アイラブ桐生Ⅲ・「舞台裏の仲間たち」(42)
第二幕・第二章 「桐生にある、3つの遊戯機メーカーの話」
用途が失われて廃屋となりかけたのこぎり屋根工場の、
未来を救ったきっかけのひとつに、市内に3つある遊戯機(パチンコ)メ―カによる
プラスチック製品の生産がありました。
1951年に、ソフィアが「西陣」というブランド名で
桐生の市内でパチンコ台の製造を開始しました。
これに先立つ1949年には、のちにパチンコのトップメーカーとして君臨をした平和工業が、
平和商会として、メダル式パチンコ器械の製造と販売を開始していました。
さらに、東京都渋谷区に本社を置く株式会社三共(さんきょう、SANKYO)が、1981年4月に名古屋から桐生市へと
移転をしてきました。
やがて全盛期をむかえると、この平和・三共・西陣の三社で
全国のパチンコ台市場の80%以上を独占をするまでに急成長を遂げました。
衰退期にはいり絹織物で低迷していた桐生に発生した「パチンコ特需」は、あたらしい製造業の発生を促進しました。
それが、プラスチックの成型工場の誕生と、それらの部品を組み立てるための屋内手工業の発生でした。
これといった大きな工場や地場産業をもたない桐生にとって、このパチンコメーカーの台頭が
復興へのひとつの救世主となります。
かつての織物工場は次々と、プラスチック部品を製造するために
プラスチックの成型工場へと様変わりを遂げて行きました。
遊技台(パチンコ台)は、
ベニヤの板に真鍮(しんちゅう)のクギを打ちつけて、
装飾と部品のほとんどは、この時代に急激に伸びてきた新しい素材のプラスチック製品でまかなわれています。
合成繊維や合成樹脂と呼ばれたプラスチックの台頭は、1960年代の半ばからのことでした。
70年代から80年代にかけて、従来の金属や木製の部品を駆逐してそのほとんどすべてで
プラスチックで代用されるという樹脂全盛の時代もやってきました。
そしてこれらのプラスチックの大量生産を可能にしたものが、
射出成型機に取り付けられる「金型」でした。
■金型とは、製造業での製品の外観の優劣や品質・性能あるいは
生産性などを左右する重要な要素であるため、
その製作に当たっては時間と費用が掛けられ、完成した金型は
容易に交換出来ない重要な資産として扱われます。
自社で製作する場合と、専門の会社に製作を依頼することもある。
金型には設計情報を転写する機能があり、精密部品などの金型については、
マイクロメートル単位の正確さが求められる。
ドイツなどでは「金型は生産工学の王」であるとも表現されています。
順平が、同じ金型の仕事をしている新入劇団員の雄二と
初めて行き会ったのはそれから間もなくのことでした。
市内を少し外れた処に工場を構えている、新進の金型工場を訪ねた時のことでした。
工場と言っても此処で働いているのは、社長を含めてわずかに4人です。
この時代、機械加工技術の最先端を走る金型業界でしたが
そうした先進的な役割とは裏腹に、工場の規模は5人前後というまことに零細な町工場がほとんどでした。
熟練した加工技術と、最新式で高価な加工機械の導入を必要とするために、
小さな地方都市の桐生周辺では、大規模の金型工場は育ちません。
それはまた、パチンコ業界のプラスチック製品のみに限定をされていたという
桐生独特の市場背景にも起因をしていました。
それでも、パチンコ関係を主な取引先としつつ弱電家電メーカーや自動車部品などとも取引を始めた金型工場が
市内を中心にすでに10社が立ち上がり、それぞれにしのぎを削り始めていました。
80年代にはいると、
こうしてプラスチック製品の全盛の時代がやってきます。
資源確保のための最大戦略とされた国家的プロジェクトのひとつ、
大規模な石油コンビナートの建設も、各地で大成功をおさめました。
こうした背景のもと、無限の可能性を秘めた資源として石油が大変に注目をされ、やがてここから
石油製品全盛の時代が始まりました。
訪ねた先の工場には、この時代の最先端をいく精密な加工機械が所狭しと並んでいました。
その隙間を縫ってさらに奥へ進むと、これまた導入されたばかりのMC(マシニングセンター)が設置されています。
そのオペレーター役が、新入団員の雄二でした。
座長から既に話は聞いていたのか、初対面の挨拶もそこそこに
雄二はうちとけた笑顔をみせて対応をしてくれました。
「機械オペ―レ―ターの仕事を初めて
7年余りになりましたが、こいつ、MC(マシニング・センター)の
プログラム作りは、実はやっかいです。
簡単には、言うことをきいてくれません・・・・
毎日、悪戦苦闘中で、取扱説明書と首っ引きの毎日です」
そう言って白い歯を見せて笑いました。
「しかし、2なんといっても
2千万円以上もする最新鋭の機械です。
社長の手前、なんとしても、
1日も早く稼働をさせて、戦力に仕上げなければなりません。
なにしろ、プログラムさえきちんと組めれば、
一度に20本の刃物を装着して、
停まることなく、一連の加工を成し遂げてしまうのですから、
ある意味、機械加工の革命児ですよ、
こいつときたら」
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
第二幕・第二章 「桐生にある、3つの遊戯機メーカーの話」
