舞うが如く 最終章
(3)浅田タケ
「はて・・・」
兄の道場を訪ねたその帰り道の琴が、
すれ違っていく乳飲み子を背負った婦人を見送ってから、ふと、小首をかしげました。
兄の道場では、先ほどまで新しい師範の誕生を祝ってささやかな酒宴が催されていました。
昼間の酒に少し酔い、ほてりも覚えた琴が酔い覚ましもかねて川沿いの道を歩いています。
いつもの街道からは少し外れて、渡良瀬川の渓谷沿いにある小路まで
ふらりと下ってきたときのことです。
このあたりでは、見かけない顔の婦人でした。
整った身なりと言い、その雰囲気と言い、どこかとなく都会を感じさせました。
しかしその足取りの様子は余りにもゆっくりです。
どこかを訪ねていくという気配などは、ほとんど感じさせません。
まさかと思い、琴がなお数歩すすんだ処で立ち止まりました。
振り向くと丸太の橋を渡って、対岸に移ろうとしている先ほどの婦人の姿が見えます。
確信をした琴が、踵(きびす)をかえします。
乳飲み子を背負った婦人は、足元を行く水の流れのあまりもの速さに
気おくれを覚えたまま、じっと立ちつくしていました。
「賢明です。
雨上がりの、この水は、
見た目以上に、はるかに勢いをもっておりまする。
見れば、どこかを訪ねる様子ですが、
この丸太橋の先には、ひとつの人家もありませぬ。」
婦人が、はっと気づいて振りかえります。
まだ若く、20歳そこそこという面立ちでした。
あどけなさが残ったまま、細面の白い顔にひかれた紅(べに)が、
燃えるような真紅です。
「道に迷われたようです。
間もなく、陽の暮れる時刻となるゆえ、
山道は、あっという間に真っ暗になりまする。
わが家に戻る途中なれば、ついてまいるがよい。
見れば・・・背中の赤子も、
お腹を空かせた様子にありまする。」
手招きをした琴が、先に立って道案内をします。
渓谷沿いのこの狭い道を少し下ると、水沼製糸所へつづく坂道のふもとへ出ます。
この坂を登きって小高い丘を反時計回りに辿って行けば工場の長屋門の先に、
琴と咲の住まいが現れます。
「咲、お客様です。
兄のところよりは、お土産もいただきました。
なれど、この手にした重さの様子では、酒の肴ぐらいにしかなりませぬ。
今宵の夕食は、あらためて大人の3人分を用意いたします。
聞いておりますか、咲。
今夜の食事は、大人3人分を作りますよ。」
咲が、驚いて飛んできました。
乳飲み子を背負って突然現れた、若い婦人の様子にさらに仰天をしてしまいます。
「見ての通りです。
この家は、おなごが二人のみで暮らしています。
赤子をおろして、くつろぐと良いでしょう。
遠慮はせずに上がってください、
直に、温かいものなども用意させましょう。」
琴に促されて、婦人が囲炉裏のある座敷へ上がりました。
居ずまいを正しながら、帯を解いて乳飲み子を背中から降ろそうとします。
咲が飛んできて、赤子を両手で素早く受け止めました。
あまりにも手慣れたその様子に、今度は琴が驚きの声をあげます。
「おやまあ、お前様!
