雨あがりのペイブメント

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追悼・船村徹 (8) 船村と高野 絆の譜(2)

2017-03-12 20:34:32 | つれづれに……

追悼・船村徹 (8)
     船村と高野 絆の譜 (2)

 前回は茨城県笠間市の工芸の丘にある「絆の譜」を紹介しました。
 早世した高野公男への船村徹の思慕がどんなに強かったか。
 前回紹介した、「友よ 土の中は寒いのだろうか」を読んでいただければ
 理解できるのではないでしょうか。

 今回はこの「絆の譜」碑面の裏面を紹介します。

             「恋人の聖地」から見あげる「絆の譜」です。


   「絆の譜」顕彰碑の裏面です。「男の友情」の歌詞があります。
    「男の友情」の詳細については、『追悼・船村徹(3)(4)の「男の友情」(1)(2)』を参照してく
     ださい。それぞれ2/24、2/26で紹介しております。

 碑面右下には、「主な作品」として高野公男の作詞した歌が刻まれている。
 いずれも高野と船橋のコンビの作品です。作品発表年度と歌手名をあげておきます。

  ハンドル人生     昭和30年 若原一郎
  泣き虫人生        〃   春日八郎
  ご機嫌さんよ達者かね   〃   三橋美智也
  あの娘が泣いてる波止場  〃    〃

  別れの一本杉       〃       春日八郎
  早く帰って      昭和31年   青木光一
  男の友情          〃    〃     
  黒いコートの女    昭和32年 織井茂子
  三味線マドロス    昭和33年 美空ひばり
  さすらい夜曲      不明           不明
  
 
 高野公男が26歳で夭折したのは、1956(昭和31)年9月8日である。
 春日八郎の「別れの一本杉」が売れ始めるころ、高野は死の床に着き、
 船村はその高野を週末には国立水戸病院まで欠かさず見舞いに訪れていた。
 高野は「別れの一本杉」が大ヒットとなり、
 作曲家・船村と作詞家・高野のプロとしての出発点になっていくことを知らずに他界した。 
 
 
  「別れの一本杉」余話
   昭和30年春日は、「赤いランプの終列車」、「お富さん」などで人気歌手になっていたが、
   後が続かず、悶々とする思いでいた。
   そんなある日、
   春日はキングレコードに売り込みに来ていた船村と高野が持っていた作品に目を止めた。
   その時、春日は、二人が音楽学校で自分の後輩だったという意識があったのかどうか。
   どの資料を漁ってもこの場面の春日の心境を物語る資料は発見できなかった。
   キングレコードでの偶然の出会いに、幸運の女神がこの三人に微笑んだのだ。
   以下は、塩澤実信著の「不滅の昭和歌謡」からの引用である。

 



    通常、無名の新人の習作など、人気歌手は鼻にもひっかけないのだが、
   春日は高野、船村が持ち込んだ曲を聴かせてもらったところ、
   「泣けたっけ」が自分のフィーリングに合っているのを直感し、
   「うーん……この曲はいい!歌わせてくれませんか。これは絶対にいける!この曲で、また勝負だ」
   と叫んでいた。ー略ー 
   
レコードにするに当たって「泣けたっけ」のタイトルから「別れの一本杉」に
   改題された。
   
春日は、この土の匂いのする「別れの一本杉」を歌って、後輩のデビューのきっかけを
   作ったのだった。
 


 左端には次の碑文が読み取れます。
 顕彰に当たって
   この顕彰碑は、夭逝した不世出の作詞家、高野公男
  の功績を次の世代に残すために建立しました。
  作曲家、船村徹専戦意ともに先生とともに歌謡界の新境地を開拓し
  ていったその足跡は、芸術、文化、歴史の街である笠
  間市の誇りであり二人の「友情の深さ、思いやり、
  その尊さ」が、将来をになう青少年の情操教育の一環
  になることを願っております。

   今回、高野公男と船村氏が初めて笠間を散来した思
  い出深い、富士山の山頂に建立された「別れの一本杉」
  の歌碑(昭和三十九年)を移設し、さらに賛同をよせて
  下さいました市民の皆様方のご協力と実行委員会によ
  り新たに「絆の譜・友よ…」という顕彰碑を建立いたしました。

   笠間市に生まれ、地元の笠間市立箱田小学校を卒業
  し、東京に出てからもこよなく故郷を想う温かい心を持ち続けていた高野
  の顕彰碑が四十七回忌の今日、船村先生はじめ、笠
  間市並びに多くの市民、各種団体の方々のご理解とご
  協力により完成しましたことを心より感謝いたします。

   この顕彰事業により、故郷「笠間」の素晴らしさと、
  友情の尊さが広くご理解いただけますことを切に望む
  ものです。

      平成十五年九月二十八日
         高野公男顕彰実行委員会
           委員長 塙 東男
           施工 〇〇〇〇〇〇
 

    『「友情の深さ、思いやり、その尊さ」が将来をになう青少年の情操教育の一環になることをになって』と碑文にあるように
    この船村と高野の「友情物語」は高野の卒業した笠間市立箱田小学校にその精神は受け継がれている。
                                                                                     
(2017.03.12記)     (つづく)

   次回は同じ工芸の丘にある「別れの一本杉」歌碑について紹介します。 

   

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