小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

448 雄略天皇VS吉備②

2015年11月04日 00時25分55秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生448 ―雄略天皇VS吉備②―
 
 
 吉備氏が有力豪族であったと見られる理由のひとつに、吉備地方に作山古墳や造山古墳と
いった巨大古墳が造られているからなのですが、全国第4位の大きさを誇る造山古墳の造営
には大きな謎があるのです。
 
 造山古墳を建造するにあたって、どれだけの労力を必要としたのか?岡山県古代吉備文化
財センター『古代吉備を探る』「巨大古墳の築造」、それから、高橋護(岡山県教育庁文化課文
化財保護主事や岡山県立博物館副館長を歴任。ただしこのプロフィールは1992年当時の
もの)によれば、以下のようになるそうです。
 
〇古墳の盛り土は約27万立方メートルで大型ダンプ約4万2千台分に相当。
〇墳丘の葺石の採取から水上・陸上の運搬・施工まで延人員は約20万人を要する。
〇埴輪の製作には延人員は8万7千人を要する。
〇以上のような諸々の条件を含めて築成までの延人員は150万人以上と推定。ただし、これは
現在の土木用具を使用した場合での試算。
〇この150万人という数字は、当時の日本全土(東北北部と北海道、沖縄を除く)の推定労働
人口に匹敵する。
〇総工費は昭和63年(1988年)の時点で約200億円以上の試算。
 
 造山古墳の謎は、これだけの労力を動員できる力と、これだけの古墳を建造できるだけの
財力を吉備が有していたか?というものです。
 もちろん、造山古墳の造営は長い年月をかけて行われたのでしょうが、それでもかなりの1年
あたりにかかる動員と費用は莫大なものになるはずです。
 
 高橋護の著作「吉備と古代王権」(小林三郎編『古墳と地方王権』に収録)によれば、造山古墳
と大阪府堺市の石津ヶ丘古墳(伝・履中天皇稜)とは、平面形も側面形もまったく同じで、両者を
重ねるとほぼピッタリと一致する、双子のような古墳であり、同じ設計図をもとに造られた古墳と
しか思えないというのです。
 その大きさは、造山古墳が全長350メートル(全国4位)、石津ヶ丘古墳が全長360メートル
(全国3位)でまったく同じなのです。正しくは10メートルの違いがありますが、この規模の古墳と
してではまったく同じ大きさと言えるものです。それに、古墳の大きさというものは、建造当時に
比べて欠けている部分もあり、また土や樹木に覆われているため、正確な数字ではないのです。
 
 このように紹介すると、造山古墳は石津ヶ丘古墳の設計図を用いて造営されたのかと思って
しまいますが、造山古墳から採集された埴輪や他の遺物群、それに周りの堀の状況から、造山
古墳の方が石津ヶ丘古墳よりも古いと考えられるのです。
 それでは、大和政権の中央の側が吉備氏の古墳を真似て造ったのでしょうか?
 
 この疑問について、高橋護は、当時の大和政権が諸氏族の連合体であったとする説の側に立ち、
「大和・河内でそれまでに造られていた古墳よりも圧倒的に大きい古墳を吉備が造っていたのだった
ら、それは要するに、日本の中心的な政治集団の首長の墳墓と考えざるを得ないのです。たまたま
それが、その時期には、なぜか吉備にあったと考えざるを得ないだろう」と、説きます。
大和政権という連合体が、決して大和に都を置く勢力ではなく、それを構成する諸勢力の中から大王が
全体の首長になっていた、というもので、造山古墳について、
と、いう考察です。
 しかし、吉備からは連合政権の中心部であったと思われる都城の遺跡が発見されていない事実も
存在します。
 抜粋文にありますように、高橋護は、造山古墳を倭王のひとりの陵墓としていますが、それではなぜ
倭王の陵墓が吉備に造られたのかということについては、「たまたま、なぜか」と、その答えを明確に
していない弱さがあります。
 
 一方で、原島礼二(『古代の王者と国造』)は、造山古墳は吉備の首長の墳墓である、とし、当時の
吉備の勢力が造山古墳のような巨大古墳を造り得た理由を、諸氏族の連合体である大和政権が、
5世紀にはリーダーシップをとる勢力が奈良県から大阪府に移り、その時に吉備が大阪府の側に味方し、
その強力化に貢献したことで優遇され強力化したのだろうと考察します。
 
 原山礼二はこのように考察しますが、当時大阪府に存在した勢力とは、『古事記』や『日本書紀』で言うと、
応神・仁徳・履中・反正天皇ということになり、葛城氏がもっともその勢力を誇った時代でもあります。
 とりわけ履中天皇は葛城氏の女性を母に持ち、自身も葛城氏の女性である妻との間に市之辺忍歯王らを
もうけています。
 その履中天皇の陵墓とされる石津ヶ丘古墳(くどいようですが、天皇陵は本当にその天皇の陵墓なのか
どうか確定されていません)と造山古墳が双子のように同じものであることは大変興味を惹きます。
 おそらくは葛城氏主導のもとで、石津ヶ丘古墳の試作品の意味も兼ねて造山古墳が造営されたのではない
でしょうか。
 しかも、『日本書紀』は、吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみのたさ)の妻について、3通りのせつが
あり、そのひとつが葛城玉田宿禰の娘毛媛(けひめ)であるとする伝承を載せています。
ちなみに本書では吉備上道臣田狭の妻を吉備上道臣の娘稚媛(わかひめ)とし、もうひとつの異伝として吉備
窪屋臣の娘、とします。
 これらのことは、吉備氏と葛城氏との結びつきを想像させるものです。
 それに、この時代はここまで見てきたように、帰化人を取り込んでいった時期であり、朝鮮半島との人の
行き来が盛んな時でした。
 難波と日本海を結ぶ瀬戸内ルートにおいて、吉備は停泊地のひとつにあたり、そんな重要性からも吉備氏と
葛城氏の結びつきが強かったと思われます。
 
 それが、允恭系の皇統によって葛城氏が滅亡させられる事件が起こったのです。
 さらにはそれに続く天皇の立場の強化。
 吉備氏の中に、大和に対する不信感と反抗心が生まれても何ら不思議ではなかったと思われるのです。