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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(40)

2020-02-27 09:34:39 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

ピアノ

海の底にはピアノが沈んでいる
深夜
誰もが眠っているとピアノは静かに鳴りはじめる

 「深夜」「眠る」「静か」ということばが固く結びつく。それを「鳴る」という動詞、書かれていない音が破っていく。その衝突のなかに、その連続(接続)と切断の瞬間に詩があるのだが、これは「定型」になってしまっている。
 これをどう乗り越えるか。違った形にするか。あるいは、さらに深めるか。

奏者は
地球創造のとき生まれたひとりのみなし児だという

 「みなし児」ではなく「ひとり」に焦点を当てて読みたい。「みなし児」に重心を置くと、「意味」が強くなりすぎる。





*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(39)

2020-02-26 15:54:45 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

嘘の傘

どこまで行つても一つの言葉にたどりつけない
言葉は人間からはなれたがる

 「一つの言葉」とは何をさすか。
 二行目の「言葉」は「一つの言葉」をさしているか、それとも「すべての言葉」をさしているのか。
 「一つの言葉」にたどりつけないために、「すべての言葉」が人間から離れたがる。「すべての言葉」は「一つの言葉」につながりたいと思っているということだろう。
 そして、それは嵯峨の願いなのだろう。

 「嘘」の反対にある「真実」。
 でも、そうなってしまったとき、その世界が「楽しい」かどうか、私は疑問に思う。






*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(38)

2020-02-25 09:38:28 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (死は原因でもなく結果でもない)

人間存在のつなぎめである
それをほどくために人間史は永遠に書きつづけられる

 感想を書こうとして、瞬間的に、手がとまる。なぜ、「否定」から考え始めるのか。
 「誕生は原因でも結果でもない」と書き始めることもできる。ただし、その場合は「ほどく」ではなく「さらにひろげる」ということになるだろうか。
 そう考えると、この詩のポイントは「ほどく」である。
 何かがもつれて、からまり、固くなる。そういう状態を「死」と呼ぶことができる。動けなくなった何か。それを「ほどく」ために何をするべきなのか、それを知るには「もつれ、からまり、固くなる」という「歴史」をみつめることが必要だ。どうやって生きてきたか。つまり、どうやって「自分をひろげてきたか」。
 そう考えると「誕生は原因でも結果でもない」に戻る。私は「結果」が用意されていない「誕生」から考える方を好む。どこへ行くかわからないから、楽しい。「結果」は考えてはいけない。「いま」が「結果」だし、「いま」が「誕生(出発点)」だ。





*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(37)

2020-02-24 10:07:52 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (どこまでも時の端を求めて歩いていつた)

気がついたら
そこはぼくの心のゆきどまりだつた

 「時の端」は「時のゆきどまり」だろう。それから先がないのが「端」なのだから。そうすると、「心」は「時」ということになる。ただその「心」には「ぼくの」という限定がついている。ここから引き返して、「時の端」を「ぼくの時の端」と読み直してみる。客観的な、あるいは一般的な「時」ではなく「ぼくの」時の端を求めている。しかし、「ぼくの時の端」では、自己主張が強引すぎる。「時」に「ぼくの」という限定をすることは、ふつうはしない。「ぼくの心」という言い方は一般的である。この違いを、嵯峨は、巧みに利用している。
 「気がついたら/そこは心のゆきどまりだつた」であったとしても、大筋で「意味」は変わらないのだが、「ぼくの」という限定をつけずにはいられない瞬間が、ある。同様に「ぼくの」という限定をつけたい「時(の端)」があるのだということを嵯峨は静かに語っている。




*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(36)

2020-02-23 09:43:29 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (蜜蜂の群れがあとからあとから飛び去つていつた)

青空をいくすじもひつ掻いたように
わずかな借金をようやく支払い終わつたのに

 「蜜蜂」は「現実」か、それとも「比喩」か。
 「借金」という生々しいことばが気にかかる。
 「借金」を「現実」だと考えると、「蜜蜂」は「金」を意味しているようにみえてくる。
 「支払い終わつたのに」というのは、たぶん、事実ではない。きょうが期限の借金を支払った。しかし、まだ借金があるということだろう。あるいは、すぐに借金をしなければならないのかもしれない。