用途が失われて廃屋となりかけたのこぎり屋根工場の、
未来を救ったきっかけのひとつに、市内に3つある遊戯機(パチンコ)メ―カによる
プラスチック製品の生産がありました。
1951年に、ソフィアが「西陣」というブランド名で
桐生の市内でパチンコ台の製造を開始しました。
これに先立つ1949年には、のちにパチンコのトップメーカーとして君臨をした平和工業が、
平和商会として、メダル式パチンコ器械の製造と販売を開始していました。
さらに、東京都渋谷区に本社を置く株式会社三共(さんきょう、SANKYO)が、1981年4月に名古屋から桐生市へと
移転をしてきました。
やがて全盛期をむかえると、この平和・三共・西陣の三社で
全国のパチンコ台市場の80%以上を独占をするまでに急成長を遂げました。
衰退期にはいり絹織物で低迷していた桐生に発生した「パチンコ特需」は、あたらしい製造業の発生を促進しました。
それが、プラスチックの成型工場の誕生と、それらの部品を組み立てるための屋内手工業の発生でした。
これといった大きな工場や地場産業をもたない桐生にとって、このパチンコメーカーの台頭が
復興へのひとつの救世主となります。
かつての織物工場は次々と、プラスチック部品を製造するために
プラスチックの成型工場へと様変わりを遂げて行きました。
遊技台(パチンコ台)は、
ベニヤの板に真鍮(しんちゅう)のクギを打ちつけて、
装飾と部品のほとんどは、この時代に急激に伸びてきた新しい素材のプラスチック製品でまかなわれています。
合成繊維や合成樹脂と呼ばれたプラスチックの台頭は、1960年代の半ばからのことでした。
70年代から80年代にかけて、従来の金属や木製の部品を駆逐してそのほとんどすべてで
プラスチックで代用されるという樹脂全盛の時代もやってきました。
そしてこれらのプラスチックの大量生産を可能にしたものが、
射出成型機に取り付けられる「金型」でした。
■金型とは、製造業での製品の外観の優劣や品質・性能あるいは
生産性などを左右する重要な要素であるため、
その製作に当たっては時間と費用が掛けられ、完成した金型は
容易に交換出来ない重要な資産として扱われます。
自社で製作する場合と、専門の会社に製作を依頼することもある。
金型には設計情報を転写する機能があり、精密部品などの金型については、
マイクロメートル単位の正確さが求められる。
ドイツなどでは「金型は生産工学の王」であるとも表現されています。
順平が、同じ金型の仕事をしている新入劇団員の雄二と
初めて行き会ったのはそれから間もなくのことでした。
市内を少し外れた処に工場を構えている、新進の金型工場を訪ねた時のことでした。
工場と言っても此処で働いているのは、社長を含めてわずかに4人です。
この時代、機械加工技術の最先端を走る金型業界でしたが
そうした先進的な役割とは裏腹に、工場の規模は5人前後というまことに零細な町工場がほとんどでした。
熟練した加工技術と、最新式で高価な加工機械の導入を必要とするために、
小さな地方都市の桐生周辺では、大規模の金型工場は育ちません。
それはまた、パチンコ業界のプラスチック製品のみに限定をされていたという
桐生独特の市場背景にも起因をしていました。
それでも、パチンコ関係を主な取引先としつつ弱電家電メーカーや自動車部品などとも取引を始めた金型工場が
市内を中心にすでに10社が立ち上がり、それぞれにしのぎを削り始めていました。
80年代にはいると、
こうしてプラスチック製品の全盛の時代がやってきます。
資源確保のための最大戦略とされた国家的プロジェクトのひとつ、
大規模な石油コンビナートの建設も、各地で大成功をおさめました。
こうした背景のもと、無限の可能性を秘めた資源として石油が大変に注目をされ、やがてここから
石油製品全盛の時代が始まりました。
訪ねた先の工場には、この時代の最先端をいく精密な加工機械が所狭しと並んでいました。
その隙間を縫ってさらに奥へ進むと、これまた導入されたばかりのMC(マシニングセンター)が設置されています。
そのオペレーター役が、新入団員の雄二でした。
座長から既に話は聞いていたのか、初対面の挨拶もそこそこに
雄二はうちとけた笑顔をみせて対応をしてくれました。
「機械オペ―レ―ターの仕事を初めて
7年余りになりましたが、こいつ、MC(マシニング・センター)の
プログラム作りは、実はやっかいです。
簡単には、言うことをきいてくれません・・・・
毎日、悪戦苦闘中で、取扱説明書と首っ引きの毎日です」
そう言って白い歯を見せて笑いました。
「しかし、2なんといっても
2千万円以上もする最新鋭の機械です。
社長の手前、なんとしても、
1日も早く稼働をさせて、戦力に仕上げなければなりません。
なにしろ、プログラムさえきちんと組めれば、
一度に20本の刃物を装着して、
停まることなく、一連の加工を成し遂げてしまうのですから、
ある意味、機械加工の革命児ですよ、
こいつときたら」
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
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