【コピーライターになろう!】24歳、経験3年で東京進出の結果は!?
おはようございます。
みなさま、クリスマスはどのように過ごされましたでしょうか?
今までクリスマスと言うと、「どんな料理を作ろう〜」とメニューを考えるのが大変でしたが、今は長女が毎日、夕食を作ってくれるので、ワクワクしかありません。
クリスマスの夜も、チキンとスープとアボカドのサラダを作ってくれましたが、どれもおいしかったです。
さて、今日の【コピーライターになろう!】は、「24歳、経験3年で東京進出の結果は!?」です。
バブルがはじけ、制作プロダクションでのお仕事が激減。
そんなとき、宣伝会議の社員さんの
「東京、行っちゃいなよ」
そのひと言に触発され、就職先も決まらないまま、24年間暮らした大阪を離れ、東京へ向かいます。
所沢近くの「花小金井駅」で一人暮らしを始めたわけですが、履歴書が山のように送り返されてくる日々。
貯金は10万円ほどだったので、すぐに底をつき、お弁当工場やコールセンターでアルバイトをしては生活費を稼ぎ、履歴書を送り続ける日々が半年近く続きました。
経験3年で、製品カタログや学校案内、チラシ、社内報、イベント企画、ラジオCMなど、幅広いお仕事を経験しているつもりでしたが、ほとんどの募集条件が「経験5年以上」。
経験3年では箸にも棒にもかからなかったのです。
そんななかでも、ようやく面接までこぎつけると、
「大阪は東京と同じだと思ってるかもしんないけど、田舎なんだよね」
「大阪弁で話してると、お金に汚いと思われるよ」
などと言われる始末。
コンチキショー!と思いながらも、確かに、面接で関西弁を話すと、露骨に嫌そうな顔をされる方が何人もおられました。
今はきっと、そんなことはないと信じたいのですが、当時は関西人と言うと、電車の中で大きな声で話していたり、ホームで並ばなかったり、あまりいい印象がなかったようです。
面接に落ち続けている間に、貯金はどんどん底をついていきました。
家賃を払うのがやっとで、食費はというと、1週間で400円!
100円の大根を買い、ソテーにしたり、煮物にしたり……、大根、大根、大根の日々だったので、お給料をしっかりもらえるようになってからも、結婚してからも、しばらくは大根が食べられず、トラウマになったほどです。
「私、何をしに、東京に来たんだろう……」
先がまったく見えず、一人ぼっちの部屋で涙したこともありました。
「経験3年ではムリだったんだぁ」と情けない気持ちになり、大阪に帰ろうかなぁという想いがよぎったこともありますが、そのとき、浮かんできたのが、見送ってくれた両親や親戚、友人たちの笑顔です。
餞別をもらったり、一人暮らしの新生活に役立つ食器をもらったり。
たくさんの人に応援されて上京したので、簡単に帰るわけにはいきません。
一か八かで、募集をされていない、岩崎俊一さんの事務所にお電話をしたこともありました。
私は今も昔も、一番大好きなコピーライターが岩崎俊一さんです。
緊張しながら、電話のボタンを押し、
「突然のお電話、失礼します。コピーライターとして雇っていただきたくて、大阪から出てきたんですけど、面接していただけませんでしょうか?」
今、思い出しても、滝汗が流れますが、そのときは必死です。
突然の失礼なお電話にも関わらず、岩崎さんは、
「今は……、募集……、してないんだよね」
とてもやさしい声で、お断りされました。
そして、私は一大決心をします。
関西弁を封じ込めようと。
バイト先のコールセンターでは、関西弁を使うたび、上司が飛んできて、叱られていましたが、それもいい練習になりました。
まだまだイントネーションはあやしいものの、少しずつ標準語にも慣れていきました。
そして、制作プロダクションのある場所も、最初は青山や原宿など、華やかな街を選んでいましたが、場所で選ぶのはどうなのかなぁという気がしてきました。
そのとき、浮かんだのが、飯田橋駅にあった会社です。
実は、面接を受けたあと、なかなかお返事がなく、しばらく経って、「来てください」というお電話があったのですが、青山の会社の返事待ちをしていたので、お断りしてしまいました。
「あちゃちゃちゃちゃちゃ~、そうなんだ。もっと早く、電話すればよかったな~」
面接をしてくださったチーフデザイナーさんはとても気さくな印象で、「頑張ってくださいね」と温かな声をかけてくださいました。
その後、何十件という会社に応募して、落ち続けていたのですが、ふと、その会社のことを思い出したのです。
「経験3年で雇ってくださるだなんて、とても貴重なのに、会社がオシャレな場所ではないことでお断りするとは、なんと浅はかだったのだろう」
そうだ、もう一度、お電話してみよう!
意を決して、お電話しました。
「すみません。鈴木さんはおられますでしょうか?」
面接をしてくださったチーフデザイナーさんのお名前を電話口で告げると、女性の方が少し、間を置いて答えられました。
「鈴木は、先週、亡くなったんです」
あまりにも突然のことに、言葉を失いました。
あとから知ったのですが、鈴木さんはとてもお酒が好きな方で、お仕事が終わってから飲みに行かれることもあり、酔っ払って、ホームに転落されたとのことでした。
信じがたいことでしたが、お電話をかけた理由をお伝えし、もう一度、面接していただくことになりました。
面接をしてくださったのは、チーフコピーライターの女性です。
私が持っていったポートフォリオをとても熱心に見てくださいました。
その会社が受け持っているクライアントは、メーカーが多かったため、私がしてきたお仕事とピッタリ合うと判断してくださったようです。
翌日、採用のお電話をいただきました。
上京してから半年。やっと就職先が決まったのです。
貯金が尽きた時点であきらめていたら、大阪に戻っていたら、挫折したままで終わっていたかもしれません。
そのときの自分を支えていたのは、意地やプライドではなく、純粋に、
「東京でコピーライターとして働きたい」という気持ちでした。
今もそうですが、ただただ、コピーが好きなのです。
転職活動で、おそらく80件近い会社から履歴書が送り返されてきましたが、無事、就職できたのは、亡くなった鈴木さんが導いてくださったのではないかと思っています。
そうして、勤めることになった3社目の会社は、どのような雰囲気だったでしょうか。
明日、ご紹介させていただきます。
【コピーライターになろう!】
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