小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

456 顕宗朝時代の朝鮮問題①

2015年11月24日 00時22分00秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生456 ―顕宗朝時代の朝鮮問題―
 
 
 顕宗天皇の時代に起きたことで、もうひとつ注目したいのが紀生磐宿禰(きの
おいはのすくね)の事件です。
 任那に赴任していた紀生磐宿禰が高句麗と通じたのです。
 生磐宿禰は三韓の王になるという野心があり自ら「神聖」と称しました。
 そして、任那の左魯(サロ)や那奇他甲背らの計略を採用して高句麗の爾林
(ニリン)にて百済の適莫爾解(チャクマクニゲ)を殺したのでした。
 さらに、帯山城を築き、食料を運ぶ津を押さえたので百済の人々は飢え苦しむ
こととなり、ここに百済王は激怒して、古爾解(コニゲ)、莫古解(マクコゲ)らを
派遣して帯山城を攻めました。
 生磐宿禰は出撃してこれを撃退するとそのまま軍を進めて敵を撃破していき
ましたが、やがて力尽きてしまいました。
 生磐宿禰は自分の野望が叶わぬと悟ると日本に帰ってしまいました。
 その後百済軍は左魯、那奇他甲背その他300人あまりを殺したのでした。
 
 この紀生磐宿禰(きのおいわのすくね)は、『日本書紀』「雄略紀」に登場する紀大磐
宿禰と同一人物だと考えられています。
 『日本書紀』「雄略紀」には次のようなことが書かれています。
 
 雄略天皇は、新羅を攻めるために、
 
 紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)
 蘇我韓子宿禰(そがのからこのすくね)
 大伴談連(おおとものかたりのむらじ)
 小鹿火宿禰(おかひのすくね)
 
の4人を将軍として派遣しました。
 大伴談連はその戦いの中で戦死してしまいました。
 大将軍に任命された紀小弓宿禰もよく戦いますが病にかかって死んでしまい
ます。
 紀小弓宿禰の子、紀大磐宿禰は父の病没を知ると渡海して新羅の戦場に
赴きますが、ここにトラブルが発生します。
 大磐宿禰が小鹿火宿禰の指揮下にあった兵や馬、それに水軍などを自分の
指揮下に移して使ったので小鹿火宿禰の深い恨みを買うことになったのです。
 それで小鹿火宿禰は韓子宿禰のところに行き、
 「大磐宿禰は自分に、『今度は韓子宿禰の兵も自分の下につけよう』と言って
おった。くれぐれも注意なされよ」
と、告げたのでした。
 このことで、韓子宿禰と大磐宿禰との間に距離ができてしまったのです。
 百済王は日本軍の不協和を見抜くと、韓子宿禰に使者を送り、
 「国の境を見せたいのでぜひ来られたし」
と、伝えました。
 この呼びかけに日本軍の将校たちが出向き、川に面した時でした。
 大磐宿禰が自分の馬に川の水を飲ませていると、韓子宿禰が背後から大磐
宿禰に矢を射たのです。
 大磐宿禰が驚いて反転し、韓子宿禰を射落とすと、韓子宿禰は川に流されて
死んでしまいました。
 これにより、日本軍は完全に瓦解してしまったのでした。
 この事件の直後、紀小弓宿禰の葬儀が行われ、これに出席するため小鹿火
宿禰も帰国しますが、そのまま角国(後の周防国。現在の山口県)に留まったの
です。そして、大伴大連に使者を送り、
 「私は紀大磐宿禰とともに朝廷に仕えることには堪えられません。どうかこの
まま角国に住まわせてください」
と、訴えたので、大伴大連はこのことを雄略天皇に伝え、雄略天皇もこれを了承
したのでした。