ずいぶんと、手慣れた様子です・・・
咲には、赤子の経験が、豊富の様にも見えますね。」
「はい、琴さま。
近所の子供たちを、幼いころよりあやしてまいりました。
下級の武士は、そのほとんどが向こう三軒両隣の、長屋も同然の住まいです。
隣も、そのまた隣も、我が家も同然の暮らしでした。
貧しい者どうしが、肩を寄せ合い
助け合って暮らしてまいりました。
私もそのようにして、面倒を見てもらいつつ、
育てられたようでありまする。」
咲が目を細めて懐かしそうに、この赤子をあやし始めました。
琴も目を細めて、その様子を眺めています。
「申し遅れました。
浅田タケと申します、
旧姓は、内村と申しました。」
「それは・・・
離縁をされた、ということですか。」
「亡き母の実家が、
この界隈と聞いて、訪ねてきてみたのですが、
ただ、途方に暮れるばかりでありました。
あの折りに、
お声をかけられた時には
誠に、内心は、ほっといたしました。」
「なるほど。
それで、得心をいたしました。
そういうことであるなれば、ここでの遠慮はいりませぬ。
咲や、本日より、家人が増えるようになりました。
女が、4人になるとは、何んとも賑やかなことにありまする。
家じゅうが、いっぺんに華やぎまする。」
「・・・そのようには、ございまするが・・」
「さすがに、
お前は察しが良い。
そうと決まれば、話は早い。
早速に、夕餉の支度にとりかかりましょう。」
「では、私めは何を?」
問いかける浅田タケに、琴が笑顔で答えます。
「客人とあらば、
囲炉裏などで、充分におくつろぎください、
というところでありまするが、
家人ともなれば、話しは別です。
咲や。
タケどのには、お風呂の支度などをお願いする故、
湯殿へ案内の上、手順などを説明いたすがよい。」
「承知をいたしました。
なれども、琴様、それでは・・・
我が手に有る、この赤子の面倒などは、
一体、どなたがなさるのでありまするか?」
「それも当然にそなたであろう、咲。
隣も、その隣も家族同然で、
一様に赤子をあやしてきておるゆえ、
赤子の世話は、お前にとっては、大の得意にあろう。
新米母のタケ殿よりも、
お前の方がはるかに熟達した様子でもあると、この琴は見た。
なによりもそなたが、最前より、
自ら、そう申していたであろうに。」
「・・・私は一等工女にて、乳母にはありませぬが。」
「いく末の、
さらなる赤子の稽古にもなろうというものです。
私は、小太刀と薙刀だけは誰にも負けず、大の得意にはありますが、
育児は、ことのほかに不得手そのものにありまする。
そうですね・・・それでは
工場にては、一等工女として自らの仕事に励み、
我が家にては、乳母の役目も担うということにいたしましょう。
咲や、心して修業に励むがよい。」
「そんなぁ~、琴さま!」
最終章(4)へ、つづく
・新作は、こちら
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (27)他愛もない騒動
http://novelist.jp/62273_p1.html
(1)は、こちらからどうぞ
http://novelist.jp/61553_p1.html
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
(3)浅田タケ
「はて・・・」
兄の道場を訪ねたその帰り道の琴が、
すれ違っていく乳飲み子を背負った婦人を見送ってから、ふと、小首をかしげました。
兄の道場では、先ほどまで新しい師範の誕生を祝ってささやかな酒宴が催されていました。
昼間の酒に少し酔い、ほてりも覚えた琴が酔い覚ましもかねて川沿いの道を歩いています。
いつもの街道からは少し外れて、渡良瀬川の渓谷沿いにある小路まで
ふらりと下ってきたときのことです。
このあたりでは、見かけない顔の婦人でした。
整った身なりと言い、その雰囲気と言い、どこかとなく都会を感じさせました。
しかしその足取りの様子は余りにもゆっくりです。
どこかを訪ねていくという気配などは、ほとんど感じさせません。
まさかと思い、琴がなお数歩すすんだ処で立ち止まりました。
振り向くと丸太の橋を渡って、対岸に移ろうとしている先ほどの婦人の姿が見えます。
確信をした琴が、踵(きびす)をかえします。
乳飲み子を背負った婦人は、足元を行く水の流れのあまりもの速さに
気おくれを覚えたまま、じっと立ちつくしていました。
「賢明です。
雨上がりの、この水は、
見た目以上に、はるかに勢いをもっておりまする。
見れば、どこかを訪ねる様子ですが、
この丸太橋の先には、ひとつの人家もありませぬ。」
婦人が、はっと気づいて振りかえります。
まだ若く、20歳そこそこという面立ちでした。
あどけなさが残ったまま、細面の白い顔にひかれた紅(べに)が、
燃えるような真紅です。
「道に迷われたようです。
間もなく、陽の暮れる時刻となるゆえ、
山道は、あっという間に真っ暗になりまする。
わが家に戻る途中なれば、ついてまいるがよい。
見れば・・・背中の赤子も、
お腹を空かせた様子にありまする。」
手招きをした琴が、先に立って道案内をします。
渓谷沿いのこの狭い道を少し下ると、水沼製糸所へつづく坂道のふもとへ出ます。
この坂を登きって小高い丘を反時計回りに辿って行けば工場の長屋門の先に、
琴と咲の住まいが現れます。
「咲、お客様です。
兄のところよりは、お土産もいただきました。
なれど、この手にした重さの様子では、酒の肴ぐらいにしかなりませぬ。
今宵の夕食は、あらためて大人の3人分を用意いたします。
聞いておりますか、咲。
今夜の食事は、大人3人分を作りますよ。」
咲が、驚いて飛んできました。
乳飲み子を背負って突然現れた、若い婦人の様子にさらに仰天をしてしまいます。
「見ての通りです。
この家は、おなごが二人のみで暮らしています。
赤子をおろして、くつろぐと良いでしょう。
遠慮はせずに上がってください、
直に、温かいものなども用意させましょう。」
琴に促されて、婦人が囲炉裏のある座敷へ上がりました。
居ずまいを正しながら、帯を解いて乳飲み子を背中から降ろそうとします。
咲が飛んできて、赤子を両手で素早く受け止めました。
あまりにも手慣れたその様子に、今度は琴が驚きの声をあげます。
「おやまあ、お前様!
