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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(25)

2020-02-12 10:37:02 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (言葉はだれかが脱ぎ捨てた影だろう)

火をつけると
白い片翼のように輝く

 「火をつけると」と書いてあるが、火はついている。それに気づいたひとがいるとき、ことばは燃え上がる。
 しかし、ここでもまた、「比喩」は入れ替えて読むべきなのだ。
 「だれか」を「だれかのこころ」と補って読めば、「言葉」に「火」つけるのは「こころ」である。これを入れ替えて、「こころ」に火をつけるのが「ことば」であると読む。それは時として意図されたものではない。「捨て」られたことばが、ときには、それを拾ったひとのこころに火をつけることもある。











*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(24)

2020-02-11 09:56:05 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくが見たものはすべて雪に消されて)

そこにどたりと放りだされる
いわゆる白紙刑である

 「そこ」は先に書いたように、無意識に認識されている場所である。あえていえば「ここ」でも「あそこ」でもない中間地点。あいまいなひろがり。あいまいだから「そこ」というのかもしれない。
 「どたり」という響きがおもしろい。私は北陸の生まれなので、雪が「どたり」と屋根から落ちるときの音と量を知っている。そして、そういうものを思い浮かべるのだが、「消されて」「白紙」になったものが、ただ広がっているのではなく、積み上げられている感じが、とても印象的だ。









*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(23)

2020-02-10 08:36:10 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (愛するように)

太陽はすべての影をま上から奪つてしまう
水差しに水はない

 詩、あるいは比喩と言い直した方がいいか。比喩はことばを入れ替えると「世界」がより正確に見えてくる。

太陽のように
愛はすべての影をま上から奪つてしまう

 愛が太陽なのか、太陽が愛(愛すること/愛されること)なのか。愛したために、「愛(こころ)」をすべてきみに注いだために、こころの「水」がなくなったのか。愛されたために、こころが沸騰し、「水」が蒸発してしまったのか。
 その日、そのとき、そのことば(詩)を必要としている人間にあわせて、「意味」は変わっていく。








*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(22)

2020-02-09 11:01:09 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ふるさとというのは)

そこだけに時が消えている川岸の町だ
そこの水面に顔をうつしてみたまえ
背後から大きな瞳がじつときみを瞶めているから

 「そこ」ということばが指し示す「場」が、わかったようで、わからない。どのことばにも、こういうものがある。英語の「there is」の「there 」、フランス語の「il y a」の「y 」に似ているかもしれない。意識の「奥」にある「そこ」。無意識に思い浮かべる「そこ」。
 「背後から大きな瞳がじつときみを瞶めているから」という行が「意味深長」というか「意味」をくすぐるので、そこに目が向いてしまうが、詩は「意味」ではない部分にこそ存在すると、私は思う。
 「肉体」の奥、ことばにならない何かを刺戟するのが詩だ。

 (余談)
 しばしばフランス語の「il y a」が詩を語るときに「引用」される。「il」は「彼」、「a 」は「持つ(avoir )」。「もの」があるとき、「彼が持っている」というのは「独特」である、「彼」が主語になるのが日本語、英語と違っているという「文脈」で。
 私は初歩の初歩のフランス語しか知らないが、変わっているのは「y 」の方である。いったい、「y 」って、どこ? 「on y va 」「allons y」「j'y vais」と言われたとき、「どこへ?」と聞き返したら、きっと奇妙な顔をされるだろう。
 この「y 」はスペイン語になると「hay 」という活用と「脈絡」を持っている。「かれは持っている」は「el ha 」だが、「もの」が「ある」というときは「haber 」が単独で「hay 」という形になる。無意識(?)の「y 」の名残のようなものだ。
 無意識が指し示す「そこ」というものが、きっとどの国のことばにもあるのだと思う。そういうものが、嵯峨のこの詩にもあらわれている。

 ここに書いたことは、あくまでも、余談というか、知ったかぶり。私はフランス語もスペイン語も、初歩の初歩でつまずいた。その昔、有田忠郎のフランス語の授業を受けたが、長い聞き取りの問題があって、その最後が「Je suis fatigué」だった。「谷内君、できたかね」と言われて「Je suis fatigué」しか書けませんでした」と答えて、笑われてしまった。それ以来、フランス語は知らない。スペイン語は完全な独学、NHKのラジオ講座の「入門編」を卒業できない。







