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落合順平 作品集

現代小説の部屋。

舞うが如く 第五章 (3)江戸の無血開城

2013-01-13 09:58:30 | 現代小説
舞うが如く 第五章
(3)江戸の無血開城




 新政府は、有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、
東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れて、
江戸へ向けて進軍を開始しました。


 旧幕府軍は、近藤勇らが率いる甲陽鎮撫隊(旧新撰組)をつくり、
甲府城を防衛拠点にしようと試みました。
しかし東山道を進み、信州に到達した土佐藩士・板垣退助と
薩摩藩士・伊地知正治が率いる新政府軍の進軍速度がその策略を上回りました。
板垣退助が率いる別働隊が甲州へと向かい甲陽鎮撫隊より先に
甲府城に到着して、城を接収してしまいました。


甲陽鎮撫隊は甲府盆地へと兵を進め、
慶応4年の3月6日、新政府軍と戦いましたが完敗に終わります。
近藤勇は偽名を使って各地を転々と潜伏しましたが、
流山で新政府に捕縛されて、処刑をされます。




 一方の、東山道を進んだ東山道軍の本隊は、
3月8日に武州(埼玉県)の熊谷宿に到着しました。
翌9日には近くの梁田宿(現・足利市)で宿泊していた旧幕府歩兵隊の脱走部隊、
「衝鋒隊」に奇襲をかけて、これを撃破してしまいました。


 駿府に進軍した新政府軍は
3月6日に軍議をひらき、江戸城への総攻撃を3月15日と決定しました。
しかし条約諸国は戦乱が貿易に悪影響となることを恐れ、イギリス公使パークスは
新政府に対し、江戸総攻撃の中止を求めました。


 新政府の維持には、まだ諸外国との良好な関係が必要でした。
また武力を用いた関東の平定には、躊躇する意見も多数ありました。
やがて、江戸総攻撃を中止とする命令が周知されます。

 恭順派として、旧幕府の全権を委任された陸軍総裁の勝海舟は
幕臣の山岡鉄舟を、東征大総督府・参謀の西郷隆盛に使者として差し向け、
事態の収拾に向けての会談を提唱します。
西郷より降伏条件として、
徳川慶喜の備前預け・武器・軍艦の引渡しが伝えられました。


 西郷は3月13日、高輪の薩摩藩邸に入ります。
同日から、勝と西郷の間で、江戸開城の交渉がはじまりました。
翌14日、高輪の薩摩藩邸で勝は
慶喜は隠居の上、水戸にて謹慎することを承諾しました。
さらに江戸城は明け渡しの後、即日、田安家に預けることなどの
旧幕府としての要求事項を西郷へ伝えました。
西郷は、総督府にて検討すると確約をします。
こうして15日に予定されていた、江戸城への攻撃が
「中止」と決定されました。



 4月4日 に勅使、先鋒総督・橋本実梁、
同副総督・柳原前光らが江戸城へ入り、慶喜は水戸にて謹慎すること、
江戸城は尾張家に預けること等とした条件が勅諚として伝えられ、
4月11日にいたって、江戸城の無血開城が実現しました。
同日のうちに、慶喜が水戸へ向けて出発をします。

 4月21日には、
東征大都督である有栖川宮熾仁親王が江戸城に入城して、
江戸城は、正式に新政府の支配下に入りました。



 この江戸城無血開城に従わぬ、
旧幕臣たちの一部が、千葉方面に逃亡しました。
船橋大神宮に陣をはり、4月3日には市川・鎌ヶ谷と船橋周辺で両軍が衝突しました。
この戦いでは、最初は数に勝る旧幕府軍が有利でしたが、
戦況は新装備を有する新政府軍へと徐々に傾き、
やがて新政府側の勝利で幕を閉じました。


 この戦いは、江戸城無血開城後の
南関東地方における、政府軍と旧幕府軍による最初の本格的な戦闘になりました。
この結果、新政府軍側にとっては旧幕府軍の江戸城奪還の挫折と、
関東諸藩を新政府への恭順に動かした点で
きわめて大きな意義をもつものとなったようです。






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