先日(12月24日)米誌ニューズウィークが、紙版としては最終号を発売しました。
これで完全デジタル化というわけで、来年からはiPadやKindleなどへの配信のみということになります。
それにしてもスッパリやめますよね。そのへんの割り切りのよさはやっぱりアメリカ的だなと思うわけで、曖昧な状況を長々と続けていく日本的なやり方考え方と正反対です。
「白黒をはっきり着けない」「あまり自己主張をしない」といった良くも悪くも日本的なやり方考え方は、このグローバルな時代には誤解をまねいたり不利な立場に追いやられてしまいます。
でもその一方で、日本人の謙虚さ誠実さも徐々に世界に理解されつつあるような気もしてるんですけどね。
紙版ニューズウィーク最終号から、そっちに話は向かうか!?向かうんですよね私の場合(*^▽^*)b。
とはいえ日本人的な長所欠点が、グローバル時代に云々という話は置いといて、コンテンツが紙への印刷物として存在することと、ディスプレイに表示して見るデジタルデータとしてあること、についてちょっと考えてみました。
というのは自分は、手描きの絵をスキャンしてデジタイズ後加工してデジタルコンテンツとして使用したりするので、アナログデータとデジタルデータの間に境界線をあまり意識しません。というか気にしないんでしょうかね。
でも人によっては、物として手に取れることとそうじゃないことの間に大きな違いを感じ取るのではないか、とふと思ったので改めて考えてみたわけです。
たとえばキャンバスや画用紙などに描く絵画。
筆に絵の具を付けてペタペタと描いていきます。今日は、ざっと下描きができました。
翌日、さらにペタペタと描きます。だいぶでき上がってきました。
次の日も描き、かなり完成に近づいてきました。
というわけで毎日完成に向かって少しずつ仕上がっていく作品がそこにあります。手にとってしみじみと眺めてみる。手に触れるキャンバスの質感。その画布の上には絵の具が盛り上がっています。
虫眼鏡でその画をのぞいてみると、そこには絵の具やその下の画布のテクスチャーが拡大されて見えます。仮に顕微鏡でのぞいてみたとしても、そこにはミクロの世界にまで拡大された絵の具が見えることでしょう。
そうです。自分が精魂込めて描いた作品がそこにはあります。抱きしめようと思えば抱きしめられるんですよね、しないけど。
一方、ペイントソフトで描いたCG画像はというと、パソコンのディスプレイの中に表示されています。さわろうと思っても手に触れるのはディスプレイの質感。プリントアウトすればさわれるけど。またどんどん拡大していくと最後はピクセルに行き着いてしまいます。
そして電気を切ると消滅。保存してあるハードディスクがクラッシュでもしようものなら、精魂込めて描いた作品と永遠にお別れです。
というふうに考えてみると、アナログ作品は確固たる存在で、デジタル作品の方は儚い頼りない存在のような気がしてしまいます。
とここまで思いをめぐらしたとき、ふと気付きました。『人生に似ている!』と。
宇宙の悠久の流れの中で、自分の人生なんて瞬きほどの時間も無い儚いもの。そしてほんとに存在しているのかも疑わしい頼りないもの。電気が通っている間だけディスプレイ上に存在するCG画像のようなものではないか。
そう、そうなんですよ!だからデジタルデータは儚いかもしれないけど、価値のあるもの。
つまり『人生はCGだ!』
というわけでデジタルデータに儚さを感じてしまう人は、そこに無意識に人生を投影しているのかもしれません。
でも大丈夫!「我思う、ゆえに我あり」。どんなに自分の存在を疑っても疑いきれない「疑っている自分」がそこに存在するのですから。
さて、上の画像ですが、マルチタッチコミック【ナナのかぼちゃパン】の本編7ページ目です。
「お尻ペンペンだ!」ナナにお仕置きをしようとする雄作。
ナナ、危うし!
途中からマンガ的展開が止まらなくなってしまった( ̄▽ ̄;)。