舞うが如く 第四章
(3)総司の病

武家伝奏(ぶけてんそう)とは、
室町時代から江戸時代にかけての朝廷における職名の一つで、
公卿が任じられ、武家の奏請を朝廷に取り次ぐ
役目を果たしていました。
建武の新政の際に置かれ、
室町幕府がこれを制度化したものです。
役料はそれぞれ250俵が与えられ、
この他に官位禄物の配当もありました。定員は江戸時代には2名です。
江戸幕府の下では、1603年(慶長8年)に設置され、
幕末の1867年(慶応3年)まで続きました。
江戸時代には、学問に優れて弁舌が巧みな
大納言級の公卿が伝奏に任じられ、
就任の際には京都所司代より血判の提出が求められました。
この年の9月、
近藤勇、永倉新八らが、
武家伝奏のひとり坊城俊克の身辺警護役として
江戸に向けて旅発ちます。
この江戸行きへのもう一つの理由が、
幕府のひざ元での新撰組隊士の募集でした。
池田屋、蛤ご門の変とたて続いた騒動の中で、
いくつもの実績を残してきた新撰組の存在は日増しに大きくなり、
幕臣からも重くみられるようになってきたのです。
幕府からは、局長の近藤を与力上席とし、
さらに隊士たちを与力とする内示が伝えられたとき、
土方が近藤を制止しました。
本来の狙いは大名であるために、次の機会を待つようにと近藤を説得します
また山南敬助を総長に昇格させ、副長は土方一人になりました。
初秋の頃になると、
沖田の病状もずいぶんと回復をしました。
盆地である京都の秋の到来は早く、
蒸し暑かった真夏の風が嘘のようにやわらいで
いつのまにか、山々からは涼しい風が吹き下ろし始めます。
幕府の典医・松本良順の見立てで、
沖田は軽い呼吸器疾患と診断されました。
この後も、乾いた咳でときおりむせ込むことがありましたが、
池田屋のような吐血は影をひそめました。
江戸へ発つ前日、
近藤が沖田を訪ねてきます。
手土産がひとつ、軍鶏の肉が届けられました
「坂本(竜馬)も大好物だという軍鶏肉だ。
わざわざ三条の坂本の行きつけの店より取り寄せたものだ。
旨いものには、勤皇も佐幕もあるまい、
滋養があるということだ。
充分に英気を養ってくれ。
長州もいまごろは、
幕府軍に取り囲まれて、身動きが取れない事であろう。
わしらも、ゆるりと、江戸まで行ってまいる。
しっかりと、養生せいよ、
総司。」
池田屋での激しい吐血と昏倒は、
蒸し暑い初夏の高温下での激しい戦闘による熱中症か、
一時的な体調の不良であろうというのが、
大方の見方となりました。
実際に九月に入ってからは土方を押しのけて
朝からの道場での練習にも、たいそう精をだすようになりました。
もともとが激しい稽古で知られていましたが、
最近ではそれに凄味が加わりました。
いつにない激しい立会いぶりに、そろそろと山南が助け船をだしました。
「総司、あまり根をつめるな、
病み上がりとは言え、そう先を急ぐでないぞ。
わしが、代わろう」
尊拠(そんきょ)の姿勢から一礼を終えた沖田が、
道着をはだけて、したたる胸の汗をぬぐいました。
そのかたわらに土方が現れました
そのまま聞けと、総司に小声でささやきます。
「近藤が江戸より連れてきた新隊士のうちに、
伊東甲子太郎というのがおるが、
どうも、要注意人物のようである。」
「警戒せよと?」
「剣の腕と言い、
弁舌と言い、何の文句もないのだが、
どうも何か気にかかるものがある。
俺も注意はしてみておくが、
総司もそのつもりで居るように。」
「承知いたしました。」
この時は、軽い懸念にすぎませんでしたが、
やがてこの伊東甲子太郎が、新撰組の別動隊を仕立て上げようと、
よからぬ策動を開始いたします。
しかしそれ以上に、年が明けた元治2年の冬に、
沖田を震撼させる、一大事件が発生します。