ずいぶんと、手慣れた様子です・・・
咲には、赤子の経験が、豊富の様にも見えますね。」
「はい、琴さま。
近所の子供たちを、幼いころよりあやしてまいりました。
下級の武士は、そのほとんどが向こう三軒両隣の、長屋も同然の住まいです。
隣も、そのまた隣も、我が家も同然の暮らしでした。
貧しい者どうしが、肩を寄せ合い
助け合って暮らしてまいりました。
私もそのようにして、面倒を見てもらいつつ、
育てられたようでありまする。」
咲が目を細めて懐かしそうに、この赤子をあやし始めました。
琴も目を細めて、その様子を眺めています。
「申し遅れました。
浅田タケと申します、
旧姓は、内村と申しました。」
「それは・・・
離縁をされた、ということですか。」
「亡き母の実家が、
この界隈と聞いて、訪ねてきてみたのですが、
ただ、途方に暮れるばかりでありました。
あの折りに、
お声をかけられた時には
誠に、内心は、ほっといたしました。」
「なるほど。
それで、得心をいたしました。
そういうことであるなれば、ここでの遠慮はいりませぬ。
咲や、本日より、家人が増えるようになりました。
女が、4人になるとは、何んとも賑やかなことにありまする。
家じゅうが、いっぺんに華やぎまする。」
「・・・そのようには、ございまするが・・」
「さすがに、
お前は察しが良い。
そうと決まれば、話は早い。
早速に、夕餉の支度にとりかかりましょう。」
「では、私めは何を?」
問いかける浅田タケに、琴が笑顔で答えます。
「客人とあらば、
囲炉裏などで、充分におくつろぎください、
というところでありまするが、
家人ともなれば、話しは別です。
咲や。
タケどのには、お風呂の支度などをお願いする故、
湯殿へ案内の上、手順などを説明いたすがよい。」
「承知をいたしました。
なれども、琴様、それでは・・・
我が手に有る、この赤子の面倒などは、
一体、どなたがなさるのでありまするか?」
「それも当然にそなたであろう、咲。
隣も、その隣も家族同然で、
一様に赤子をあやしてきておるゆえ、
赤子の世話は、お前にとっては、大の得意にあろう。
新米母のタケ殿よりも、
お前の方がはるかに熟達した様子でもあると、この琴は見た。
なによりもそなたが、最前より、
自ら、そう申していたであろうに。」
「・・・私は一等工女にて、乳母にはありませぬが。」
「いく末の、
さらなる赤子の稽古にもなろうというものです。
私は、小太刀と薙刀だけは誰にも負けず、大の得意にはありますが、
育児は、ことのほかに不得手そのものにありまする。
そうですね・・・それでは
工場にては、一等工女として自らの仕事に励み、
我が家にては、乳母の役目も担うということにいたしましょう。
咲や、心して修業に励むがよい。」
「そんなぁ~、琴さま!」
最終章(4)へ、つづく
・新作は、こちら
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (27)他愛もない騒動
http://novelist.jp/62273_p1.html
(1)は、こちらからどうぞ
http://novelist.jp/61553_p1.html
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/