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エッセイとショートショートと―あちこち話が飛びますが

「すり抜ける男」

2005-06-12 08:38:08 | ショートショート
「お帰りなさい。ご飯にする? お風呂にする?」
 疲れて帰ってきた俺に、家内が声をかける。緊張をほぐしたくて、まずは風呂に入る。
 あーあ、しかし何でこんなに毎日毎日忙しいんだろう。机の上は書類の山、それをこなしている内にまた新たな仕事が持ち込まれ、山が小さくなることはない。その上、どうでもいいようなことで会議だ打ち合わせだと呼び出され、落ち着いて取り組むことさえできない。いっそのこと雲隠れでもしたいくらいだ。
 そういえば、小さい頃、俺には特殊な才能があったらしい。いつの間にか姿が消えてしまう、といったような。かくれんぼをしている時、裏山の向こうにまで行ってしまっていた、というのを聞いたことがある。越えるのに、子供の足ではかなりの時間を要する山だ。それがほんの短い間に、向こう側に“すり抜けて”いた…。俺自身はよく覚えていないのだが、暗い所をさまよっている夢を、何度か見たような記憶がかすかにある。
 たとえばこの風呂場から消えるとすれば、壁をすり抜けるしかない。俺は湯船の水―というかお湯だが―に両手をつけ、その表面張力を感じながら、少し押してみた。当たり前だが、両の手はお湯の中に沈んでいく。
 そんなことを何回か繰り返すうち、体が、水っぽくなるというのか、少しずつうすくなっていくような気がしてきた。よしよし、ひょっとしたらうまく壁抜けができそうだぞ。
 と、思った瞬間、俺の身体はお湯の中、どころか湯船さえもすり抜けて下の方へ下の方へ…。
「あなたー、そろそろ出ないとご飯冷めちゃうわよ」

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コメント
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