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雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

「本当の幸せ」 沖縄「慰霊の日」追悼式

2019-07-13 06:00:00 | 語り継ぐ戦争の証言

「本当の幸せ」沖縄「慰霊の日」
         少女の願いは、万民の願い
   

  
   青くきれいな海
  この海は
  どんな景色を見たのだろうか
  爆弾が何発も打ちこまれ
  ほのおで包まれた町
  そんな沖縄を見たのではないだろうか

  緑あふれる大地
  この大地は
  どんな声を聞いたのだろうか
  けたたましい爆音
  泣き叫ぶ幼子
  兵士の声や銃声が入り乱れた戦場
  そんな沖縄を聞いたのだろうか

  青く澄みわたる空
  この空は
  どんなことを思ったのだろうか
  緑が消え町が消え希望の光を失った島
  体が震え心も震えた
  いくつもの尊い命が奪われたことを知り
  そんな沖縄に涙したのだろうか
      沖縄「慰霊祭の日」少女が願った「本当の幸せ」(朗読詩)     

 沖縄県主催の沖縄全戦没者追悼式で、
  糸満市立兼城小学校6年の山内玲奈さん(11)が朗読した詩「本当の幸せ」の前半です。 


 沖縄の青い海は どんな辛い景色を見たのだろう。
 この大地に どんな悲しみが刻まれたのだろう
 戦争の愚かさを 沖縄の空は嘆いたのだろうか。
 小学6年生の少女は、沖縄の海や大地や青く澄み渡る空に気持ちを感情移入して
 自分の生まれ育った島の悲して辛い過去を投影します。

 平成生まれの11歳の少女は、74年前にこの島が体験した悲惨な出来事を思いながら
 自分たちのしなければならないことを詠う。

 
  平成時代 私はこの世に生まれた
  青くきれいな海 緑あふれる大地
  青く澄みわたる空しか知らない私
  海や大地や空が七十四年前
    何を見て
      何を聞き
      何を思ったのか
      知らない世代が増えている
      体験したことはなくとも
      戦争の悲さんさを
      決して繰り返してはいけないことを
      伝え継いでいくことは
      今に生きる私たちの使命だ
      二度と悲しい涙を流さないために
      この島がこの国がこの世界が 
    幸せであるように

  「 二度と悲しい涙を流さないために」そして、この世界が幸せであるように、 私たちは沖縄の悲劇を伝えていかなければならない。
11歳の少女が「詩」に託した思いを疎かにしてはいけない。

 あれから四十七年が過ぎ、体験者が年々減っていく時の流れの中で、
「沖縄の悲劇」が風化していくようです。
特に本土に住む私たちにとっては、
「沖縄」を対岸の火事として、
傍観者の立場を取る人も少なくないようです。


6月23日がなぜ、沖縄の特別の日「慰霊の日」なのでしょう。

 沖縄戦における戦死者は住民や日米両軍合わせて20万人以上。
 この沖縄戦は太平洋戦争で唯一、
 一般住民が地上戦を体験したといいます。
 地獄のような戦場が展開されたのです。

 そのうちの約半数の9万4千人が一般人や子どもたちだったといわれています。
 この沖縄戦で、軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将が自決をしました。
 その日が昭和20年6月23日未明だと言われています。
 この日を、沖縄における日本軍の組織的戦闘が終結した日として、
 6月23日を「慰霊の日」として制定されました。



 紹介している詩「本当の幸せ」は、慰霊の日の追悼式で朗読されたものです。

       沖縄全戦没者追悼式が行われた場所は糸満の摩文仁の平和記念公園ですが、
       この地は先に紹介した2名の中将が自決した地区でもあります。

 この詩の最後は次のように結ばれています。

  
   お金持ちになることや
  
有名になることが 幸せではない
  
家族と友達と笑い合える毎日こそが
  
本当の幸せだ
  
未来に夢を持つことこそが
  
最高の幸せだ

  「命(ぬち)どぅ宝」
  
生きているから笑い合える
  
生きているから未来がある

   令和時代
    明日への希望を願う新しい時代が始まった
  
この幸せをいつまでも

   生きていることの幸せを
   本当の幸せだと
   11歳の少女は詠う。
    この幸せをいつまでも と。
 

 沖縄の悲劇。
 忘れてはなるまい。

 琉球王国の象徴であった国宝・首里城は、跡形も無く破壊された。

 ひめゆり学徒隊は、1945年3月23日に動員された。
 戦争が終わる5カ月前、民間人を動員しなければ戦も継続することができなかった。
 当時16歳であった女学生240名のうちで半分以上の136名が殺害・もしくは自決によって
 命を失った。

