落合順平 作品集

現代小説の部屋。

「舞台裏の仲間たち」(24)   第五章(3)黒光の生いたち

2012-09-15 13:48:00 | 現代小説
アイラブ桐生Ⅲ・「舞台裏の仲間たち」(24)
  第五章(3)黒光の生いたち





 黒光は、明治~昭和期の実業家で新宿中村屋の創始者としてもよく知られています。
随筆家としてもいくつかの著作を残し、本名は良(りょう)といいます。
旧仙台藩士・星喜四郎、巳之治の三女として杜の都、仙台の広瀬川の畔に生まれました。
戸籍上は明治8年の生まれです。
母方の祖父・星雄記は、漢学者として伊達藩に代々仕えてきた10代目にあたります。



 叔母に佐々城豊寿、従姉妹には信子がいました。
この信子は、後に国木田独歩の妻となります。
父・喜四郎は同藩の多田郡之助の四男で、星家の養子となった人です。
父方の伯母・兼はキリスト教徒で、その孫・佐藤とみの夫は郭沫若でした。



 ■郭沫若(かく まつじゃく)は中華民国、中華人民共和国の政治家、
 文学者、詩人、歴史家。
 原名は郭開貞で、開貞は諱、沫若は号にあたります。



 良は、仙台で片平丁の小学校に通いました。
この小学校は、明治6年には”五番小学校”、明治7年に”片平丁”、
そして良の生まれた年の9年には”育才小学校”、12年に”片平丁小学校”と
次々に校名が変わり、現在に残る仙台市立片平丁小学校は、昭和22年(1947)からのことでした。
ちなみに大正3年(1914)に校歌が制定されましたが、校歌の作詞者は、詩人の土井晩翠です。




■土井 晩翠(どい ばんすい))は、日本の詩人、英文学者。
 本名は、林吉(りんきち)。本来の姓は「つちい」でしたが、1932年(昭和7年)に改称。
 東京帝国大学在学中に 『帝国文学』を編集し、多くの詩を発表。
 男性的な漢詩調詩風で、第一詩集『天地有情』に対する評価では、
 島崎藤村に並ぶと称されました。
 代表作に『星落秋風五丈原』や、滝廉太郎の作曲で知られる『荒城の月』などがあり、
 校歌、寮歌なども数多く作詞しました。



 明治19年(1886)9月18日、アメリカから派遣された宣教師と日本人によってキリスト教主義の
「宮城女学校」が創設され、同月の24日から、10名の生徒での授業がはじまりました。
なお、「仙台神学校」は、これに先立つ5月にすでに開設をされています。
翌、明治20年(1887)5月になると、東二番丁の本願寺別院跡を取得して、
仙台教会と仙台神学校がここへ移転してきました。


 良が通っていた小学校の隣接地です。



 子ども向けの日曜学校に、
良は誘われるままに参加をして、賛美歌を歌い、
そこで東京の明治女学校の生徒・齋藤冬らが英語で話すことに大変な刺激を受けました。
帰省のたびに教会に出席する先輩、なかでも久保春代(青柳有美夫人)の、
明治女学校の様子や『女学雑誌』のことや、校長の巖本善治と夫人の若松賤子のことを聞くにつれ
良の中で、東京への憧れと諦めが錯綜をします。


 この頃に良は、
仙台で日曜学校を開いていた神学生・島貫兵太夫と出会います。
父を早く失った良にとって、島貫は「深い精神的親身の兄」となりました。
こうした中で、良は若干12歳にして洗礼を受けます。
この当時、島貫兵太夫はすでに良の非凡な才能を認めており、「アンビシャスガール」と敬意をこめて呼んでいた、
と記録に残されています。



 12歳で尋常小学校を卒業した良を、星家では、高等科に進ませる経済的なゆとりがなかったようです。
家家の由緒ある家具や骨董品はもとより衣類、庭の樹々や果実に至るまでが
売りに出され、良自身も質屋通いをする家庭事情がありました。
質屋通いをした質屋のひとつに、土井質店があります。
そこの息子の林吉が、のちの土井晩翠その人でした。



 ともあれ良にとっては、好まない道ではあったようですが、
せいぜい実用的な目的ということあり、裁縫学校へ通わされることになりました。

 長兄の彦太夫は、医師を志して上京したまま帰仙しません。
次兄の時二郎は東京の電信修技学校に通っていましたが、明治17年10月にチブスで死亡をしました。


 三兄の圭三郎は、燃えるような青雲の志を押さえて13歳の年から、
宮城県庁の給仕に甘んじていることを思えばやむ得ないという家庭事情もあったようでした。
圭三郎は自由民権思想に熱中し、良に景山英子のような女闘志になるように励まし、
政治小説『花間鶯』や『雪中梅』などを貸してくれました。




 しかし、よほど思い込んでいたのか、
両親は勉強をしたがる良の姿に可愛そうだという慈悲から、
自宅から通える宮城女学校ならばと、その入学を許可してくれました。
明治24年(1891)のことです。

 良は、宮城女学校に入学したものの、いわゆる「ストライキ事件」を機として退学をします。
黒光は、この退学に至る過程を「宮城女学校最初のストライキ」として『宮城女学校五十周年史』や、
自叙伝的作品『黙移』でも掲載しています。




 宮城女学校を退学したあと、横浜のフェリス和英女学校に入学をしました。
がすぐに、明治28年(1895)巌本善治が運営していた明治女学校に転校をします。
明治女学校在学中には島崎藤村の授業も受けていたようです。
また従妹の佐々城信子を通じて国木田独歩とも交わり、このころから、本格的に文学への
視野を広げるようにもなりました。
「黒光」の号は、横溢する才気を黒で包むようにという巌本善治の命名とも言われています。


 卒業後まもなくして20歳で相馬愛蔵と結婚をし、愛蔵の郷里・長野の安曇野に住むことになりました。
しかし、山村の旧家の風に合わず、4年後の明治34年(1901)12月に長男を連れて夫とともに上京をして、東京本郷に
小さなパン屋・中村屋を開業することになります。



 「此処から先のお話は、
 【中村屋サロン】と呼ばれ、沢山の芸術家たちが
 相馬家に出入りしたことなどでよく知られています。
 またその中の一人に、新進の彫刻家、萩原碌山もいました。
 でも、この二人は
 このサロンで再会する前に
 ここ安曇野で、最初の出会いを果たしています。
 絵になる、素敵な出会いの光景です。
 黒光の自伝の中でも、私が一番好きな情景ののひとつです。
 次は、そこからのお話をしましょう・・・」




 おばあちゃんが、もう一本のワインを持ってきました。
茜の目元が赤いのは、ワインに酔ったせいでしょうか、それとも、
まだ、涙が乾ききっていないためでしょうか・・・
それは誰にもわかりません。
おばあちゃんの話は、朝まで続きそうな気配があり、一方
「ちょっと軽く」と呑みに出た男二人も、一向に帰ってくる様子がありません。





(25)へつづく





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