*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(21)

2020-02-08 09:07:51 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (去るということのなかへ)

遠くまで渚はつづき
たえず大きな浪が小さな浪をとらえて沖へつれ去つている

 「つれ去つていく」ではなく「つれ去つている」。英語で言えば「現在進行形」だろうか。「いま」が「いま」のまま拡大していく。
 「いま」を共有している。
 だが、そのとき嵯峨は「大きな浪」として「いま」を共有しているのか、「小さな浪」として共有しているのか。
 私は後者と読む。そして、そこに抵抗を感じる。「去る」のではなく、「いま」ここに、たえず「ここ」にいる「いま」ということろから世界を見つめている。







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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(20)

2020-02-07 09:45:22 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (空をゆく鳥は跡を残さない)

なぜ地上を歩くものは跡を残すのか
それは言葉があるからだ

 「飛躍」のなかに詩がある。
 問題は、なぜ「飛躍」と感じるか、というところにあるかもしれない。「飛躍」とは言い方を変えれば「論理の逸脱」である。「逸脱している」のに「逸脱していない」と言い張るときに「飛躍」という印象が入り込む。それは「驚き」と言い換えてもいい。
 「逸脱」はまた「間違い」でもある。「間違い」は非論理的なものだが、「それは……からだ」という「論理の構造(構文)が「間違い」を「論理」にしてしまう。「事実」よりも「ことばの構造」の方が人間に与える影響が強いのだ。

 (「ことばの構造の力」の問題を拡大していけば、いま、日本を覆っている政治言語の問題に直面する。)





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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(19)

2020-02-06 08:27:31 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

エスキス

どの言葉も遮蔽されていて
そこを通りすぎる者を閉じこめる
ついに心も
石も

 この詩にはつづきがある。しかし、私は、ここで立ち止まる。「心も/石も」閉じこめられたものとして読む。
 閉じこめられた心(ことば)は石になる、と。

 さて、「そこ」とはどこか。無意識に嵯峨がつかみとっている「そこ」。そして、その「そこ」は「そこ」としか書かれていないのだが、たぶん、誰にでも共有される。だれでもことばが遮蔽され(つまり、ことばを聞いてもらえず)、こころを石のように固く閉ざしたことがあるからだろう。







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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(18)

2020-02-05 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

ガスライト

泥人形が雨に打たれて崩れていると
終日
それを眺めているぼくを時の手はやさしく支えてくれる

 「時」が支えるではなく「時の手」が支える。「手」と比喩をくわえることによって「時」はどう変わっただろうか。「支える」という動詞が具体的に感じられるようになる。さらに「やさしく」ということばも非常に具体的になる。
 「泥人形」と比較すると、わかりやすい。「泥人形」は具体的であるが、「意味」になっているという点から見れば「抽象」である。いいかえると、そこにある特別の、一個だけの「泥人形」ではなく、「泥人形」と呼ばれる存在(比喩)でしかない。
 しかし「時の手」は比喩なのに「意味」を超えて身近に感じられる。「手」だ誰でもが知っている「肉体」だからである。無意識に「肉体」がことばを受け止めるのである。
 こういうことばの力は見直されるべきだと思う。







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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(17)

2020-02-04 22:30:34 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

カンガルウ

遠い遠い 気も遠くなるように遠い
カンガルウの故郷のふしぎな曲がりくねつた木々を その影を
カンガルウは妙な木々に何を習つたのか

 カンガルーの奇妙な形と「曲がりくねつた木々」「その影」に結びつけている。この「接続」に妙に引きつけられる。どうして、そういうものが結びつくのか。簡単に想像することはできない。「意味」が見つからない。だからこそ、そこに嵯峨を感じる。嵯峨はほんとうのことを書いている。しかも頭で考えたのではなく、実際にカンガルーを見たときに感じた、その「未整理」をそのままにさらけだしている「ほんとう」を感じる。
 「遠い」が繰り返されているが、この「遠い」はインスピレーションと同じように、「遠い」のだけれど、あらわれた瞬間に「最接近」するなにか、「最接近」するどころか、「肉体」をつらぬいてしまう不思議な「距離」をあらわしている。
 「習う」という動詞も不思議だ。カンガルーの影が曲がった木の影に似ているとしたら、それはカンガルーが木から何かを「習った」ためなのか。この「習う」も、瞬間的に嵯峨を襲ったことば(インスピレーション)なのだと思う。