 このとき「ぼく」は、どこにいるのだろうか。「ぼく」は「蜜蜂」になって、どこかへ飛び去って行ってしまった、という悲しみが書かれているとも読むことができる。




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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(35)

2020-02-22 11:15:04 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (無自覚で 空白で 自分を捨てたとき)

一つの言葉が
ぼくの心の奥を掠めた

 このときの「一つの言葉」とはどんなことばだろうか。具体的には何だろうか。花や鳥といった具体的なことばか。愛や祈りというような抽象的なことばだろうか。
 私は、どちらでもないと思う。
 「言葉」としか呼べないもの、まだ具体的なことばにはなっていない何か、だと思う。
 嵯峨が詩人だから「言葉」と感じるのであって、音楽家なら「音」、画家なら「色」、彫刻家なら「形」かもしれない。
 その人を、肉体の奥から揺さぶる「本質的なもの」、生まれる前の「真実」のようなもの。
 「それ」とか「あれ」としか呼べないもの。
 しかも、それは「掠めていく」だけなのだ。希望のように。あるいは絶望のように。



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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(34)

2020-02-21 06:17:41 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

人間小史

ぼくの魂しいに灯をともすと
言葉の上を
死んだ女の影が通りすぎる


 「魂しい」と「言葉」は、嵯峨にとっては同義である。「魂しい」の火が「影」を生み出す。それが「言葉」の上に落ちるのだが、逆に「ぼくの言葉に灯をともすと/魂しいの上を/死んだ女の影が通りすぎるにもなる」。詩は、どうしても女を魂のなかに呼び寄せるのだ。
 また「言葉」と「女の影」を入れ替えることもできる。つまり、それは同義であるとこを意味する。「死んだ女の影の上を/言葉が通りすぎる」は「死んだ女の上を/言葉の影が通りすぎる」でもある。
 「魂しい」「言葉」「影」は「灯」と「影」に入れ代わり、照らしたり影を落としたりする。「魂しい」「言葉」「影」は「照らす/影を生み出す」という矛盾した運動をとおして「三位一体」になる。



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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(33)

2020-02-20 09:46:27 | 『嵯峨信之全詩集』を読む



どこを叩いても鐘は鳴らぬ

沈黙にすつぽり覆われているのか
魂しいの不在か

 「沈黙に覆われる」と「魂しいの不在」が同等なもの(比喩として交換可能なもの)として書かれている。
 「覆う」という動詞に注目すると、不思議なものが見えてくる。
 「覆う」は「外側から覆う」、つまり「内部を覆う」ということ。「魂」は一般的に「肉体の内部」にあると考えられている。「魂」が不在ならば、それを「覆う」ということは不可能である。
 また「内部(魂)」が不在なら、「覆う」という動詞は、動詞のままでは存在し得ない。運動を封じられる。動くことができない。これが「沈黙」である。何かが、動こうとして動かない。そういう緊張が「鐘」という「もの」になっている。



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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(32)

2020-02-19 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

パズルに隠れている死

死ぬことは大地の上でしかできない
空高く通つている鳥たちも大地に落ちて死ぬ

 これは「理屈」である、と私は思う。
 「理屈」を拒絶するだけのものを私は持たないが、こういうことばを読むと、私は引きつけられるよりも反発を感じる。しかもその反発というのは、私が近づいていくことを拒んでいる、私はここに書かれていることばに拒まれている、という感じと一緒に生まれる。
 「違う」と私のなかの何かが叫んでいる。




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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(31)

2020-02-18 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

花束のように

大きな花束のように
ぼくの全部をいま手に重く持つてみたい


 「花束」は「ぼく」の比喩である。そして「花束」は「美しい」ではなく「重い(重く)」ということばに結晶していく。この「重い」は「美しい」よりも、はるかに「奢り」というものを感じさせる。そして、それは悪い意味ではない。思わず、ほ「ほーっ」とため息が漏れる。みとれてしまう。
 自分の生を「重い」と感じ取れるいのちの強さ。
 しかも、この詩は「青春」の詩ではない。嵯峨の晩年の詩である。嵯峨のなかに残る「青春」が、この詩貫いている。



