落合順平 作品集

現代小説の部屋。

連載小説「六連星(むつらぼし)」第75話

2013-05-24 05:59:30 | 現代小説
連載小説「六連星(むつらぼし)」第75話
「福島原発の、56(ごろく)ER」




 苦みの強い無糖のコーヒーを、ようやく呑み終えた杉原医師が、
缶コーヒーを握りしめたまま、不満をあらわにして鋭くこちらを見つめている
響の正面の席に、どっかりと腰をおろしました。


 「君はきわめて、正義感の強いお嬢さんだ。
 君に限らず医療の世界にも、正義感の強い人たちは沢山いる。
 秘密裏に葬り去ろうとしている連中が多い中、こうした原発病の治療にために
 すでに立ちあがっている人たちも、また多数いる。
 原発労働者たちの医療活動に、先進的に取り組んできた人たちによって、
 これまでにも、いくつかの貴重な研究例などが残されてきた。
 だがそのための研究費用や治療費などを、国は一切認めようとしていない。
 当たり前だ。
 この世に存在しないはずの原発の病気を公にしょうというのだから、
 原発を容認する政府側にしてみれば、迷惑この上もない話だ。
 国が認めず、電力会社や原発がいくら事実のもみ消しを図ろうとも、
 現実に多くの原発労働者がたちが被曝によって健康を損ない、
 命を落としていることはまぎれもない事実だ。
 ある大学教授は、こうした事態を想定をしながら、
 長い時間をかけて、いくつものデータ―集め、
 病気の治療のために日本全国を奔走をしている。
 だがこうした活動は、あくまでもごく一部の話だ。
 日本にある原発は自らを維持するために、都合の悪いことには常に蓋をして
 ひたすら安全性だけを、高らかに堅持する必要が有る。
 ゆえに、原発労働者の中でも最下位に置かれている、日雇いの労働者たちは
 ボロ雑巾のように、常に使い捨てにされていく運命となる・・・・
 それもまた、原発の50年にわたる歴史のひとつだ」


 響が、小さな吐息をもらします。



 「君は、優しい子だ。
 だが、福島第一原発の事故は、君たちの世代へ、
 きわめて困難な課題と、未解明だらけの事故対策という途方もない宿題を
 日本の未来に、残してしまった」



 ポケットを探り新たに禁煙パイプを取り出した杉原が、響きの目を見つめたまま
さらに言葉を続けます。



 「だが、皮肉なことにその福島第一原発が、
 今度は、洩れた放射能と闘うための、歴史の証人になりはじめてた。。
 あれから一年が経ったとはいえ、今なお不安定な状態が続いている福島第1原発の
 1~4号機の直近に、急ごしらえの救急医療室(ER)が、設置された。
 『5、6号サービス建屋1階救急医療室』という名称で呼ばれていて、
 通称は、『56(ごろく)ER』だ。
 原子力災害の最前線で働く作業員の安全を24時間いつでも、
 支えるためにつくられた、専門の医療施設だ。
 2011年の7月に設置をされてから、今年の2月までの244日間中の、
 63日を、福井県からの派遣医師団たちが担当をした。
 原発の先進地、福井から派遣された、被ばくの専門医たちのグループだ」



 福井県は、日本で初めて作られた美浜原子力発電所をはじめ、
高速増殖炉の「もんじゅ」などを含め、全部で14基の原子炉を所持しています。
最先端の原子力の研究や、人材育成ためののポテンシャルをもち、
集積した原子力の先進地として常にその先頭の役割を担ってきました。


 福島第一原発につくられた『56ER』は、皮肉にも被ばくの医療が
原発労働者たちにとって、緊急に差し迫ったものであり、かつ必要不可欠のものとして
公然と、原発内に登場したことを意味します。
医療室と処置室を合わせて、84平方メートルの部屋があり、
簡易ベッドが並んだこの医療施設は原発が持つ『核』の危険性を、
初めて白日のもとにさらすという、きっかけになりました。
さらには、原発労働者たちの深刻な被ばくの実態までも、世間に
知らしめる契機になりました。


 『56ER』の窓のすき間は、すべてテープで目張りをされています。
換気は、専用機器で放射性物質を除去しながら行なわれています。
男性医師、看護士、放射線技師の3人1組で、24~72時間を常駐をして
けがや急病で運ばれた作業員に、基本的な治療をおこなっています。
重症者が発生すれば、救命措置や搬送の任なども負っています。
このERへは、福井県から7人の医師が交代で現地入りを果たし続けています。
『それでも・・・』と杉原医師は言葉を続けます。