・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
(3)総司の病

武家伝奏(ぶけてんそう)とは、
室町時代から江戸時代にかけての朝廷における職名の一つで、
公卿が任じられ、武家の奏請を朝廷に取り次ぐ
役目を果たしていました。
建武の新政の際に置かれ、
室町幕府がこれを制度化したものです。
役料はそれぞれ250俵が与えられ、
この他に官位禄物の配当もありました。定員は江戸時代には2名です。
江戸幕府の下では、1603年(慶長8年)に設置され、
幕末の1867年(慶応3年)まで続きました。
江戸時代には、学問に優れて弁舌が巧みな
大納言級の公卿が伝奏に任じられ、
就任の際には京都所司代より血判の提出が求められました。
この年の9月、
近藤勇、永倉新八らが、
武家伝奏のひとり坊城俊克の身辺警護役として
江戸に向けて旅発ちます。
この江戸行きへのもう一つの理由が、
幕府のひざ元での新撰組隊士の募集でした。
池田屋、蛤ご門の変とたて続いた騒動の中で、
いくつもの実績を残してきた新撰組の存在は日増しに大きくなり、
幕臣からも重くみられるようになってきたのです。
幕府からは、局長の近藤を与力上席とし、
さらに隊士たちを与力とする内示が伝えられたとき、
土方が近藤を制止しました。
本来の狙いは大名であるために、次の機会を待つようにと近藤を説得します
また山南敬助を総長に昇格させ、副長は土方一人になりました。
初秋の頃になると、
沖田の病状もずいぶんと回復をしました。
盆地である京都の秋の到来は早く、
蒸し暑かった真夏の風が嘘のようにやわらいで
いつのまにか、山々からは涼しい風が吹き下ろし始めます。
幕府の典医・松本良順の見立てで、
沖田は軽い呼吸器疾患と診断されました。
この後も、乾いた咳でときおりむせ込むことがありましたが、
池田屋のような吐血は影をひそめました。
江戸へ発つ前日、
近藤が沖田を訪ねてきます。
手土産がひとつ、軍鶏の肉が届けられました
「坂本(竜馬)も大好物だという軍鶏肉だ。
わざわざ三条の坂本の行きつけの店より取り寄せたものだ。
旨いものには、勤皇も佐幕もあるまい、
滋養があるということだ。
充分に英気を養ってくれ。
長州もいまごろは、
幕府軍に取り囲まれて、身動きが取れない事であろう。
わしらも、ゆるりと、江戸まで行ってまいる。
しっかりと、養生せいよ、
総司。」
池田屋での激しい吐血と昏倒は、
蒸し暑い初夏の高温下での激しい戦闘による熱中症か、
一時的な体調の不良であろうというのが、
大方の見方となりました。
実際に九月に入ってからは土方を押しのけて
朝からの道場での練習にも、たいそう精をだすようになりました。
もともとが激しい稽古で知られていましたが、
最近ではそれに凄味が加わりました。
いつにない激しい立会いぶりに、そろそろと山南が助け船をだしました。
「総司、あまり根をつめるな、
病み上がりとは言え、そう先を急ぐでないぞ。
わしが、代わろう」
尊拠(そんきょ)の姿勢から一礼を終えた沖田が、
道着をはだけて、したたる胸の汗をぬぐいました。
そのかたわらに土方が現れました
そのまま聞けと、総司に小声でささやきます。
「近藤が江戸より連れてきた新隊士のうちに、
伊東甲子太郎というのがおるが、
どうも、要注意人物のようである。」
「警戒せよと?」
「剣の腕と言い、
弁舌と言い、何の文句もないのだが、
どうも何か気にかかるものがある。
俺も注意はしてみておくが、
総司もそのつもりで居るように。」
「承知いたしました。」
この時は、軽い懸念にすぎませんでしたが、
やがてこの伊東甲子太郎が、新撰組の別動隊を仕立て上げようと、
よからぬ策動を開始いたします。
しかしそれ以上に、年が明けた元治2年の冬に、
沖田を震撼させる、一大事件が発生します。

・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/