舞うが如く 最終章
(7)タケとボイラー職人
詩織が2歳になった頃に
帳簿方として入社したタケが公然とボイラー室へ出入りを始めました。
ここで働く勇蔵と言う若者と、親しくなったためです。
工女たちの出入りは厳禁とされていましたが、
事務方や賄いの女性たちは、唯一その例外を認められています。
頻繁に出入りするタケの噂が、工場内の工女たちから羨望と注目を集めました。
勇蔵は、ボイラーの製造職人です。
各地の製糸工場に呼ばれて、器械を改造したり、効率化のための技術改良に取り込むという、
いわゆる技術職人の一人でした。
年齢はまだ30歳そこそこですが、かつては蒸気船に乗っていたという変わった経歴を持ち、
器用に蒸気用のパイプなどもつくり、修理もこなせることから、
どこへいっても、たいへんに重宝がられました。
時節に乗って、次々と建設がすすむ製糸工場では
蒸気機関にかかわる職人と技術者が、慢性的に不足をしていました。
特に、お湯を使って繭を煮ていた昔から、蒸気によって繭を蒸すようにと、
その技術が変わってからは、釜炊きの職人や修理工たちが大勢必要とされました。
このころに、鉄製の釜が導入されていたのは、官営主導による、富岡の製糸場だけです。
各地でつくられた蒸気機関のかまどは、
主に煉瓦や陶器などで作られていて燃料は木材か石炭を使い、高圧の蒸気を発生させました。
この蒸気を使って繭の処理をはじめ、それぞれの器械を稼働させるのです。
とはいえ、当時の未成熟な技術と設備は、ボイラーを原因とする事故なども、
度々発生をさせていました。
さらに、かまどや煙突に溜まる煤の排除のために、その都度ボイラーが停められました。
そのたびに工場は小休止となり、工女たちは復旧するまで手待ち状態になりました。
不具合が発生するたびに、ボイラー室へ使いに出されていたのが、タケです。
修理を一手に引き受けていた勇蔵とは、
いつしか顔なじみとなり、(一人身で全国を渡り歩くこの男と)親しくなってしまいました。
詩織を育てている身とはいえ、タケもまだ24歳の若さです。
色白で聡明な雰囲気と、妖艶な容姿を併せ持つタケの風貌は、
年若い娘たちが打ち揃う工場の中でも、見劣りがしないほど際だっていました。
落ち着いたその柔らかい物腰が、むしろ成熟した女の性を醸し出しています。
勇蔵がその気になり、この二人が男女の仲になるまでに、
それほどの時間はかかりません。
しかし、さすがに大人同士の交際です。
人目を忍んでの逢瀬を繰り返してきましたが、それでも二人の関係は、
いつしかいまや公然の秘密と変わってきました。
ここ最近のことです。
ふさぎこんでいる咲の様子を心配して、タケが、渓谷に近い高台へ咲を呼び出しました。
くるりと振り向いたタケが、咲の瞳を真正面から見つめます。
「その目は、間違いなく恋煩いそのものだねねぇ~、咲。
相手を言ってごらん、
あの馬引きの、根利(ねり)の青年かい?。」
咲が図星に、頬を真っ赤に染めます。
「やっぱりね。
で、どうするんだい、この先は。
見ているだけなら、何事も変わりゃしませんよ。
わたしなら、後も先も考えずに、さっさと身を投げ出してしまうけど、
あんたには、到底無理な話だわねぇ。
しかしぼんやりしてても、時間が無駄になるだけだ。
悩んでいるだけでは、何事も始まりませんよ。」
「・・・タケさまほど、強くはなれませぬ。
胸がつまって、苦しいだけで、
たまに、お顔を見るだけで、もう胸がドキドキとして・・・
居ても立っても、どうにもいられませぬ。」
「惚れると、おなごは、みんなそうなるものなのさ、咲。
仕方がないわねぇ・・・
思い切って、お前の思いのたけを手紙をかいてごらん、
私が届けておいてあげるから。
琴様に、お習字の手ほどきを受けたお蔭で、
最近のお前様は、綺麗な文字などを、たくさん書いている様子です。
それだけの想いがあるのなら、
思い切って、手紙に託してごらん。」
「できませぬ!