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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(16 )

2020-02-03 10:34:48 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

白昼の街

夜を
もつと大きな夜を探していると
闇のなかに自らを失う

 「白昼の街」なのに「夜」を探す。「自らを失う」と書いているが、これは過去形ととらえた方がいいだろう。夜、もっと大きな夜を探した。そして自らを失ったという「記憶」をかかえて、いま嵯峨は白昼の街にいる。
 さて。
 「もっと大きな夜」は、どこにあるのか。「夜のなか」にある。それは「空間的な大きさ」ではなく、「意識」としての夜だろう。「夜のなか」のかわりに、嵯峨は「闇のなか」と書く。「意識の闇のなか」に探す。そして「自らを失う」。
 残されたのは「探した」という記憶だけである。あるいは「探す」という行為だけである。








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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(15)

2020-02-02 08:42:30 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくは何にも阿ねらず 何ものをも見捨てなかつた)

それでも掌のなかは
今日もいつもの空しさばかりである

 「掌」は「こころ」の比喩である。「掌のなか」の「なか」が比喩であることを強調している。
 なぜ「掌」はこころの比喩になりやすいのか。
 私たちが手をつかって仕事をするからかもしれない。手を使わない仕事はたぶん、ない。手は道具を媒介にして世界につながる。手を通して「自己拡張」していくのが人間なのかもしれない。
 また、手と同じように、人間は足をつかう。詩は、こう閉じられる。

ぼくの国の裏通りによく似た通りを
ぼくは何の屈託もなくひとりその道を歩いて行こう








*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(14)

2020-02-01 10:00:36 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

偶成二篇

運命の前にあるはずの時が
空をもとめて遠くいづこかへ去つていつたのだ

 抽象的な二行だ。
 「空」には「くう」とルビがふってある。「運命」は「運命」ではなく、強い願いだろう。そうあることを強く願っている、けれどその願いを裏切るように「時」は遠くへ去って行った。このときの「時」は叶わぬ願いであり、期待した「運命」だといえる。つまり、「運命」と「時」を、嵯峨は、わざと入れ替えて書いている。
 この瞬間、あるべきはずの運命が遠くさって行った。運命に裏切られた。
 しかし、そんなふうに自分の思いのままにならないものこそ「運命」かもしれない。

むかいあつて立つている二人は何だろう
それぞれは何処からいつここへ来たのか







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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(13)

2020-01-31 08:48:18 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

鵜原の海--鵜原抄の詩人へ

ある日は雨で
翌日は遠い空から晴れてくることもある

 海の上には空が広がっている。沖を見つめていると海を見つめているのか、空を見つめているのか、わからなくなる。嵯峨は、空に視線を引っ張られる詩人だったのか。
 「ある日」「翌日」ということばのなかを時間が過ぎてゆく。この「経過」の感覚が「遠い」を呼び出す。
 「晴れてくる」の「くる」に明るさがある。その明るさは、「くる」を「いく」へと転換させる。呼応がある。次の展開には、だから「いく」という動詞を補うことができる。

小雨のなかをぼくは泳いだ
あるいは心の海を泳いだのかもしれない







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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(12)

2020-01-30 09:35:43 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (魂しいを失う日がある)

人を憎んだことを
愛したことを
生命の皿の上にのせてみる

 この「皿」は天秤の皿のことだろうか。憎んだことと愛したことを、天秤で測ってみる。「生命」そのもので測ってみる。
 嵯峨は「魂しい」と書くのだが、なんだか「未練」のように私には感じられる。
 「魂」の定義を私は知らないし、「魂」が存在するとも考えないが、嵯峨の「魂しい」は、多くの人が言う「魂」とは違うものかもしれない。







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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(11)

2020-01-29 09:21:37 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

生々流転

心の空に
軽気球がぼんやり浮かんでいる

 「空」ではなく「心の空」と書くのが2000年以前の書き方なのかもしない。「軽気球」「ぼんやり」も、それに通じる。
 「生々流転」は、ここでは「判断停止」という一点から眺められているようだ。逆説的なことばの運動だ。




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