雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

追悼・船村徹 (7) 船村と高野 絆の譜

2017-03-07 11:08:36 | つれづれに……

追悼・船村徹 (7) 
  船村と高野 絆の譜

  工芸の丘の一番高いところの美原氏の良いところに、高野公男顕彰碑がある。


この道を上がれば……


高野公男顕彰碑と別れの一本杉歌碑がある。

これは、「絆の譜」です。
 碑面上左側は船村徹の写真、右
は高野公男の写真




碑面左下には「友よ」と親友・高野公男に呼びかけた船村徹の自筆の碑文がある。



     友よ 土の中は
      寒いのだろうか
     友よ 土の中には
      夜があるのだろうか
     もしも
      寒いのならば
       俺のぬくもりを
        わけてあげたい
     もしも
      夜があるのならば
       俺の手で灯りを
        ともしてやりたい
     友よ 俺の高野よ

      こおろぎの
       よちよち登る
        友の墓石

       昭和四十四年秋   船村徹

  碑面右下には「絆の譜」の顕彰文がある。

      絆の譜
    高野公男(本名 高野吉郎)は、昭和5年に
   北山内村(現 笠間市)大郷戸に生まれ、北山
   内国民学校(現 笠間市立箱田小学校)を卒業
    昭和二十四年上京、東洋音楽学校(現 東京
   音楽大学)に入学、そして船村徹と宿命的な
   邂逅(かいこう)をする。高野公男十九歳、船村徹十七歳
   であった。
    敗戦後の瓦礫と化した東京で地べたを舐め
   るような赤貧とたたかいながら、高野、船村
   の作詞作曲のコンビは、望郷歌謡の新境地を
   開拓し、昭和三十年に春日八郎氏の歌唱を得
   て世に問うた「別れの一本杉」の大ヒットに
   より彼らの地位は不動のものとなった。
    しかし高野は病にたおれ、草石の効もなく
   昭和三十一年9月8日、この世を逝っ
   た。二十六歳であった。
    船村は、「高野と共に生きた七年間が、私
   のすべてであった」と。
    夭折した天才詩人、高野公男を偲び、彼の
   偉業と船村との「男の友情」に敬意を表して、
   高野の生家のある大郷戸が望遠できる、ここ
   工芸の丘に「歌の石ふみ」を建立し、生生世
   世、顕彰するものである。

  小高い丘の上に立つこの顕彰碑は、西側と北側の一部が望遠できる。
  北側の山際が高野が育った大郷戸の集落だ。
  大郷戸の集落は、家こそ新しく建て替えてあるが、
  生活環境は高野が生きた時代とあまり変わっていないのだろう。
  集落と集落をつなぐ道路が一本通っているだけで、
  信号もなければ、コンビニもない鄙びた郷がひっそりと佇んでいる。

  青雲の志を立て、高野はこの大郷戸の集落から東京に向かった。
  そして、船村との運命的な邂逅が訪れる。
                 (2017.03.07記)     (つづく)

        ※ 次回は「絆の譜」碑面の裏側を紹介します。


      
 

     














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