小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

199 上毛野と物部氏

2014年05月23日 23時27分50秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生199 ―上毛野と物部氏―


 この点は武蔵国の物部氏とも通じるものがあります。
 武蔵の物部氏というのは、前に、紹介した、『続日本紀』神護景雲二年七月の記事に、

 「武蔵国入間郡の人正六位下勲五等物部直広成等六人に入間宿禰の姓を賜る」

と、ある入間宿禰広成の一族のことです。
 『続日本紀』のこの記事は、武蔵の入間宿禰がかつては物部氏を称していたことを
伝えます。

 『聖徳太子伝暦』の中には、聖徳太子の時代に物部連兄麻呂という人物が武蔵国造に
なったことが記されているので、広成の家系が物部連氏であろうことが推測されます
が、『古事記』によれば、武蔵国造はアメノホヒの子建比良鳥命(タケヒラトリノミ
コト)の子孫と記しています。
 また、『新撰姓氏録』には、入間宿禰について、

 「同神(註:天穂日命のこと)十七世の孫天日古曽及呂命の後なり」

と、しています。
つまり、ニギハヤヒの子ウマシマヂを始祖とする中央の物部氏とは別系ということに
なります。

 ところで、本家ともいうべき中央の物部連は587年の丁未の乱によって滅亡して
しまいます。
 と、言うことは、上毛野西部における物部氏が、中央の物部氏と結びついたことに
よって勢力を伸ばした7世紀には、その中央の物部氏の本宗は滅びていたわけです。
 そうすると、これらの氏族は、はじめ物部氏と結びつきはしましたが、実態は物部氏
を通じて大和政権そのものと結びついたものと見るべきでしょう。

 埼玉県行田市にある、通称稲荷山鉄剣が発見されたことで有名な埼玉稲荷山古墳の
築造が5世紀後半と考えられていることから、少なくともこの5世紀後半には大和王権
の勢力圏が関東に及んでいたとみなされます。
 (埼玉稲荷山鉄剣から発見された鉄剣に「獲加多支鹵大王」、「斯鬼宮」の文字があ
り、これをワカタケル大王、すなわち雄略天皇のことと、磯城宮のことだとする説があ
りますが、解読をめぐっては決着をみません)

 ただし、関東の氏族たちは大和王権の勢力圏に加えられながらも、6世紀に至っても
なお半独立性を保っていたとも考えられます。
 おそらく上毛野の東部の氏族たちも同様だったでしょう。
 それに対して、武蔵の紛争に介入する形で東国に進出してきた大和王権はその支配体制
をより強力なものにしようとしたと思われます。
 上毛野西部の氏族たちは大和政権に協力的な態度を取り、大和政権の支援を受けること
で勢力を伸ばしたものと考えられるのです。

 それでは、上毛野氏の場合はどうでしょうか。
 実は上毛野氏はより強く大和政権と結びついた氏族なのです。

 『古事記』によれば、10代崇神天皇は12人の御子がいたとありますが、そのひとり
豊木入日子命(トヨキイリヒコノミコト)について、

 「豊木入日子命は、上毛野、下毛野君等の始祖」

と、記しているのです。
 ですから上毛野氏は皇族出身の氏族である、と『古事記』は伝えているわけです。
 ところが、この上毛野氏は出雲系の神とも結びつく、という特徴をも持っています。

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