そんな、はしたない真似なんぞ。」
「はしたない?
おやおや、この子はほんとに、おぼこだねぇ。
万葉の時代だって、女が歌を詠んで意中の男を誘ったんだよ。
男はもともと女の元に、通ってくるものと、昔から相場が決まっております。
女がその気になって、あの手この手で男を呼ばなけりゃ、
誰一人として近寄ってなんぞ、来るもんか。
気のきいた、恋歌の一つでも読むことだね。
そうすりゃあその後は、
この、私が何とかいたします。」
「そんなぁ・・・
琴様に、きつく叱られてしまいます。
それほどまでの、大それたことなどは・・・
とても私には、無理そのものでありまする。」
「良いですか、咲。
その琴さまから、万事のすべてをお前に任すから、
咲をなんとかしておくれと、しっかりと頼まれました。
・・・いいかい、咲。
待っていて、世の中が変わるのであれば、
誰も苦労などはいたしません。
自ら動いてこそ、時代も変われば世も変わります。
お前様も、もういい加減に、覚悟を決めて、
古い皮などは、きれいさっぱり破り捨てておしまい。
ただし・・・
何事にも適度に限度というものがありまして、
見境がなくなると、私のような、しくじりまでを産むにいたりまする。
まぁ・・・本人が言うのもなんですが、
その悪い見本というものが、
このタケのような、生き方です。」
最終章(8)へ、つづく
連載中の新作は、こちらから、どうぞ
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (31)たまと清子の悪だくみ
http://novelist.jp/62370_p1.html
(1)は、こちらからどうぞ
http://novelist.jp/61553_p1.html
(7)タケとボイラー職人
詩織が2歳になった頃に
帳簿方として入社したタケが公然とボイラー室へ出入りを始めました。
ここで働く勇蔵と言う若者と、親しくなったためです。
工女たちの出入りは厳禁とされていましたが、
事務方や賄いの女性たちは、唯一その例外を認められています。
頻繁に出入りするタケの噂が、工場内の工女たちから羨望と注目を集めました。
勇蔵は、ボイラーの製造職人です。
各地の製糸工場に呼ばれて、器械を改造したり、効率化のための技術改良に取り込むという、
いわゆる技術職人の一人でした。
年齢はまだ30歳そこそこですが、かつては蒸気船に乗っていたという変わった経歴を持ち、
器用に蒸気用のパイプなどもつくり、修理もこなせることから、
どこへいっても、たいへんに重宝がられました。
時節に乗って、次々と建設がすすむ製糸工場では
蒸気機関にかかわる職人と技術者が、慢性的に不足をしていました。
特に、お湯を使って繭を煮ていた昔から、蒸気によって繭を蒸すようにと、
その技術が変わってからは、釜炊きの職人や修理工たちが大勢必要とされました。
このころに、鉄製の釜が導入されていたのは、官営主導による、富岡の製糸場だけです。
各地でつくられた蒸気機関のかまどは、
主に煉瓦や陶器などで作られていて燃料は木材か石炭を使い、高圧の蒸気を発生させました。
この蒸気を使って繭の処理をはじめ、それぞれの器械を稼働させるのです。
とはいえ、当時の未成熟な技術と設備は、ボイラーを原因とする事故なども、
度々発生をさせていました。
さらに、かまどや煙突に溜まる煤の排除のために、その都度ボイラーが停められました。
そのたびに工場は小休止となり、工女たちは復旧するまで手待ち状態になりました。
不具合が発生するたびに、ボイラー室へ使いに出されていたのが、タケです。
修理を一手に引き受けていた勇蔵とは、
いつしか顔なじみとなり、(一人身で全国を渡り歩くこの男と)親しくなってしまいました。