 敵につかまると女は強姦され、男は八つ裂きにして殺される」という在郷軍人会等の
 教えに、315人が集団自決に追いこまれた。

 戦争そのものが悲劇であり、地獄である。

 少女の詩は、命の大切さを
 「生きているから笑い合える」と詠っている。
 忘れてはならない戦争の悲劇を私たちは伝えていかなければならない。
 

※参考ブログ
(拙ブログでは、終戦記念日「白旗の少女」というタイトルで
たった一人で白旗を掲げて米軍に投降してきた少女の見た地獄の戦場を
3回に渡ってアップしています。  2017.8.17~18)
     

(語り継ぐ戦争の証言 №23)       (2019.7.12記)

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墜ちたB29 米兵を助けた日本人 ⑥(最終回)  その後の米兵

2018-09-01 08:24:40 | 語り継ぐ戦争の証言

墜ちたB29  米兵を助けた日本人
        ⑥(最終回) その後の米兵

この墜落事件を著者の草間秀三郎氏は単なる美談として本にするのではなく、
アメリカに住む遺族を割り出し、
手紙の交流を深める過程で、
愛する人たちがどんな最期を迎えたのか詳細に知らせています。


 敗戦国という立場の中で墜落した敵国の兵士を生死にかかわらず
どのように扱ったかということは、
「見てはならないものを見、体験したことは決して語ってはいけない」という暗黙の了解があり、
根底には米軍の処罰を恐れる自己防衛の意識があったから、
携わった人たちは貝のように口を閉ざしたのです。
 それでも草間秀三郎氏が、
パンドラの箱を開けるように「板橋村B29墜落事件」を丹念に調査し光を当てたのは、
学者としての責務と教育者・研究者としての「平和を望む」尊い気持ちからだったのではないかと
私は思います。

 

 この墜落事件に携わった旧板橋村の皆さんと、
草間秀三郎氏に深い敬意を表して私の報告を終わります。
ご清聴ありがとうございました。
                           


 以上が私の講演内容は以上ですが、番外編として次の二点を記して起きます。
  ① 撃墜された14機のB29の行方
    
3月10日の東京大空襲では、
   B29爆撃機14機が日本軍の高射砲か戦闘機の攻撃を受けて、
   東京都内と周辺のどこかに墜落し、4機が海上に落ちました。
   草間氏は10機すべての行方を調べたいと思い、
   わずかな情報を頼りにいくつかの市町村役場に問い合わせましたが、
   いずれも、「うわさとしては聞いたことがありますが、何の記録もないのでわかりません」
   という返事が帰ってくる有様でした。
 ② 生きていた三人の米兵のその後

      墜落現場から5人の憲兵と警察署長によって連行された3人の兵士のその後は、
    日本側の資料からは何もわかりません。
    草間氏によるとわずかに残った米軍(GHQ)の資料によると、三人のうちで階級の上の少尉
    はその日のうちに日本人に斬首されたとあるが、この日本人についての詳しい記述はない。
    他の2人の生存兵は東京の戦争捕虜収容所に収容されたが、1945年5月26日の火災で焼死
    したとある。終戦八十数日前のことである。
         (2018.8.30記)  (語り継ぐ戦争の証言№22)

 「墜ちたB29」は、「語り継ごう太平洋戦争の記憶」で講演した原稿を加筆、訂正したものです。
 『B29墜落 米兵を救った日本人(増補版)』草間秀三郎著 論創社
 草間氏が8歳の時に目撃したB29の墜落事件の話を56年後に掘り起こしたノンフィクションを底本にし、
 講演用に脚色したものです。

 

 

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墜ちたB29 米兵を助けた日本人 ⑤ 生きていた米兵と死んだ米兵