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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(30)

2020-02-17 09:13:54 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

ここは何処なのか

遠いことはいいことだ
愛が 憎しみが 心だつて
なにもかもが遠くなる

 「ここが何処なのか」わからないを「遠い」と言い直している。ただ「遠い」のではなく「遠いこと」。「遠いところ」ではなく「遠いこと」。
 「どこかわからない場所」にも「わかるもの」はある。道とか家とか、あるいは扉、窓。しかし、それぞれの「もの」が抱え込んでいる「歴史(それまでに起きたこと)」がわからない。これが「遠いこと」なのだ。
 そのとき「わかること」というのはなんだろうか。自分自身か。しかし、これもよく考えると「わからない」。「ここは何処なのか」は、すぐに「私はだれなのか」にかわる。そして、それは「何をしているか」(何をしたか)にかわる。

ああ 在りし日にぼくは何処を彷徨つていたのか

 この最終行は「在りし日にぼくは何を彷徨っていたのか」ということになる。




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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(29)

2020-02-16 13:56:27 | 『嵯峨信之全詩集』を読む


箴言

なにかを疑うということは
泥沼の遠い道でゆき暮れることではないか

 という二行は、こう言い直される。

あるいは
大きな机の前でひどく思案に余ることではないか

 「言い直し」と書いたが似ているのか、「あるいは」ということばに導かれるように反対のこと(似ていないもの)が書かれているのか。
 いくつかの言い直しのなかで「遠い」と「ひどく」は「苦しさ」という共通項を持っている。客観的な「距離」が、肉体的な「実感」で言い直されていると思う。










*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(28)

2020-02-15 10:52:03 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
生きるということ

 生きるということは「一回かぎり」と書いたあとで、こんなふうに行を展開する。

ぼくは素直に生きようと思う
空気の教え 水の諭し 光りの導きによって

 「光り」が登場するから明るい印象がある。しかし、そのすぐあとに

ああ 人間は自己の影を越えて先きへ進むことはできない

 という一行がある。「光り」と「影」が交錯する。「生きる」ということは、相反するものの交錯を生きることか。
 晩年の作品だが、矛盾のなかに青春を感じる。









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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(27)

2020-02-14 09:47:42 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (夢は)

魂しいの内側をすべつて
夜明けは
魂しいの外側から明るくなつてくる

 「魂しい」ということばを「肉体」ととらえれば、この詩は、ごくふつうの体験を書いているように思える。朝、太陽が射してくる。目がさめる。外は明るく、夢は肉体の闇のなかへ隠れていく。
 しかし、それではおもしろくない。
 「夢」と「夜明け」、「内側」と「外側」を入れ替えて読んでみる。
 「夜明けの明るさ」の方が「肉体の内側(魂しい)」に射しこむ。それに誘われるようにして「肉体の外側」に夢があふれ、「肉体(魂しい)」をつつむ。
 そうすると、詩は、希望の声になる。
 嵯峨が書こうとしているのは「希望」ではなく、一種の「失望(喪失)」なのだが、絶対的な「絶望」は感じられない。だから、私は「絶望」の対極にあるものを夢想する。









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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(26)

2020-02-13 10:08:38 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (生命は)

どんな小さなものでもやさしい影を落としている
つゆ草の青い花を虫籠にいれるときも

 このとき「小さなもの」とは何を指しているか。「つゆ草(青い花)」か。「虫(籠)」か。
 「影」を「光」と読んでみる。「星影」「月影」の「影」のように。
 「落とす」は、静かに自己の存在を語るということだろう。「投げかける」ことで自己主張するのではなく、気づいてくれるなら気づいてほしい。そして「光」としての「影」は、落とした相手に「影」を与える。「影」をもらって(影を背景に)、相手は同時に「光る」ことを覚える。受け止めたものが、静かに形を変えながら動いていく。
 そういういのちの運動の仕方がある。これを「やさしい」と嵯峨は呼んでいる。










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