goo blog サービス終了のお知らせ 

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(56)

2020-03-14 12:14:34 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

初恋

夜半三九度の発熱にひとり耐えている
湖の上を
水鳥の群れが音もなく舞い下り はげしく羽搏いて舞い上つたりしている

「水鳥の群れ」のなかに「初恋」の相手がいるのか。「水鳥の群れ」となって「初恋」の相手に訴えているのか。
このとき「湖」の「湖面」はどんな姿をしているか。「水鳥の群れ」の動きにしたがって乱れているか。動きを映して鏡のように平らだろうか。「湖」が「初恋」の相手なのか、嵯峨自身なのか。
こういうことは、特定してもはじまらない。
両方なのだ。「イメージ」があるのであって、それは「分離」できない「ひとつ」なのである。ことばは「名詞」「動詞」「修飾語」とわかれていくが、けっしてばらばらにならないものが「イメージ」であり、そこには「夜半三九度の発熱」さえも含まれる。
それが、詩だ。




*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(55)

2020-03-13 10:34:07 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

観音経

はてもなく青い 輝いている大きな海

 「はてもなく」は「はてもなく大きな海」へとつづけて読むこともできるが、書かれている通り「はてもなく青い」と読みたい。「青」に果てがない、とはどういうことか。「透明感」のある青、透明感に果てがない、青なのに青の向こうに何かが見えるのか。それとも「青」で覆い尽くされて青以外の何も見えないのか。
 「輝いている」ということばにつながるところみると「透明感」に果てがないということだろう。透明なものは光をとおすと同時に光を反射させる。輝く。
 しかし、私は「青」以外の何も存在しない「拒絶」として読みたい。
 私は一度だけ、そういう「拒絶する青(群青)」の空を見たことがある。中学生のときである。吹雪のなかでスキー遊びをしていた。突然空が晴れ上がった。どこまでもただ「青」だけである。宇宙の果てが目の前に姿をあらわした、と思った。
 嵯峨が書いていることとは矛盾するというか、相いれないのだが、人間を絶対に受け入れない宇宙/自然の拒絶があるから、生きている、ということに意味があるのだと、直感した。





*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(54)

2020-03-12 10:40:43 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

ouiという女

心は清水があふれ
水の上には哀しみがただよい
かなしみには遠い夕日がさしていても

 「清水」と「水の上」、「哀しみ」と「かなしみ」。わずかなことばの変化だが、その変化が「遠い」を目覚めさせる。似ている、ときには同じものと判断される。けれども、そこには違いがある。気づいた人にとっては、それは「大きな」違いなのだ。たぶん、こういう「小さな」違いから「大きな」違いへと動いていくもののうごきそのものを整え、ことばにしてみせるのが「文学(詩)」というものなのだ。
 その違いを追いかける嵯峨のことばは「夕日」へとたどりつく。それは「清水」のように「かなしい」光を嵯峨に向かってあふれさせているのだろう。その光のなかで、嵯峨はただよっている。ゆれている。





*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(52)

2020-03-10 08:11:13 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

ふるさと

ぼくは大きな白いキャンバスを抱えて
むかしの中央通りを通つていつた

 これは帰郷したときの様子と読むのが一般的だろう。「むかし」と書いてあるから、「むかし」を思い出している。
 だが、私は「過去」のこととして読みたい。
 「むかし」、その中央通りを白いキャンバスを持って歩いた。それは、「いま」を描くためではなく「むかし」(思い出)を描くためである。まだ若かった嵯峨が、やがてみるであろう「むかし」を描くために。
 「いま」と「むかし」は、そうやって交錯する。「いまのぼく」が思い出の(むかしの)通りを歩くのではなく、「むかしのぼく」が「いまの通り」を歩く。そのとき描くのは「むかしの通り」であり、それは「思い出」と呼ぶよりは、「現実」、いや「切実」である。「かなしさ」とか「さびしさ」と呼びたい何かである。それが「ふるさと」だ。




*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(51)

2020-03-09 11:38:10 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

永遠とは何か

人間も
言葉もはてしなくむなしい
そして〈永遠〉という言葉の意味はいまもつてわからない

 「はてしなく(はてしない)」ということばに私はつまずく。「はなしない」は「永遠」に通じるものがあると思う。けれど嵯峨はそれを否定して「むなしい」と結びつける。このとき「むなしい」と「永遠」ははっきり違うものとしてあらわれてくる。「永遠」とは「むなしく」ないものなのだ。たとえば「充実」。
 もうひとつ「意味」ということばにもつまずく。「意味」がわからない。そう感じるとき、嵯峨は充実しているか。むしろ「むなしい」のではないか。「はてしなくむなしい」と言い換えることができる。
 ここにも「矛盾」のようなものがある。
 「虚無(むなしさ)」の「永遠」というものも、どこかに存在するはずだ。実際、この詩そのものが、「虚無の永遠/永遠の虚無」を表現していないだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(50)

