舞うが如く 第五章
(6)会津の孤立

明けて、6月12日。
仙台藩・会津藩・二本松藩の連合軍が、白河城を再攻撃したものの、
失敗に終わり、6月26日には列藩同盟軍が白河から撤退してしまい、
須賀川へ逃れることになりました。
一方の、太平洋側からは、
6月16日に、土佐藩士、板垣退助が率いる新政府軍が、
海路より、常陸国(茨城県)平潟に上陸をします。
6月24日、仙台藩兵を主力とする同盟軍と、新政府軍が棚倉で激突をしました。
その日のうちに棚倉城が陥落し、さらに7月13日には平城での戦いもはじまります。
列藩同盟の代表格ともいえる米沢藩はこの戦闘には参加せず、
同盟軍は、平城でも敗れてさらに敗走をします。
7月26日になると、同盟軍と新政府軍が広野で再び衝突をしましたが、
ここでも装備に勝る新政府軍が、同盟軍を連破してしまいます。
その後の8月6日には、相馬・中村藩が降伏したことにより、
常陸の国と南相馬までが、新政府軍によって
完全に制圧をされてしまいました。
7月26日には、
勤皇派が実権を得た三春藩が、新政府軍に恭順をします。
二本松方面への攻撃準備にも加わり、7月29日には二本松城が陥落をしました。
二本松領を占領した新政府軍は、次の攻撃目標を会津にするか
仙台・米沢にするかで意見が分かれましたが、軍議の結果、
会津を総攻撃することで決着をします。
戦火が会津の国境に迫ってくると、
旧幕府の要人たちが、一斉に若松の城下から姿を消しはじめました。
奥羽越列藩同盟が擁立した輪王寺宮は最も早く、
六月十八日の未明に、米沢を経て白石へと立ち去ります。
これを皮切りに、要人たちの会津脱出が相次ぎました。
旧幕府軍の閣僚 、小笠原長行や板倉勝静、桑名藩主の松平定敬、
長岡藩主・牧野忠訓らもこれと前後して、若松を後にしてしまいます。
さらに大鳥圭介も、旧幕府の精鋭たちと、伝習隊を率いて、
福島へと去ってしまいました。
こうした結果、江戸から逃れてきた旧幕府方の兵力のうち、
若松に残ったのは、伝習隊の一部と水戸藩からの脱走兵、
新選組の生き残りなどの、僅かの兵と
浪士たちのみになってしまいます。
会津は、米沢藩や仙台藩からの援軍と、
江戸を脱走した榎本武揚の旧幕府艦隊の援軍に期待をかけました。
一方の新政府軍も、会津軍の捨て身の守備や東北各地に広がった内乱や
一揆などに手を焼きつつも、近づいてきた東北の冬を前にして、
止戦工作を必死に進めていきます。
そしてその決め手となったのが、米沢藩でした。
官軍の参謀であった板垣退助が、八月二十六日から
米沢藩に書を送り、停戦と帰順のための工作を計り始めます。
米沢藩も二 十八日以降になってから、積極的に
この止戦工作への対応をはじめました。
恭順を決意した米沢藩は、
ついに、会津からの援軍要請を断ります。
若松を去った小笠原長行や、大鳥圭介、竹中丹後らが旧幕兵や
仙台 ・二本松・庄内・棚倉・山形の藩兵たちを集めた混成部隊609人にも
圧力をかけて、ついにはこれを解散させてしまいます。
夏を前にして、
東北をひとつにまとめあげていた奥羽越列藩同盟は、
その内部から、ついに崩壊を始めました。
敗戦による後退と、停戦と恭順で陥落する藩が相次いでしまったのです。
こうして遂に会津藩だけが、最前線に取り残されてしまいます。

・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
(6)会津の孤立

明けて、6月12日。
仙台藩・会津藩・二本松藩の連合軍が、白河城を再攻撃したものの、
失敗に終わり、6月26日には列藩同盟軍が白河から撤退してしまい、
須賀川へ逃れることになりました。
一方の、太平洋側からは、
6月16日に、土佐藩士、板垣退助が率いる新政府軍が、
海路より、常陸国(茨城県)平潟に上陸をします。
6月24日、仙台藩兵を主力とする同盟軍と、新政府軍が棚倉で激突をしました。
その日のうちに棚倉城が陥落し、さらに7月13日には平城での戦いもはじまります。
列藩同盟の代表格ともいえる米沢藩はこの戦闘には参加せず、
同盟軍は、平城でも敗れてさらに敗走をします。
7月26日になると、同盟軍と新政府軍が広野で再び衝突をしましたが、
ここでも装備に勝る新政府軍が、同盟軍を連破してしまいます。
その後の8月6日には、相馬・中村藩が降伏したことにより、
常陸の国と南相馬までが、新政府軍によって
完全に制圧をされてしまいました。
7月26日には、
勤皇派が実権を得た三春藩が、新政府軍に恭順をします。
二本松方面への攻撃準備にも加わり、7月29日には二本松城が陥落をしました。
二本松領を占領した新政府軍は、次の攻撃目標を会津にするか
仙台・米沢にするかで意見が分かれましたが、軍議の結果、
会津を総攻撃することで決着をします。
戦火が会津の国境に迫ってくると、
旧幕府の要人たちが、一斉に若松の城下から姿を消しはじめました。
奥羽越列藩同盟が擁立した輪王寺宮は最も早く、
六月十八日の未明に、米沢を経て白石へと立ち去ります。
これを皮切りに、要人たちの会津脱出が相次ぎました。
旧幕府軍の閣僚 、小笠原長行や板倉勝静、桑名藩主の松平定敬、
長岡藩主・牧野忠訓らもこれと前後して、若松を後にしてしまいます。
さらに大鳥圭介も、旧幕府の精鋭たちと、伝習隊を率いて、
福島へと去ってしまいました。
こうした結果、江戸から逃れてきた旧幕府方の兵力のうち、
若松に残ったのは、伝習隊の一部と水戸藩からの脱走兵、
新選組の生き残りなどの、僅かの兵と
浪士たちのみになってしまいます。
会津は、米沢藩や仙台藩からの援軍と、
江戸を脱走した榎本武揚の旧幕府艦隊の援軍に期待をかけました。
一方の新政府軍も、会津軍の捨て身の守備や東北各地に広がった内乱や
一揆などに手を焼きつつも、近づいてきた東北の冬を前にして、
止戦工作を必死に進めていきます。
そしてその決め手となったのが、米沢藩でした。
官軍の参謀であった板垣退助が、八月二十六日から
米沢藩に書を送り、停戦と帰順のための工作を計り始めます。
米沢藩も二 十八日以降になってから、積極的に
この止戦工作への対応をはじめました。
恭順を決意した米沢藩は、
ついに、会津からの援軍要請を断ります。
若松を去った小笠原長行や、大鳥圭介、竹中丹後らが旧幕兵や
仙台 ・二本松・庄内・棚倉・山形の藩兵たちを集めた混成部隊609人にも
圧力をかけて、ついにはこれを解散させてしまいます。
夏を前にして、
東北をひとつにまとめあげていた奥羽越列藩同盟は、
その内部から、ついに崩壊を始めました。
敗戦による後退と、停戦と恭順で陥落する藩が相次いでしまったのです。
こうして遂に会津藩だけが、最前線に取り残されてしまいます。

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