「ローマの休日」でヘップバーンがドレスの下でハイヒールを脱ぐシーンがあるでしょ。あれも、セックスの暗示。肉体の解放の象徴だよね。セックスシーンが映像としてなくても、見えるひとには見える、そのセックスシーンが……。でも、「スリッパを持ってきたの?」とは言わない。「スリッパ」ということばを発しない。
 そういう国の監督がアメリカで映画を撮るんだから、おもしろいよねえ。何か不思議な化学反応のようなマジックが起きる。
 「ことば・ことば・ことば」というわけにはいかない。シェークスピアじゃないからね。そして、同時に、あ、やっぱり「ことば」にするのが上手--と矛盾したことも思ってしまう。「映像」を「ことば」にしてしまう。
 最初の(?)クライマックス。
 グレイス・ケリーが殺人者の部屋に侵入して証拠を探す。殺された妻の指輪を見つけ出す。その見つけ出した指輪--これを、グレイス・ケリーは、双眼鏡でジェームズ・スチュアートがのぞいているのを知っていて、後ろ手にして見せる。「あ、証拠の結婚指輪」。「結婚指輪を見つけた」と「ことば」では言わない(言えない状況)で、ちゃんと「映像」で「証拠」を語らせる。
 うーん、おもしろいねえ。
 「ジェームズ、ジェアムズ」と大声で助けを呼んでいたのに、警官がきて、とりあえず殺人者の手から逃れることができたとわかったら、もう、「ことば」を発しない。大事なことは言わない。「この男は殺人者、妻を殺した。妻の結婚指輪はここにある」なんて、ことばで説明すると、何もかもが台無しになる。男が暴れ出してしまう。だから、それは話せる場所(警察)までとっておく。言わない。言わないかぎり、そこでは何も存在しない」。
 でも、ことばの国のひとではないアメリカ人、そしてカメラマン(これも重要だねえ--のぞく、というより映像のひと、ことばのひとではない、という意味で)には、映像でそれがわかる。

 ヒッチコックの映画がおしゃれなのは、彼がことばの国の生まれであることが関係しているかもしれない。
 映像が語るもの、ことばが語るもの。その区別をはっきり理解している。映像をことばとして明確に認識している、ということかもしれない。映像が語ることができるものは全部映像に語らせ、その補足、補助線を「ことば」が引き受ける--そういう構造でヒッチコックの映画はできているのかもしれない。
                          (午前十時の映画祭、22本目)


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