2020-03-08 11:35:29 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
引力のめぐる夏野--一冊を残して

眠つた ああ 魂しいと全身で眠つた
土地も 空間も 何色ということがもうない

 中西博子の死を悼む、と書かれている。
 死んでしまった中西にとっては「土地も 空間も 何色ということがもうない」ということか。あるいは中西の死と向き合った嵯峨には、それがないということか。
 詩のつづきを読むと前者であることが明確になるが、そこに書かれていることには触れないで、考えたことを書いてみる。
 なぜ、死者には土地も空間もないのか。土地、空間に縛られない、自由ということか。もし、それが自分をしばるものがないという「意味」なら、そのあとにつづく「何色」というもの、中西をしばる何かだろう。つまり、他人がみた「中西像」というもの、それから自由になる。
 だが、そういうことは可能か。
 この嵯峨の詩自体が中西のことを書いている。人はだれでも他人を縛ってしまう。他人に「色」つきで見てしまうといいなおせばいいだろうか。
 そして、それは生きているときでもそうだけれど、死んでからもそうなのだ。
 それだけではなく、死んでからの場合、「色」で見ること、そこにいない人に「色」を与えることが「追悼」ということでもある。私は、あなたを、この「色」で見る(思い出す)、と語ることが追悼なのだから。

 詩には「矛盾」がある。
 「矛盾」があるから、それは「複数」の読み方ができ、その「読み方」には正解も間違いもない。読むという「動詞」だけが、詩を、「いま/ここ」に現実としてよみがえらせる。





*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(49)

2020-03-07 11:06:23 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくの魂しいのなかで)

大きな梯子が揺れはじめた
その日から友だちからしだいにぼくは離れていつた

 「友だちが」離れていくのではなく、「ぼくは」離れていく。それは、そして「魂しい」のなかで起きることである。外見上はいっしょにいても「魂しい」が離れていく。そういうことがある。
 「魂しい」のなかに「梯子の揺れ」が「離れる」ということなのだから。「揺れる」は「固定化しない」ということであり、「固定化しない」ということが「離れる」ということなのだから。この「魂しい」のなかの動詞、「固定化する/固定化しない」は、他人(友達)にはわからないことなのだから。
 あるいは、この詩は「なか」を「動詞」として読み直すことも必要だろう。「なか」とは「隠す」とか「入れる/入る」という動詞と親和力がある。そして「隠す」ということが「離れる」でもある。
 「ぼくは」「梯子が揺れはじめた」を「隠す」ことで、友達から「離れる」のだ。




*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(48)

2020-03-06 08:00:41 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくはだれも愛さないし)

だれからも愛されなくてもいい
しかし骨ぬきになつたぼくの上を流れる川の川かみは
いつも美しい夕ぐれであるように

 「骨ぬき」は「愛さないし」「愛されない」を言い直している。つまり、比喩だ。
 「ぼくの上を流れる川」も比喩だろう。しかし、なんの比喩であるかは、この詩からはわからない。「流れる」という動詞に注目して「時(時間)」と考えてみることができる。「時間」だからこそ、「夕ぐれ」ということばがつづいて出てくるのだろう。
 「時間」は個人に関係なく、また場所にも関係なく、いつでも「流れる」。この究極の「客観的存在」は、人間を「虚無」に陥れるかもしれない。「美しい」ということば、それがどのような内容をもっているかが示されない限り、また「虚無」でしかない。「川かみ」は「源」。それを「虚無」で飾りたてている。
 「愛さないし」「愛されない」という「虚無」が、そういう比喩とことばを動かしている。




*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(47)

2020-03-05 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (--どうでもいい)

彼が吐きすてるようにいつた言葉が
わたしの全身を水浸しにした

 「わたし」は女。「彼」は嵯峨を指しているだろう。
 「わたし」が「彼」に、そう訴えたのではなく、「わたし(彼女)」の姿を見て、そこから「水浸し」という比喩が生まれたのだろう。
 ここには書かれていないが「ぼく」が、彼女が「水浸し」であるかのように感じたのは、「ぼく」がことばを「吐きすてるように」(直喩)言ったからだろう。「意味」ではなく、「肉体(声の肉体)」を嵯峨自身で感じ、そこから比喩が比喩を引き出している。あるいは、「水浸し」と感じから、「吐きすてる」ということばが引き出されたとも言える。
 「肉体」というのは、いつでも「意味」に先行し、それは常に「肉体」のなかで深まっていく。






