大宮喜三郎の腹黒徒然草  下巻

     沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し

習慣の違い

2011年08月12日 20時18分51秒 | 日記
 この辺りでは、迎え火・送り火に、白樺の皮や麦藁を使います。

 この迎え火を目印に、先祖の霊が帰ってくると言われています。

 もちろん、送り火もしますが、庭先かお墓で小規模に燃やす程度です。

 西日本の「大文字送り火」や「灯籠流し」ほど盛大にはしません。

 東北地方も、たぶん同じだと思います。

 少なくとも、関東以北で、マキを積み上げて大規模に燃やすタイプの送り火は、あたしは知りません。(平泉には有るみたい・・・)


 んで、今回の騒動なんだけど・・・。

 岩手県陸前高田市の松でつくった薪(まき)を、京都の「大文字送り火」で燃やすっていっても、もともと習慣がありませんから無理があります。

 それに、九州の御仁の思い付きで、大文字保存会の同意も得ずに、一方的に始めたのも拙いです。

 大文字保存会は、震災前からマキを集め乾燥させ、現場の急斜面に並べる日程・数量・人数等々細かく決めていたはずです。

 そこに、いきなり「500本追加!」って言われても無理な話です。

 例えれば、木落とし坂の頂上で、陸前高田市の松を一本、御柱(おんばしら)に追加って言っているようなもんです。

 そんな事をしたら、諏訪地方の人々は怒り狂うだろうネェ・・・。


 情報化のネットワークが地球を幾重にも覆い尽くす現代でも、地域の年中行事や祭りは、土着の文化ですから部外者の介入は不可です。

 論点を放射能にすり替えてもダメです。

 それぞれの場所で、それぞれの方法で、祖先の霊を送るのが一番いいんじゃないかなぁ・・・。



 この騒動で、京都府と陸前高田市の双方に遺恨が残り、全国的に気まずいお盆に成った事を残念に思います。
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