 「原発内では、直接の被ばくもあるが、
 怪我や切り傷からも、放射性物質は体内に侵入をしてしまいます。
 例えば電動工具での深い切り傷なども、それにあたります。
 通常のように、単純に縫合処置などはできません。
 まず、傷口から放射性物質が体内に入っていないかの確認が必要となるからです。
 事故はまた、常に突発的に発生します。
 爆発の危険や、外部に放出される放射性物質の量が減っても、
 構内での作業は全く安全では有りません。
 危険きわまりのない、こうした最前線での医療活動では、
 なんらかの際の高度被ばくのリスクは、常に消えないのです。
 しかし、それでも彼らは、今日も放射能と闘っています」


 東京電力の発表によれば、56ERの受診者は
昨年7月の設置以降、今年2月までの8カ月で140人が運ばれました。
夏場には熱中症などが多かったものの、救急搬送された人は25人にのぼります。
しかし56ERの救急医は、重篤なけが人や病人があっても動じません。
目に見えない放射線でも、『線量計で危険を判断すればいい』と言い切ります。


 しかしそれでも、不安が無いとはまったく言い切れないようです・・・・
世界最悪となってしまった福島の、原子力災害の現場では
「かつてない“敵”との闘いによって、常に極度の緊張を強いられているし、
とんでもない強さの放射線が、いつ何どき飛んでくるかもしれないという不安は、
常に、我々の心のどこかに潜んでいる・・・・」と、その本音を語っています。

 さらに、今後に始まってくる使用済みの燃料や
溶融してしまっている原子炉の、燃料の取り出し作業の工程などを見据えると、
「廃炉作業が進むほど、線量の高い場所での作業が増えてくる」と見通しています。
緊急被ばく医療の体制などを、さらに整えておく必要性も強調しています。


 福島県からの医師が多く、56ERに入っている理由をについて
福島第1原発救急医療ネットワーク代表で、
広島大病院高度救命救急センター長の谷川攻一教授は
「福井県では救急医療と被ばく医療、双方に通じた医師が多く育成されてきた」
と説明をしています。

 国が指定する3次被ばく医療機関である同大病院から見ても、福井県の医学教育は
「被ばく医療教育が、きわめて充実している」と映っているようです。
福井県から派遣されている医師は皆、福井大医学部の専門研修や県費の派遣で
米国の「リアクツ」(REACTS=放射線緊急時支援センター研修施設)に留学した
経験などを、それぞれに持っています。



 「福島第一原発の事故は、今まで救済をされてこなかった原発労働者たちの
 被ばく問題について、初めて日の光を当てることになった。
 原発労働者たちの全体が助かったと言う意味では無いが、
 一部とはいえ、これらが明らかになったと言う意義は、極めて大きい。
 だが医療的に見て、現状ですべての人たちの命が救えると言う訳では決して無い。
 山本氏の場合は、良く持って3か月・・・・かもしれない。
 だが、最後に君に是非、お願いしたいことが有る。
 ひとつだけ君へお願がある。聞いてくれるかい?」


 「私でお役に立てるなら、なんなりと」


 「おっ。さすがに清ちゃんの一人娘だ。きっぷが良い。
 そう言ってくれると、俺もお願い事が言いやすい。
 患者にとって、クスリや治療よりも、看護婦たちの可愛い笑顔や
 生き生きとした表情の方が、患者にとってはるかに生きる気力になるようだ。
 君のように美しい女性が、和服を着て和やかな笑顔などを見せてくれると
 患者は、予想を遥かに超えて、長生きをするかもしれない。
 あまりにも非科学的な言い方で申しわけないが、
 元気や笑顔は、人の気持ちを、なによりも癒してくれるようだ。
 薬よりも、一つの笑顔の方が、はるかに患者には効く場合もある」


 「常に、笑顔で看病しろと言うことですね。
 それならば、私にも出来そうです。
 心に命じて、喜んで勤めてまいりたいと思います」



 「やっぱり君は、お母さんに良く似ていて、
 見かけも心も、折り紙つきの大和撫子(やまとなでしこ)だ。
 頼んだぜ。ナイチンゲール君」



 じゃあ、そろそろ俺も煙草を吸う時間だ。と言って杉原医師が立ちあがります。
立ちあがり見送ろうとする響を、いいからとその手で制します。
それよりも折角のコーヒーが、長い話で冷めたしまったようで申しわけなかったと、
細い目を、さらに細くして杉原が笑います。



 「それでは私が、私の分と先生にもう一本、
 苦いコーヒーなどをご馳走いたしますが、いかがですか」



 と、響がにこやかに声を返します。


 「ありがたい。だが、せっかくだがそれは明日にとっておこう。
 明日もまた、美人に会えるとあらば、俺にも生きる張り合いが出てくるというものだ。
 じゃ、苦いコーヒーは、また明日のその時に」


 杉原医師が即座に応え、笑い声を残しながらいつものように、
廊下の彼方へ消えていきます。




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