「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。
おちょぼ 第65話 祇園の申し子
「置屋の女将に、母親らしい面影を見つけたって?
本当に佳つ乃(かつの)が、そんな風に言っていたのかい」
なるほどねぇ、と似顔絵師の話を聞き終えたバー「S」の老オーナが、
ぷかりとパイプをふかす。
充分過ぎる甘い煙が、カウンターの中を流れていく。
「いまさら隠し事をしてもはじまるまい。
当時のいきさつはこうだ。
商社に勤めていたワシは、5年の予定でイギリスに行くことになった。
留守の間。乳呑児をかかえた乳母がやってきて、ワシの家に住み込んだ。
そのときの乳呑児が、佳つ乃(かつの)だ。
祇園の芸妓は、結婚と同時に辞めるというしきたりが有る。
だがシングルマザーとして、子どもを産むことは昔から許されておる。
祇園の芸妓は、人妻にはなれないが、母親にはなれる。
佳つ乃(かつの)は、そんな背景の中で生まれてきた女の子のひとりだ」
「ということは、そんな風にして生まれてきた子が此処には、
たくさんいるという意味なのですか?」
「少なくはないが、たくさん居るわけでもない。
佳つ乃(かつの)のように、祇園の申し子として生まれてきた女の子は、
それほど多く無い。
未婚の芸妓が子どもを産んでも、仕事を持っているために
ほとんどの場合、自分では育てられない。
里子に出すか、乳母に託して育ててもらうのが通例だ。
佳つ乃(かつの)は、後者のケースだ。
ワシがイギリスから戻った時、佳つ乃(かつの)は幼稚園に通う5歳の
女の子になっていた。
ワシの家に乳母を派遣していたのは、福屋の女将、清乃だ。
清乃との約束で、12歳になるまでワシのところで育て、小学校が終ったら
おちょぼとして屋形に引き取り、中学へ通わせることが決まっていた」
「最初から、芸妓になることが運命づけられていた女の子なのですか。
佳つ乃(かつの)さんは」
「見方を変えれば、佳つ乃(かつの)は恵まれた道を歩いてきたことになる。
面倒をみた乳母は、かつては祇園甲部で3本の指に入った芸妓だ。
隅々まで行き届いた躾をちゃんとほどこした。
4歳になったとき、井上流への出入りも許された。
そう言う意味から言えば、佳つ乃(かつの)は祇園生粋のサラブレッドだ。
すべてのものを幼いうちから身に着けて、なるべくして芸妓に育った子だ。
ワシは、佳つ乃(かつの)の父親じゃない。
そうした一連の流れを、一番近くで長く見つめてきただけの男だ。
ワシと佳つ乃(かつの)は、そういう関係だ」
「絶対に、母親のことだけは明かさない。
そういう密約が、佳つ乃(かつの)さんを取り巻く皆さんの間に有るのですね?」
「それ以上のことは聞くな。
聞かれてもワシも福屋の女将も、それ以上のことは言わん。
佳つ乃(かつの)は生まれた時から、祇園ひとすじに生きてきた女の子だ。
外の世界の事は、何ひとつ知らずに育ってきた女の子だ。
1歩も外に出ないまま、女たちによって純粋培養で育てられてきた。
外への憧れと、家庭の味に飢えていることは、ワシから見ても良く分かる。
佳つ乃(かつの)のそんな想いが、外から来たお前さんを受け入れたんだろう。
もしかしたらこの人が、わたしを外へ連れ出してくれるかもしれない。
そんな期待を込めて、君を選んだのかもしれないな」
「不自由なく育ったサラブレッドのはずなのに、どこかに不満があると言うのですか?。
綺麗な着物を着て、超一流の人たちを接待するんですよ。
やり甲斐だって充分にあるはずです。
外のつまらない世界よりも、格式も素養も有る祇園で生活していったほうが、
よほど充実していると思いますが・・・」
「ワシは父親らしい愛情をあの子に、プレゼントできなかった。
見守るだけで、精いっぱいだったのさ。
祇園の申し子だ。祇園の宝として育てようと、周りが決めていた女の子だ。
どうしても近寄り切れない最後の1歩が、残ったワシには有った。
だからあの子は、男親の愛を知らん。
恋愛をするたびに、何故かあの子は、立ち振る舞いが不器用になる。
人を好きになるたびに、臆病になる自分が居るんだ。
そうさせたのはワシのせいだと、今でも後悔をしている。
だが君が現れたことで、じつは、ワシもホッとしているんだ。
自然に、素直に自分自身を見せたまま男と付き合っているのは、君が初めてだ。
そういう子なんだよ。
佳つ乃(かつの)という、サラブレッドの芸妓は」
「S」のマスターがまた、ぷかりとパイプをふかす。
充分すぎる甘い香りが、ふたたびカウンターの中を流れていく。
「さて、開店しょうか」マスターの声に促されて路上似顔絵師が、「オープン」と
書かれた札を持ち、ドアに向かって歩いて行く。
第66話につづく
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江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。
おちょぼ 第65話 祇園の申し子
「置屋の女将に、母親らしい面影を見つけたって?