2018-09-01 08:22:59 | 語り継ぐ戦争の証言

墜ちたB29 米兵を助けた日本人
       ⑤ 生きていた米兵と死んだ米兵

 当時の茨城新聞(墜落2日後の3/12)の記事には
「醜骸(しゅうがい)ぎまみろ」という見出しで次のように報道されています。   

【 撃墜されたB29は赤松の林に囲まれた小高い丘の中に焼けただれて散乱し、
 我が猛攻にと
どめの一撃をされて大地にたたきつけられた
ままだ…】

又、現場に駆け付けた二人の警察官の一人五味緑さんの証言。
【墜落現場に戻ると50
先で誰かが大声で叫んでいた。
「殴るな
!
けるんだ!」という叫び声でした】

 もう一人の巡査は次のように証言しています。
【三人のうちの二人は村人たちの助けを
得ながら避難所まで歩いていき、
重症の米兵
は村人たちに担架で運ばれた。
私は医者を呼
ぼうとしたが村に医者はいなかった】

 午前4時ごろ、3人の生存兵たちは、
土浦憲兵隊支部から来た5人の憲兵と谷田部警察署長にどこかに拘引されていきました。
米兵がどこに連行され、
どのような扱いを受けたのか、
村人たちとの接触が遮断されたこともありまったく不明であり、
記録も残っていない。

 さて、墜落した機体の中に九人の遺体が発見されました。
遺体は消防団員が担架に乗せて運び、
村の共同墓地に埋葬されました。
遺体の捜査、埋葬の指揮を執ったのは谷田部警察署長でした。
米軍の記録によれば、
共同墓地に埋葬された九つの遺体の上に
板橋村の村人たちが木の十字架を立ててあったのを進駐軍によって確認されています。

墜落現場となった板橋村で、
村人たちは丁寧に遺体を埋葬し、
自分の村で戦死した米兵たちに心から哀悼の意を表したのでしょう。


当時の茨城新聞は次のような記事を載せてい
ます。
 「憎い野郎どもだが死んだものをそのまま捨てても置かれめえ」と村人はつぶやく。
  焼けただれた死体を埋めた村人たちの深い思いやりに
  埋められた赤鬼どももさぞや地
下で嬉し泣きしていることであろう】
                          
(茨城
新聞S20.3.12)
  (2018.8.29記)   (
語り継ぐ戦争の証言№21)

 「墜ちたB29」は、「語り継ごう太平洋戦争の記憶」で講演した原稿を加筆、訂正したものです。
 『B29墜落 米兵を救った日本人(増補版)』草間秀三郎著 論創社
 草間氏が8歳の時に目撃したB29の墜落事件の話を56年後に掘り起こしたノンフィクションを底本にし、
 講演用に脚色したものです。

                                                                       (つづく)

 

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墜ちたB29 米兵を助けた日本人 ④ 生きていた3人の米兵

2018-08-29 08:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

墜ちたB29 米兵を助けた日本人
       ④ 生きていた3人の米兵
          勇気ある一人の日本人の言葉が、米兵を助けた
昭和20年3月、東京大空襲に参加したB29爆撃機が茨城県筑波郡に墜落。当時小学二年の著者は生存米兵三人を目撃。五十余年を経て、墜落機尾翼の番号を手掛りに米兵のその後を究明する。99年刊の増補版。(ブックテータベースより)

 

「出てこい、出てこい」
と大声で叫びました。
その時3人のアメリカ兵のうちの一人が
「アイ ウィル ギブ ユー ジス ウォッチ 、ソウ プリーズ ヘルプ アス 
(この腕時計をあげるから我々を助けてください)。
旧制中学校(現茨城県立水海道第一高等学校)で5年間週に6時間以上も英語を学んだ冨山さんにとって、意味を理解することは簡単でした。

「よし分かった。お前たち3人を助けてやる。
集まった大勢の村人に向かって、

3人は丸腰だ、撃つな!殴るな!助けるんだ! 助けるんだ!
更に、

「丸腰の3人は身内と同じだ!殴るな!殴りたければ俺を殴れ!
と懸命に叫んだ。

「丸腰の3人は身内と同じだ」
なんと勇気に満ちた、
感動的な言葉なのでしょう。
「鬼畜米兵」と言っていた時代に、
しかも、
たった2時間前には500ポンドの焼夷弾を334機の一機として、
投下し東京の空を炎の海にして焼き尽くし、
私たち日本人の同胞を10万人近く死に追いこんだ「敵」の兵隊に向
かって、
怒りに満ちた村人の興奮を抑えるよ
うに放たれた言葉なのです。

 

                       (つづく)

