人生の最期
この文章は2010.07.13に発表したものですが、
亜母のブログ(ぽんのんの2)さんに送ります。
母の死を見つめながら、私は「人生の最期」を
以下のように迎えられたらいいなと思い、
7年前に記した文章です。
終末期においては、「ありがとう」の一言だけでも
最期のメッセージとして残したい思いは、私だけでなく
多くの人の望むことなのでしょうね。
母は90歳で他界しました。その時、私には母を失った喪失感はあまりなく、
むしろ、私が3歳の時に他界した父のもとに
やっと、母はみまかうことができたのだと、
そして、その父のいる彼岸のもとへ送ることができたのだという
安堵感が私にはありました。
葬儀の日は
なぜか「ほっとする」ような安堵感にとらわれ、
母を送ることができました。
老化が進み、病と闘う母の姿は
いじらしく、いとおしく感じられ
日に日に幼女に還っていく母の手を握り締めながら
「おふくろ、今まで十分頑張ってきたのだから、もう頑張らなくてもいいよ。
親爺がそこまで迎えに来ているから、早く行ってやれよ」
これが、母に対する私の精一杯の愛情の示し方だったと、今でも思っています。
当時、上記のような私の言葉に、兄姉は「何ということを言うのだ」
と随分と叱られたものです。
いつまでも、たとえ一分、一秒でも長生きしてほしい。
子どもとしては、当然の感情だと思います。
しかし、私はそうした願いの中に「生きている者のエゴ」を感じるのです。
臥している者にとって、「生を全うするだけのエネルギー」が残っているのかどうか。
命のともしびが、今まさに消えようとするときに、
「お母さん、頑張って、しっかりしなきゃだめよ」とは、私は言えないのです。
むしろ、死の不安や恐怖をいかにして、軽くできるかという精神的なサポート
こそが必要なのではないでしょうか。
こういう視点に立って、ターミナルケアの考え方が存在するのではないかと思います。
人生の最期のひと時を、病院のベットの上で、最新の医療機器に囲まれ、
愛する人や親しい人に「ありがとう」の一言もいい残せないで、
命の終焉を迎えるなんて、私は絶対に認められない。
私ばかりでなく、たくさんの人たちが
わが身の「人生の終末」を
「ありがとう」の一言を最期の言葉として、迎えたいと考えていることと思います。
遺される者の「エゴ」も改めなければならないことですが、
医療行為もまた、物理的な「延命措置」だけの「終末治療」は改善しなければ、
「命の重さ」と「医の倫理」がバランスよく保たれた「豊かな人生の終わり」は
実現しないと思います。
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以前私がブログをお休みさせていただく時、お返事を返せなくて本当に申し訳ございませんでした。
暖かい御言葉を下さって、本当にありがとうございました。
終末期の事は私もよく考えます。
既に祖父母が亡くなったという事もありますが、私の場合は自分の死を意識した事が何度もあります。
体の病気でも経験しましたし、心の病も経験しました。
そしてそれらは今も続いています。
まさに命の灯が消えそうになっている時、その人にはもうその灯をともし続けるだけの「ロウ」は残っていないでしょう・・・
そんな人に対して「死ぬな」なんて言うのは私も辛いですし、そもそもその人は既に「死なない」という事が不可能な状態なのだと想います。
人間も誰でもいつかは死にます。
例外はありません。
私は、大切な事は「死なない」事よりも「望む死に方で死ぬ」事なのかもしれないと想っています。
私も最期は・・・死に方ぐらいは自分が望むものであってほしいですね。
大切なお話をして下さって、本当にありがとうございました。
そして何よりも、さくらさんが徐々にではありますが、元気を取り戻す道を歩み始めていることが感じられ、「ほっと」しています。もう半歩、もう一歩、光に向かって歩んでいけることを切に願っています。
自分を責めず、自分を嘆かず、
疲れたら休めばいい。
そして、自分を慈しむことが肝要です。
自分を甘やかすのではなく、「悩み、苦しんでいる自分」を顧みて、「つまずいている自分」をみて、それさえも「いとしい自分」と思えるようになる(難しいことかと思いますが)ことが、大切と思います。
光は必ず見えてきます。
春を待つ「さくら」のように、寒さに耐える硬いつぼみにもやがて春が訪れます。
伝わってうれしい、ありがとう。
ひどく大変な日々で、早く入所したいです。
もっと書きたいけれど・・
返信遅れてすみません。
「大変な日々」を乗り越えて、
新しい日々を選択なされたことをしり、
どこかで安心している私がいることに気づきます。
個人の住まいと違い、制約も多いと思いますが、
支援の質も自宅介護よりも厚くなり、安心につながり、
生きる希望に繋がれば幸いと思います。