こまんたれぶ~下福田小学校

当時の同級生との交流場所
(ここ数年は模型三昧)

軽巡洋艦 香取 8

2011-10-19 22:41:35 | Weblog
香取はかなり完成に近づいています。

残る部品はカタパルト(ここはエッチングに変える予定)艦首尾の旗竿くらいでしょうか。

練習巡洋艦として建造された香取ですが、練習航海は太平洋戦争勃発前年の1度のみ。
その後は潜水艦隊旗艦として戦争に参加しています。

昭和19年(1944)には輸送船団を護衛する役目で創設された海上護衛総隊へ編入。
同年2月17日にトラック島が米機動部隊による奇襲を受けた際に同島を脱出すべく編成された
4205船団に加わるが艦載機の攻撃により被弾。

米軍の攻撃は執拗を極め、船団は続いて水上艦艇による砲撃を受けました。
(戦艦2、重巡洋艦2、駆逐艦4)

この攻撃で香取は沈没。
艦載艇により乗組員の一部は脱出するも、みたび艦載機による攻撃を受けてしまい
結果的に生存者0と言う悲劇を生んだそうです。

このトラック島空襲は事前に攻撃を予想し、一足先に出航した戦艦大和等は難を逃れましたが、
おいてけぼりを喰った”足の遅い”艦艇(特に輸送艦)は壊滅状態となりました。
(主力だけが先に逃げた形になったので、相当非難されたようです)

翌18日までの一連の攻撃により香取以外にも軽巡洋艦3、駆逐艦4、駆潜艇等が沈没。
海軍の輸送艦は19隻、潜水母艦1、油槽船5、陸軍軍用船4・・・被害は合計20万tにも達しました。
海没した陸軍兵士だけでも7000名を超える死者が出ました。

アメリカ軍は、この難攻不落とよばれたトラック島を占領しようとせず、
制空権も制海権も失った日本からも見捨てられ、終戦まで放置されました。

因みにトラック島空襲で奇跡的に生き残った船の中に初代南極観測船「宗谷」がいます。
元々はソ連に依頼されて建造された船でして、世界情勢が不安定になった為に
引渡しされずに「地領丸」という名称が付けられました。

太平洋戦争勃発により海軍へ徴用された際に宗谷に改名。
大戦を無事に生き残り、ソ連の依頼で建造した耐氷船構造だった事から南極観測船になりました。