 「墜ちたB29」は、「語り継ごう太平洋戦争の記憶」で講演した原稿を加筆、訂正したものです。
 『B29墜落 米兵を救った日本人(増補版)』草間秀三郎著 論創社
 草間氏が8歳の時に目撃したB29の墜落事件の話を56年後に掘り起こしたノンフィクションを底本にし、
 講演用に脚色したものです。

 

 (2018.8.27記)          (語り継ぐ戦争の証言№20)

 

 


 

 

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墜ちたB29 米兵を助けた日本人 ③ 8歳の少年が見たものは

2018-08-27 07:20:52 | 語り継ぐ戦争の証言

墜ちたB29  米兵を助けた日本人
       ③ 8歳の少年が見たものは
 
「鬼畜米兵」と言われていた米兵のB29が、
「東京から約40㌔北東の茨城県の板橋村に真夜中に火だるまとなっておちてきたB29と
 生存兵が憲兵に連行されていく場面を8歳の草間少年が目撃した」ことが調査の動機になったようです。

 

回想の中で草間氏は次のように語っています。
【…南の夜空に火だるまとなった一機のB29自分の方に向かってゆっくりと落ちてきたのです。
8歳だった私は、東京大空襲の夜空も怖い思いで見ましたが、このB29墜落の目撃は衝撃的でした】

 

墜落現場に火柱が立って周囲の山林が大変な火災になりました。
真っ先に駆けつけたのは村の消防団員たちでした。
午前2時15分ごろ副団長の当時35歳の冨山栄さんをリーダーとする消防団員たちは、
墜落したB29と周囲の松林の火災を消し止めるために墜落現場に向かいました。
集まった人々は、棍棒を持ち、猟銃を持ってきた人もいたようです。
それでもなかなか前に進んで行く勇気のある人はいなかったようです。

「今は戦争中だ。戦場もここ同じだ。消防団副団長として俺が行く。
 アメリカ人が怖ければついてこなくてもよいぞ」。

そう言われて、集まった人々が後について少しずつ前進しました。
その時には集まった村人は百数十名になっていました。
燃えるB29の尾翼まで近づき見えたものは、
火災の炎に照らされながら蹲(うずくま)っている3人のアメリカ兵でした。
                       
 (つづく)

 「墜ちたB29」は、「語り継ごう太平洋戦争の記憶」で講演した原稿を加筆、訂正したものです。
 『B29墜落 米兵を救った日本人(増補版)』草間秀三郎著 論創社
 草間氏が8歳の時に目撃したB29の墜落事件の話を56年後に掘り起こしたノンフィクションを底本にし、
 講演用に脚色したものです。

 (2018.8.24記)          (語り継ぐ戦争の証言№19)

 

 

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墜ちたB29 米兵を助けた日本人 ②墜ちて来たB29

2018-08-24 08:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

墜ちたB29 米兵を助けた日本人 
    ②墜ちて来たB29
  なぜ墜たB29の詳細がわからないのか。
これに関連した新聞記事をみてみましょう。
【当時、追撃されたB29の搭乗員の遺体は、「鬼畜米兵」の見本として一週間も現場の翼上に展示されていた】 
                                      (1998.5.8  H10 朝日新聞)
 この記事は、戦時中のアメリカ軍の無差別爆撃に対する報復として生存兵が虐待され、
戦士した兵が遺棄されたことを物語っています。
墜落した生存米兵に、石を投げたり、棒で叩き、寄ってたかって暴力を振るったなど、
この種の話は沢山聞くことができます。

 

敗戦を迎え、GHQが調査に乗り出すとどのような仕打ちをされるかわからないと、
事実の陰蔽が行われたから、
公的記録はもちろんのこと、
民衆の口は貝のように閉ざされたまま、事件は闇に葬られてしまったようです。
 私は今年の「語り伝えよう太平洋戦争」では、
東京大空襲を取り上げようと資料を集めていました。
その過程で偶然「茨城に落ちたB29  米兵を救った日本人」という草間秀三郎氏が書いた本を発見しました。

 

 茨城県のつくばみらい市(当時板橋村 筑波郡伊奈町)に東京爆撃の任を終了したB29が墜落し、
板橋村の住民が生存米兵を助けたという記録です。
この事件も草間秀三郎氏が、掘り起こし、記録にとどめなければ、
歴史の闇に消えていたかも知れません。

 当時、8歳の少年だった草間秀三郎氏が、
目撃したB29爆撃機の墜落事件を、50数年たってから関係者に聞き込み調査をして、
米兵の遺族を探し出し墜落時の全容を明らかにしました。

 8歳の草間少年が目撃したB29墜落事件とは、どのような事件だったのでしょうか
                                  (つづく)
  (2018.8.22記) (語り継ぐ戦争の証言№18)

 「墜ちたB29」は、「語り継ごう太平洋戦争の記憶」で講演した原稿を加筆、訂正したものです。
 『B29墜落 米兵を救った日本人(増補版)』草間秀三郎著 論創社
 草間氏が8歳の時に目撃したB29の墜落事件の話を56年後に掘り起こしたノンフィクションを底本にし、
 講演用に脚色したものです。

 

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墜ちたB29 米兵を助けた日本人 ①東京大空襲の夜

2018-08-22 07:07:53 | 語り継ぐ戦争の証言

 1945年3月9日の夕刻、
マリアナの米軍基地を飛び立ったB29爆撃機は、
3月10日午前0時8分東京上空に現れました。
その数334機。
500ポンド(225㌕)の焼夷弾24個を搭載したB29爆撃機が
低空飛行で東京の街を襲いました。

 この無差別爆撃は、たった2時間で終了しました。
ご承知のように、東京の街は阿鼻叫喚
の地獄となったことを、
私たちは映画や文学
作品、絵画等で知ることができます

 3月10日の東京大空襲の被害が具体的にどのくらいのものだったのか
数字で示してみましょう。
 
一つでも多くの焼夷弾を積み込むために
4基の機関銃をすべて取り外してあったそうです。
その上、空中衝突を避けるために、
編隊を組まずに高度8500㍍以下の低空飛行で東京上空に現れたといわれています。
空襲の犠牲者は、
死者83,793名
負傷者40,918名
傷者合計124,711名
戦災家屋268,000戸。
   小さな地方の市が一つ消えてなくなってもまだ足りないぐらいの大きな被害です。
   3月10日は陸軍記念日で、334機のB29はまさにこの日を狙い、首都東京を襲ったのです。
   この時落とされた「焼夷弾」は、
   
 親爆弾に子爆弾19発が2段に、計38発が組込まれ、空中で分解して落下する。
    1機のB―29が1520発の子爆弾を投下した。
   爆発の威力は少ないが、燃焼力があり、水では消化できない。

    
   無差別に投下された焼夷弾はあまりにも非人道的ということで、
   1983年、「特定通常兵器使用禁止制限条約」により使用禁止されました。

   こんな爆弾を作り非戦闘員を無差別に攻撃し、
   核爆弾を広島、長崎に落とした非人道的行為について、
   その責任有無について、何ら問われていないのは、
   戦勝国とは言えおかしな話です。

 話を本題に戻します。
   
圧倒的な物量と戦闘能力を備えたB29ですが、
   太平洋戦争で墜落したB29は、米軍資料によると327機と言われていますが、
   墜落場所、時刻、
戦死者数、生存者数、住民の対応、
   憲兵や警
察の対応など全容が明らかになっているもは、ほとんど見当たらないようです。
   どうしてなのか。
                                      (つづく)
  (2018.8.21記)         (語り継ぐ戦争の証言№17)

 「墜ちたB29」は、「語り継ごう太平洋戦争の記憶」で講演した原稿を加筆、訂正したものです。
 『B29墜落 米兵を救った日本人(増補版)』草間秀三郎著 論創社
 草間氏が8歳の時に目撃したB29の墜落事件の話を56年後に掘り起こしたノンフィクションを底本にし、
 講演用に脚色したものです。

 

 

 

 

 

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終戦記念日・白旗の少女(3)

2017-08-19 08:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

  白旗を掲げ投降する少女・比嘉富子さの証言(3)
                 
 この記事は私のブログ「白旗の少女」の
                     (1)沖縄戦 家族を失い投降(2015.8.5)

                                          (2)二枚目の写真の真相(2015.8.6)
                                                      (3)少女が見た地獄(2015.8.16)
                                                      (4)老人夫婦との出会い(2015.8.19)掲載の記事を再編集し、
                                           「太平洋戦争を記録する講演会」(2017.08.06)にて発表した原稿である。

 

自分が生き残るためには、
たとえ相手が味方の兵隊であっても、
それどころか、なんの抵抗もできない母親でも、
わたしのような子どもでも、
そして、赤ちゃんでさえも殺さなければならないなんて……。

沖縄の戦争が最も悲惨だったのは、非戦闘員の住民が巻き込まれたことです。

 

七歳の少女は、沖縄の戦場をたった一人で、
地獄の風景の中を彷徨い、
「白旗」を掲げて投降することを勧めてくれた老夫婦の隠れ住むガマにたどり着きます。
 
川のほとりに、水を求めて逃げてきた大勢の人たちが、
力尽きて死んでいました。
その死体には虫が湧き、近くの水はうじ虫だらけです。
わたしは、思いきって両手を流れに入れ、
そっとうじ虫をどかして、みずをすくい上げて飲みました。
「おいしい!」

飢えと渇きで疲労した少女にとって、
この水は、「命をつなぐ水」だったのでしょう。
うじ虫の浮いている水さえ「おいしい!」と思わず声をあげた少女の環境適応能力と生命力の強さに感動です。

 沖縄の戦場を45日にも渡って、
彷徨(さま)よい、命からがらたどり着いたガマ、
いつものように兵隊から恫喝され追い出されるのを覚悟で、
真っ暗なガマに入った7歳の少女を迎えたのは、老夫婦でした。
 
わずかな食料を分け与えてくれる老夫婦の慈愛に満ちたまなざしが、
少女に生きる力を与えたのでしょう。

わたしは、ひさしぶりに、歩くことも、ガマから追われることも、
死んだ兵隊さんの雑のうから食べものをさがすこともない、日々を送ることができました。
しかし、老人には手足が無く、
失った手足の傷口には血が滲みうじが湧いています。

 
老婆の方は目がみえず、
文字どおり少女が二人の手となり足となってかいがいしく世話をする姿は、
老夫婦にとってはガマの暗闇に咲いた小さなかけがえのない希望の灯りと映ったことでしょう。

 戦況はますます悪化し、
このままの状態では、
やがて食料がつき、三人の餓死は免れません。
この体では、この先いくらも生きられない。
わたしたちの体は死んでなくなっても、富子の心に生きつづけることができる。

 そう諭された少女は、ガマをでてアメリカ軍に投降することを決心する。

 老人のフンドシを裂いて作った白旗を木の枝に結び付けて、少女は老夫婦の住むガマを後にする。

やがて少女はアメリカ軍に保護されたが、ガマに残った老夫妻のその後は誰も知らない。

 アメリカ軍の記録によれば、少女が保護された日は、昭和20年6月25日だという。
 昭和20年8月15日、玉音放送により日本の降伏が国民に公表される50日前のできごとでした
                                        (おわり)

 



 

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終戦記念日・白旗の少女(2)

2017-08-18 08:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

   終戦記念日・白旗の少女
            白旗を掲げ投降する少女・比嘉富子さの証言(2)
                 
 この記事は私のブログ「白旗の少女」の
                     (1)沖縄戦 家族を失い投降(2015.8.5)

                                          (2)二枚目の写真の真相(2015.8.6)
                                                      (3)少女が見た地獄(2015.8.16)
                                                      (4)老人夫婦との出会い(2015.8.19)掲載の記事を再編集し、
                                           「太平洋戦争を記録する講演会」(2017.08.06)にて発表した原稿である。

  たった一人戦場を彷徨い地獄を見た少女
 
 
砲弾の破片か爆風にでもやられたのでしょう、
胸から血を流してぐったりしている母親の胸で、
その流れる血をすすっている一歳ぐらいの赤ちゃんの姿です。
 
赤ちゃんは私を見つけると、
口といわず頬といわず、
顔中を血まみれにしながら、
「だっこして」とでもいうように、両手を伸ばしてくるのです。
その両手も母親の血で真っ赤に染まっていました。
それはもう地獄でした。

わたしには、ほかに表現する言葉も文字も見つかりません。

七歳の幼い少女が見た地獄は、その後の彼女の人生にどんな影響を与えたのでしょう。

爆弾や砲弾のために命を落とした人をまたいだり、
暗闇で死人とわからずつまずいて、転んだりしながら歩く」

 

少女・比嘉(ひが)富子さんのけなげな姿と生命力の強さに驚きます。

 