本当に佳つ乃(かつの)が、そんな風に言っていたのかい」
なるほどねぇ、と似顔絵師の話を聞き終えたバー「S」の老オーナが、
ぷかりとパイプをふかす。
充分過ぎる甘い煙が、カウンターの中を流れていく。
「いまさら隠し事をしてもはじまるまい。
当時のいきさつはこうだ。
商社に勤めていたワシは、5年の予定でイギリスに行くことになった。
留守の間。乳呑児をかかえた乳母がやってきて、ワシの家に住み込んだ。
そのときの乳呑児が、佳つ乃(かつの)だ。
祇園の芸妓は、結婚と同時に辞めるというしきたりが有る。
だがシングルマザーとして、子どもを産むことは昔から許されておる。
祇園の芸妓は、人妻にはなれないが、母親にはなれる。
佳つ乃(かつの)は、そんな背景の中で生まれてきた女の子のひとりだ」
「ということは、そんな風にして生まれてきた子が此処には、
たくさんいるという意味なのですか?」
「少なくはないが、たくさん居るわけでもない。
佳つ乃(かつの)のように、祇園の申し子として生まれてきた女の子は、
それほど多く無い。
未婚の芸妓が子どもを産んでも、仕事を持っているために
ほとんどの場合、自分では育てられない。
里子に出すか、乳母に託して育ててもらうのが通例だ。
佳つ乃(かつの)は、後者のケースだ。
ワシがイギリスから戻った時、佳つ乃(かつの)は幼稚園に通う5歳の
女の子になっていた。
ワシの家に乳母を派遣していたのは、福屋の女将、清乃だ。
清乃との約束で、12歳になるまでワシのところで育て、小学校が終ったら
おちょぼとして屋形に引き取り、中学へ通わせることが決まっていた」
「最初から、芸妓になることが運命づけられていた女の子なのですか。
佳つ乃(かつの)さんは」
「見方を変えれば、佳つ乃(かつの)は恵まれた道を歩いてきたことになる。
面倒をみた乳母は、かつては祇園甲部で3本の指に入った芸妓だ。
隅々まで行き届いた躾をちゃんとほどこした。
4歳になったとき、井上流への出入りも許された。
そう言う意味から言えば、佳つ乃(かつの)は祇園生粋のサラブレッドだ。
すべてのものを幼いうちから身に着けて、なるべくして芸妓に育った子だ。
ワシは、佳つ乃(かつの)の父親じゃない。
そうした一連の流れを、一番近くで長く見つめてきただけの男だ。
ワシと佳つ乃(かつの)は、そういう関係だ」
「絶対に、母親のことだけは明かさない。
そういう密約が、佳つ乃(かつの)さんを取り巻く皆さんの間に有るのですね?」
「それ以上のことは聞くな。
聞かれてもワシも福屋の女将も、それ以上のことは言わん。
佳つ乃(かつの)は生まれた時から、祇園ひとすじに生きてきた女の子だ。
外の世界の事は、何ひとつ知らずに育ってきた女の子だ。
1歩も外に出ないまま、女たちによって純粋培養で育てられてきた。
外への憧れと、家庭の味に飢えていることは、ワシから見ても良く分かる。
佳つ乃(かつの)のそんな想いが、外から来たお前さんを受け入れたんだろう。
もしかしたらこの人が、わたしを外へ連れ出してくれるかもしれない。
そんな期待を込めて、君を選んだのかもしれないな」
「不自由なく育ったサラブレッドのはずなのに、どこかに不満があると言うのですか?。
綺麗な着物を着て、超一流の人たちを接待するんですよ。
やり甲斐だって充分にあるはずです。
外のつまらない世界よりも、格式も素養も有る祇園で生活していったほうが、
よほど充実していると思いますが・・・」
「ワシは父親らしい愛情をあの子に、プレゼントできなかった。
見守るだけで、精いっぱいだったのさ。
祇園の申し子だ。祇園の宝として育てようと、周りが決めていた女の子だ。
どうしても近寄り切れない最後の1歩が、残ったワシには有った。
だからあの子は、男親の愛を知らん。
恋愛をするたびに、何故かあの子は、立ち振る舞いが不器用になる。
人を好きになるたびに、臆病になる自分が居るんだ。
そうさせたのはワシのせいだと、今でも後悔をしている。
だが君が現れたことで、じつは、ワシもホッとしているんだ。
自然に、素直に自分自身を見せたまま男と付き合っているのは、君が初めてだ。
そういう子なんだよ。
佳つ乃(かつの)という、サラブレッドの芸妓は」
「S」のマスターがまた、ぷかりとパイプをふかす。
充分すぎる甘い香りが、ふたたびカウンターの中を流れていく。
「さて、開店しょうか」マスターの声に促されて路上似顔絵師が、「オープン」と
書かれた札を持ち、ドアに向かって歩いて行く。
第66話につづく
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