詩織を育てている身とはいえ、タケもまだ24歳の若さです。
色白で聡明な雰囲気と、妖艶な容姿を併せ持つタケの風貌は、
年若い娘たちが打ち揃う工場の中でも、見劣りがしないほど際だっていました。
落ち着いたその柔らかい物腰が、むしろ成熟した女の性を醸し出しています。
勇蔵がその気になり、この二人が男女の仲になるまでに、
それほどの時間はかかりません。
しかし、さすがに大人同士の交際です。
人目を忍んでの逢瀬を繰り返してきましたが、それでも二人の関係は、
いつしかいまや公然の秘密と変わってきました。
ここ最近のことです。
ふさぎこんでいる咲の様子を心配して、タケが、渓谷に近い高台へ咲を呼び出しました。
くるりと振り向いたタケが、咲の瞳を真正面から見つめます。
「その目は、間違いなく恋煩いそのものだねねぇ~、咲。
相手を言ってごらん、
あの馬引きの、根利(ねり)の青年かい?。」
咲が図星に、頬を真っ赤に染めます。
「やっぱりね。
で、どうするんだい、この先は。
見ているだけなら、何事も変わりゃしませんよ。
わたしなら、後も先も考えずに、さっさと身を投げ出してしまうけど、
あんたには、到底無理な話だわねぇ。
しかしぼんやりしてても、時間が無駄になるだけだ。
悩んでいるだけでは、何事も始まりませんよ。」
「・・・タケさまほど、強くはなれませぬ。
胸がつまって、苦しいだけで、
たまに、お顔を見るだけで、もう胸がドキドキとして・・・
居ても立っても、どうにもいられませぬ。」
「惚れると、おなごは、みんなそうなるものなのさ、咲。
仕方がないわねぇ・・・
思い切って、お前の思いのたけを手紙をかいてごらん、
私が届けておいてあげるから。
琴様に、お習字の手ほどきを受けたお蔭で、
最近のお前様は、綺麗な文字などを、たくさん書いている様子です。
それだけの想いがあるのなら、
思い切って、手紙に託してごらん。」
「できませぬ!
そんな、はしたない真似なんぞ。」
「はしたない?
おやおや、この子はほんとに、おぼこだねぇ。
万葉の時代だって、女が歌を詠んで意中の男を誘ったんだよ。
男はもともと女の元に、通ってくるものと、昔から相場が決まっております。
女がその気になって、あの手この手で男を呼ばなけりゃ、
誰一人として近寄ってなんぞ、来るもんか。
気のきいた、恋歌の一つでも読むことだね。
そうすりゃあその後は、
この、私が何とかいたします。」
「そんなぁ・・・
琴様に、きつく叱られてしまいます。
それほどまでの、大それたことなどは・・・
とても私には、無理そのものでありまする。」
「良いですか、咲。
その琴さまから、万事のすべてをお前に任すから、
咲をなんとかしておくれと、しっかりと頼まれました。
・・・いいかい、咲。
待っていて、世の中が変わるのであれば、
誰も苦労などはいたしません。
自ら動いてこそ、時代も変われば世も変わります。
お前様も、もういい加減に、覚悟を決めて、
古い皮などは、きれいさっぱり破り捨てておしまい。
ただし・・・
何事にも適度に限度というものがありまして、
見境がなくなると、私のような、しくじりまでを産むにいたりまする。
まぁ・・・本人が言うのもなんですが、
その悪い見本というものが、
このタケのような、生き方です。」
最終章(8)へ、つづく
連載中の新作は、こちらから、どうぞ
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (31)たまと清子の悪だくみ
http://novelist.jp/62370_p1.html
(1)は、こちらからどうぞ
http://novelist.jp/61553_p1.html