 ガマの中から赤ちゃんの泣き声が聞こえました。 
大声で泣き続ける赤ちゃんをおぶった若いお母さんが、
四、五人の兵隊に押し出されるようにガマの入口にあらわれました。
お母さんは、ガマの中を指でさしながら、
兵隊たちに何度も何度も頭をさげていました。
きっと中に入れてくださいとお願いしていたのだと思います。
しかし、兵隊たちは、お母さんを入れるどころか手で追いはら
い、
とうとうお母さんは、ガマの外に追い出されてしまいました。
(※ガマ=住民や日本兵の避難場所や野戦病院として利用された) 
ずいぶんひどい話です。
国民の命を守れない
兵隊に何が守れるというのでしょうか。

 

投降しようとする者は住民、兵隊の区別なく逃げる背中に向かって拳銃を撃つような狂気が充満し、
「国を守る」という大義名分のもとに、多くの人々が命を落とした。

 

悲しいしいのは、これに類似した話が、他の戦場でも起きていたということです。

 

 ダダダッと機銃の音がしました。
おかあさんの体が、
クルクルクルッとコマのようにまわったかと思うとバタッと倒れて、
そのまま動かなくなりました。
その背中では、赤ちゃんがまだ泣きつづけていました。
そのとき、ガマから黒いかげがツツッと地面をはうようにしてあらわれ、
たおれているお母さんのそばにかけよると、
その背中から赤ん坊をひきはなして、岩かげに走りこんでいきました。
赤ちゃんの泣き声がしだいに遠くなっていって、急に泣き声が聞こえなくなりました。
ガマはふたたび静まりかえり…………

 自分たちの命を守るために、無抵抗の命を
奪うことが黙認されるような狂気が戦場では、数えきれないほど起きました。
       (語り継ぐ戦争の証言№17)           (つづく)

 

  

 

 

            



 

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終戦記念日・白旗の少女(1)

2017-08-17 08:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

   白旗の少女    白旗を掲げ投降する少女・比嘉富子さの証言(1)
             
この原稿は私のブログ「白旗の少女」の
                                     (1)沖縄戦 家族を失い投降(2015.8.5)
                                     (2)二枚目の写真の真相(2015.8.6)
                                     (3)少女が見た地獄(2015.8.16)
                                     (4)老人夫婦との出会い(2015.8.19)掲載の記事を再編集し、
              「太平洋戦争を記録する講演会」(2017.08.06)にて発表した原稿である。

白旗の少女
 1945(昭和20)年6月25日に米陸軍戦闘カメラマンの 
ジョン・ヘンドリクソンにより撮影された比嘉(
当時は松川)富子。
当時6~7歳の少女がたった一人で、
沖縄戦末期の戦場を45
日間にわたってさまよった
記禄である。
  

 木の枝に、老夫婦が褌(ふんどし)を裂いて巻きつけた旗を掲げて投降する。
当時、6、7歳のあどけない少女の決死の投降場面だ。
兄の遺体を埋め、姉たちとははぐれてしまった。
死体だらけの川の水を飲みながら生き延びた少女。

 「地獄に行ったことはないけど、もし地獄があるとするならば、きっとあれが地獄なのでしょうね」
70年も昔の少女時代の過酷な体験は、「生き残った」事に対する悔恨がいまだにわきあがってくるのでしょう。
生き残って、今こうして生きていることに、心の痛みを感じるという。
いわゆる「死に遅れ」た事に対する、悔恨や罪の意識は、
戦後多くの仲間を失った兵士たちに共通の意識だったのでしょう。

 「命は自分のためにだけあるんじゃない。産んでくれたお父さんやお母さんのものでもある」
 洞窟で投降を勧めた、老人の言葉は、
 比嘉さんが生きるための心の支えとして、今も鮮明に浮かんでくるのでしょう。

 長いこと、アメリカの従軍カメラマンが撮った「白旗の少女」が誰なのか、
 生きているのか、死んでいるのかさえ不明でした。

 昭和62年、比嘉富子さんが、「白旗の少女は私です」と名乗り出ました。
 終戦から42年が過ぎていました。

  比嘉さんにとっては、
  長い長い戦後に一つの区切りをつけるのに、
 42年が必要だったのかもしれません。

 その2年後の平成元年、比嘉さんは「白旗の少女」という本を出版しました。
      (語り継ぐ戦争の証言№16)                           (つづく)

 

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