*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(46)

2020-03-04 09:49:14 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくは行つてしまつた)

時の果てに
そこは天地もなく 方角もない

 「たどりついた」ではなく「行つてしまつた」。
 ここから「ぼく」は「ぼく」を客観的にみていることがわかる。しかし、この客観は、かなり無理がある。「客観的にみる」という「主観」にすぎない。
 「そこは天地もなく 方角もない」というのもまた「主観」である。
 しかし、詩は、「主観」であって「客観」である必要はないから、こういう表現が成り立ってしまうのだ。








*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(45)

2020-03-03 09:54:41 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

水の思想

大きな瀧でも骨格がない
生まれるとすぐから落下がはじまるからだ

 この二行からは「上昇」が生きるということであり、それを支えるのが「骨格」ということになる。この「骨格」は「思想」と言い換えられそうだが、それでは水には「思想」がないことになる。
 嵯峨は、言い直す。

しかし 水には思想がある
七色の論理でつづられる一つの無形の思想が

 瀧のまわりにできる「虹」を「思想」と呼んでいる。飛沫のなかで姿を現わす輝かしく美しいもの。光と呼応する存在。
 しかし、私は、この詩を好きになれない。「思想」が美しくなければならない理由などない。「七色」である必要はない。






*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(44)

2020-03-02 09:33:45 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

そこへ連れていつてくれ

言葉ではあらわせないところ
想いもとどかぬところ

 「言葉」は不思議だ。ことばであらわせないことも「言葉であらわせない」とことばにすることができる。矛盾している。「想い」も同じだ。「想いもとどかぬ」は「想い描くことのできない」である。しかし、そういうことを「想う」ことはできる。
 「言葉」と「想い」は、この詩では入れ替え可能である。それぞれが、互いの「比喩」になっている。
 「あらわす」「とどく」も入れ替え可能である。
 そして、詩は「名詞(言葉/想い)」ではなく「動詞(あらわす/とどく)」に重心をおいて読んだ方が、肉体に迫ってくる。言葉も想いも、届けるものである。届いたときだけ、そこに何かが「あらわれる」。
 他動詞/自動詞が、そのとき交錯する。「肉体」そのものになる。ことばはかわっても、AからBへと動いていった「もの」は一つだ。「もの」はそのとき「思想」になる。


*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(43)

2020-03-01 14:06:15 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

友よ

物によつて
語によつて
どれだけ 時がぼくから失われたか

 「語」を「言葉」と書き換えれば、この詩は一連の作品とひとつづきのものになるが、「物」と「語(言葉)」はどう違うか。「ことば」をとおして「もの」は「ぼく」のものになる。内面化される。これを、嵯峨は「獲得」ではなく「失われた」と書くのだが、「時」が失われたのか「ぼく」が失われたのか、簡単には言いきれない。
 「物」と「語」が同格であるように、「時」と「ぼく」も同格である。入れ替えが可能だ。あるいは、すべてが入れ替え可能だとさえ言えるだろう。
 そういう意味では、ここに書かれていることは「完結」している。あるいは、閉ざされている。完結し、閉ざされた世界では「論理」はどう展開しても「論理」であることに変わりはない。





*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(42)

2020-02-29 09:19:09 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

白い馬

ぼくはいつも日蔭でひとを愛する
だまつていて
自分をあざ笑う言葉をいたわつて

 この詩にも「言葉」がでてくる。「自分をあざ笑う」を、別のことばでいいなおすと何だろうか。
 「それからどうなのよ」と問われて、

わたしには分からない

 という「答え」がある。この「分からない」が「自分をあざわらう」かもしれないと思う。「あざ笑う」は否定だが、「分からない」のなかにも否定がある。そして、その否定のなかには、肯定すべきものがある。それを「いたわる」のだ。
 否定する力があることを肯定する。




*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(41)

2020-02-28 22:46:45 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

沈める寺

ぞんざいな言葉のくりかえしと
すぎさる月日が
ぼくの骨を削つている

 「ぞんざいな言葉」と「すぎさる月日」はおなじものである。
 そう踏まえた上で思うのだが、この「ぞんざい」を私自身のことばで言い直せば何になるだろうか。
 「虚偽」になるだろうか。それも考えた上での虚偽、つまり「虚構」のためのことばではなく、「真実ではない」と知っていながら、そこにあることばに頼ってしまうときの、その「虚偽」。「うすっぺらな嘘」。
 しかし、それはほんとうは「すぎさる」ということはない。「肉体」のなかにたまり続ける。あるいは「沈み」つづける。それが「骨を削る」ということ。






*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする