落合順平 作品集

現代小説の部屋。

『ひいらぎの宿』 (8)

2013-11-29 10:53:28 | 現代小説
『ひいらぎの宿』 (8)第1章 2人の旅籠が出来るまで
・山里の暮らしと、山村暮らし 



 
 「田舎暮らしや山里の暮らしを望むのではなく、あえて山村に住むというのかい、君は」

 あきれ果てたように、俊彦が目を丸くしています。
もう、終の棲家としての物件は既に見つけてありますと、清子はいたって涼しい顔をしています。
さらに地番を告げられた瞬間、さすがの俊彦も絶句をしてしまいます。


 日本の国土は大小様々な島から成りたっており、6、852の島で構成されています。
隔離された島国であるとともに、国土の約73%あまりを広大な山地が占めています。
多くの河川はその流路延長に比べ、川床の勾配がきわめて急を保っているため、大陸を流れる河川などとは
大きく異なり一気に海まで流れ下るという、独特の特徴を持っています。
年間を通じての降水量も多く、初夏の梅雨と秋の台風が南北に細長い国土に大量の雨を降らせます。
水の侵食力が強い山地では深いV字の谷を形成し、盆地や平野などの山地からの出口付近に、
広大で豊穣な扇状台地を形成します。


 清子の言う山村とは、平野にある村に対して対義語です。
山間地に点々と形成されていく、きわめて小さな村落や集落のことを指しています。
生活に関しては、地形や自然などから常に大きな制約を受けます。
もともとの生活様式が、森林にある資材を生かした木材の生産や製炭、木工、狩猟などが中心です。
山腹の斜面などを利用した農耕にも多くの制約があり、自給自足にも事を欠きます。


 人が住む農村部と、手つかずの大自然や山岳地帯の境界線に位置しているのが『里山』です。
里山とは、継続的に人間の手が加えられてきた人工の森林のことを指しています。
平坦部が終わり山々の姿が迫ってきても、そこから一気に急峻な山容に変わるわけではありません。
緩やかな傾斜地帯は人の手により開墾がなされ、多くの部分が農地などに変わります。
森林地帯も間引かれて、良質な木材を生産するための林業の一帯に変貌を遂げます。
ここまでが人と自然が共生できる限界点です。これ以上にさらに奥まった部分で点在をしている
集落のことを、麓一帯の利便性から区別する意味あいも含めて、あえて山村と呼んでいます。



 江戸時代に発見され、400年以上の歴史を営んできた足尾銅山の山塊から、
きわめて急峻に谷間をかけ下っていく、渡良瀬川の急流が生まれます。
狭い谷底を急激な流れを保ったまま、扇状台地が出現してくる山麓部までの約50キロ余りを、
ひと時も緩むことなく、ひたすら一気にかけ下っていきます。
そのちょうど中間部に、清子が生まれて育った草木村を呑み込んだ『草木ダム』が存在します。


 清子が告げた『終の棲家』の地名は、まさにこの巨大なダム湖を見下ろせる高所にあります。
ダムへ流れ込んでくる小さな支流のその先に、峠を越えて栃木県へとつながる小さな道があり、
その両脇に、ひっそりとして数軒だけが佇む集落があります。



 「よりによって。・・・・君も、凄いところを選んだね」


 「きっと、そう言われるだろうと覚悟を決めておりました。
 嫌なら別にかまいません。すでに決めたことですから、私一人で住みます」



 拗ねた清子が、布団の中でくるりと背中を向けてしまいます。
常夜灯だけを残した室内に、雪が照り返す明るさだけが障子を通してほのかに差し込んできます。
いつのまにか降りやんでいた雪を、真冬の月が照らしはじめたような気配が漂っています。

 「起きちゃおうかしら・・・・」



 浴衣の襟を掻き合わせた清子が、足からそっと布団から滑り出ます。
ほつれた髪を後ろ手に抑えてから、丹前を引き寄せ、そのまま肩へふわりと羽織ります。
障子に手をかけるとするりと半分ほど開け、ためらいの様子も見せずに、外気からの寒気にさらされて、
凍てついているはずのテラスの床を、素足のままで歩き始めてしまいます。


 「無茶をするねぇ。君も」

 起きだした俊彦も、布団の上で座り直します。
丹前を羽織りつつ、薄明かりの中で、清子が投げ捨てたはずの足袋の行方を探しています。
昨夜、眠りにつく前の清子が『今日は湯たんぽがあるのでいりません』とばかりに、
いきなり両方を脱いだあと、酔いにまかせて乱暴に、隣の部屋まで投げ込んでいたのを
苦笑いの中に思い出しています。


 「風邪ひくよ。そんなところで足を冷やしたら」

 「なら。履かせてよ。持ってきて頂戴」



 一つ目は、隣室の床の間まで飛んでいます。
もうひとつの足袋が見当たらないので、『仕方がないな』と立ち上がって部屋の照明を点けます。

 「清子。もう片方が見当たらないぜ。どこへ隠した?」


 「火照り過ぎていましたので、冷やしたのかもしれません。
 酔いが回りすぎていましたので、昨夜のことは、まったく覚えておりません」

 「冷やしただって?・・・・」


 『まさかなぁ・・・・』と、冷蔵庫を開けた俊彦が
冷えて凍る寸前のような足袋の片方を、渋い顔をして取り出します。
『有ったぜ。どうするんだょ。大事な商売道具じゃないか、芸者のお前さんの・・・・』
と言いかけたところで、俊彦が次に続くべき言葉を飲み込んでしまいます。
(そうだ。清子のやつ、俺のために30周年で芸者を勇退すると決めたんだ。)



 足袋を拾い集めた俊彦が、呆れた顔で窓辺に戻ってきます。
窓側の広縁には、ソファーセットとともにくつろぎ用のマッサージチェアが設置されています。
そこへ横たわったままの清子が『どうぞ』とばかりに、片足を妖艶に持ち上げて見せます。


 「あれ。ここの広縁は、床暖房か。
 どうりで君が、素足のまま平気で平然と歩き始めるわけだ。
 人が悪いなぁ。知っているなら最初から、そう言ってくれよ、君も」


 「ここへ泊まるのが3度目だというのに、いまだに気づいていないのはあなただけです。
 いつも気持ちよさそうに、朝までぐっすりと眠るんだもの。
 ここが床暖房だなんて、知る由もないでしょう」

 「そうだったのか。ということは、君はいつもここから、俺を見ていたわけかい?」

 「そうよ。慎み深い女は、男性に朝の寝顔と素顔は見せません。
 今までもそうしてきましたし、この先も、たぶんそれに変わりはありません。うふふ」






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