小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

455 顕宗天皇と太陽祭祀

2015年11月21日 00時52分26秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生455 ―顕宗天皇と太陽祭祀―
 
 
 さらに言えば、顕宗天皇の皇后とその父にも時代の回帰を感じます。
 顕宗天皇の皇后は、『古事記』では、石木王(イワキ王)の娘、難波王とし、『日本書紀』は、
允恭天皇の曾孫、磐城王(イワキ王)の孫、丘稚子王の娘、難波小野王とします。
 『古事記』では皇后はイワキ王の娘、『日本書紀』ではイワキ王の孫、という違いがあります。
しかも、『日本書紀』では皇后は允恭天皇からかぞえて6世の子ということになり、允恭天皇の
兄の履中天皇の3世の子である顕宗天皇とは世代が大きく異なってしまうことになってしまい
ます。
 さて、イワキ王については、日本古典文学全集『古事記』と岩波古典文学大系『日本書紀』は
ともに雄略天皇の子である磐城皇子に比定しています。
 磐城皇子の母は、かつて吉備上道臣田狭の妻で雄略天皇に奪われた稚媛です。雄略天皇
薨去の際に謀反を起こした同母弟の星川皇子にやむなく加担しともに殺されてしまいました。
 イワキ王がこの磐城皇子のことであったとすれば、顕宗天皇は謀反人の娘を皇后に迎えた
ことになります。
 このことは、顕宗天皇の吉備に対するスタンスを物語っているように思えるのです。
 
 星川皇子の反乱に際して、田狭と稚姫の間に生まれた吉備上道臣兄君は星川皇子に加担し、
吉備上道臣家は軍船40艘で星川皇子のもとに向かいます。
 このことから、磐城皇子と星川皇子の兄弟は雄略天皇の子というよりは吉備側の人物と思わ
れていたようです。
 ただ、吉備は葛城氏と強いつながりを持っていたと思われますから、曾祖母、祖母、母が葛城氏
出身の女性である顕宗天皇にとっては、吉備はむしろ味方のように感じていたのかもしれません。
 また皇后の名の、難波王(『古事記』)、難波小野王(『日本書紀』)というのも、難波の地と関係が
ありそうです。
 あるいは、皇后を養育したのが難波氏(難波吉士)だった可能性も考えられます。
 難波が「押し照る難波」と称され、太陽祭祀の聖地であったらしいことはこれまでに何度かお話し
たとおりですし、難波吉士も太陽祭祀を担っていたらしいこともお話ししました。
 すなわち、天照大御神と豊受大神を祀る大阪府吹田市には吉志部神社(きしべ神社)の祭祀
氏族が難波吉士だと伝えられていること。また、やはり太陽祭祀に関わっていたと考が王に殉死
したことなどからうかがうことができます。
 
 実際のところ、顕宗天皇には日神祭祀に関する事柄が『日本書紀』にあります。
 これまでに何度か採り上げた、阿閉臣事代に月神から、
 「わが祖高皇産霊(タカミムスヒ)は天地を造りし功績を持つ。それゆえに吾を祀れ」
と、神託があり、次に日神が事代に神託をして、
 「磐余の田をわが祖高皇産霊に献上せよ」
と、告げた、という話は顕宗天皇の治世に起こったことなのです。
 
 この伝承を採り上げた時にもお話したことですが、阿閉臣と難波吉士はともに大彦命を祖にする
関係にあるのです。
 もっとも、難波吉士が大彦命の子孫とする『新撰姓氏録』は、実子ではなく大彦命が蝦夷討伐に
向かう途中に、兎田墨坂で拾った赤ん坊が難波吉士の祖である、と記しています。
 
 なお、『日本書紀』の「孝元紀」には、大彦命の子孫として、他に阿倍臣や狭狭城山君など計7氏族の
名を挙げています。
 顕宗天皇は、父の市辺之忍歯王の殺害に狭狭城山君の韓帒宿禰(ささきのやまのきみのから
ぶくろのすくね)が関わっていたことから、その一族から狭狭城山君の姓を剥奪して山部連の隷民に
身分を落としてしまいました。
 しかし、一族の倭帒(やまとふくろのすくね)は置目老媼の兄だったので、置目老媼の功に免じて
元の狭狭城山君の姓を与え直した、と『日本書紀』は伝えます。