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落合順平 作品集

現代小説の部屋。

舞うが如く 第四章 (12)会津若松

2013-01-08 10:06:26 | 現代小説
舞うが如く 第四章
(12)会津若松




 会津若松の起源は、1384年(至徳元年)の、
蘆名直盛による黒川城築城にまで遡のぼります。
以降、城下町としての黒川は、戦国大名・蘆名氏の領国支配の拠点として、
当時の奥州最大の都市として発展を遂げることになりました。


 1589年(天正17年)、伊達政宗のもとで勢力を拡大する伊達氏が
領主の芦名氏を滅ぼし、黒川を新たな本拠地としました。
しかし翌1590年(天正18年)に、豊臣秀吉による奥州仕置により黒川は
伊達氏から取り上げられ、代わって蒲生氏郷が入封しました。

 氏郷は楽市楽座の施行や、手工業の振興につとめ、
黒川城の近代城郭への改修などにその功績を残しました。
また黒川という地名を若松と改めました。


 氏郷の死後、越後から上杉景勝が入封しますが、
関ヶ原の役で徳川家康に敵対して敗れ、米沢へと移封されてしまいます。
その後、蒲生秀行、加藤嘉明などの領主を経て、
1643年に徳川秀忠の子・保科正之が入封して、会津松平家の祖となりました。
以後若松は、会津藩の城下町として栄えることになるのです。


後方からまた、若侍が追いついてきました。
すでに、会津西街道も城下へと差し掛かり、猪苗代湖越しに
赤い瓦屋根と白壁が光る若松城(鶴ヶ城)の天守閣も見えてきました。


 「山本八重さまは、
 たしか20歳になられると思います。
 なんでも少女のころに、四斗樽を何度も持ち上げてみせたという、
 怪力の持ち主というのが、もっぱらの城下での評判です。」

 「ほう、怪力の持つ主ですね、
 それでは怪女ですか。」



 「いえ、いたって、聡明でお美しい方と伺っております。
 しかし、なにかにつけての男勝りにございます。
 砲術にかけては、男でも右に出るものはいないという噂です。
 容姿は実に淡麗なのですが・・・」

 「なるほど、では、こちらよりも美形かな?」


 連れ立って歩く作蔵が、若侍を招き寄せると
琴を指さしてから、小声で尋ねました




 「いえ、甲乙つけがたく思われます。
 いずれ菖蒲か、カキツバタと思われますゆえ・・・
 上下などには、言及ができませぬ。」



 「わずかな旅を続ける間に、
 ずいぶんと、お口も達者になったようですね。
 ところで、京都警護職のおひざ元、
 会津とはどのような処ですか。」

 「質実剛健にて、義を重んじ
 よく耐えて、主に奉公をするを良しといたしまする。」

 「明快な事ですね。」

 「家訓15ヵ条にございまする、
 会津藩士の心得と、勤めをしたためたものにございます。」



 「なかなかに、勤勉です。
 作蔵にも、見習わせたいものですね。」


 笑い声を残して、琴が先へと進みます。
頭一つぶん琴よりも長身の作蔵が、失笑する5人の手下たちを
厳しい目線で振り返りました。
故郷が近くになってきたことで、頬を紅潮させた若侍が、
琴に歩調を合わせて、さらに言葉を続けました。

 「山本覚馬様が言うには、
 これから日本中が騒然となる。
 時勢をめぐって、天下分け目の大動乱もありうると言っておいででした。
 公武合体の会津にとっての正念場がおとずれるゆえ、
 まごうことなく鍛え抜かれるようにと沙汰がございました。
 いかような、意味に相成りますか?」



 「それゆえに、新式の西洋銃がいると言うことでしょう。
 すでに、剣を用いての白兵戦や、
 接近戦の時代では無いということでもありましょう。
 砲術や、新式の銃が戦いの主役になる時代ということであり、
 その準備を怠るな、と言う意味かと思われまする。」

 街道が右に折れると、
城内へと続く武家屋敷の通りに差し掛かりました。
期せずして前方より、婦人たちの一団があらわれました
頭には白羽二重の鉢巻きをして、女の着衣に義経袴といういでたちで、
腰の小刀とともに、めいめいが薙刀をたずさえていました。


 先頭にたつ、ひときわ艶やかな女性がこちらに向かって
にこやかにほほ笑みました。
つい先ほどまで噂に登場していた、
山本八重その人でした。 
 

 その横に、もうひとり、
会津藩江戸詰勘定役・中野平内の長女、中野竹子が、
聡明そうな瞳を輝かせていました。
18歳の、まだどこかに幼なさの残るこの乙女こそ、
熾烈をきわめた会津戦争で、みずから婦女隊(ふじょたい)の先頭に立ち、
若くして、柳橋(涙橋)の戦いで散ることとなった
「会津の白い花」その人でした。




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