小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

104 しろうさぎと大物主と

2013年02月26日 00時20分24秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生104 ―しろうさぎと大物主と―


 稲羽のしろうさぎに製鉄の要素があることについてですが。

 ヒバスヒメが垂仁天皇との間に産んだ御子のひとりに印色入日子命(イニシ
キノイリヒコノミコト)という人物がいますが、『古事記』の「垂仁記」は次
のように記されています。

イニシキノイリヒコの命は、血沼池(ちぬのいけ)を造られ、また狭山池(さ
やまのいけ)を造られ、また日下の高津池(たかついけ)を造られました。
さらに鳥取(大阪府阪南市の鳥取。いわゆる和泉鳥取)の河上宮(かわかみの
みや)に坐しまして、太刀を千振作らせて磯上神宮に奉納され、河上部を定め
られました。

 一方、『日本書紀』の「垂仁紀」には、次のように記されています。

 三十九年の冬十月に、イニシキノミコト茅渟(ちぬ=現在の大阪府南部)の
菟砥川上宮(うとのかわかみのみや)にいまして、剣一千口を作る。よりて、
その剣を名付けて川上部(かわかみのとも)という。またの名は裸伴(あかは
だがとも)という。石上神宮に蔵む(おさむ)。この後に、(天皇は)イニシ
キノミコトに石上神宮の神宝を司るよう命じた。

 イニシキが作った剣が裸伴(あかはだがとも)というのは、稲羽のしろうさ
ぎが、最初全身の毛をむしられ赤裸のすがたであったことを彷彿させます。
 それに、『日本書紀』の一伝によると、イニシキの子孫には10の氏族がい
ることが記されていますが、その中に、楯部(たてぬしべ)、大穴磯部(おお
あなしべ)といった、製鉄に関わる神話に登場する氏族の名が見えることに加
え、太陽祭祀に関わっていたと考えられる日置部(ひおきべ)の名も見られる
のです。

 なによりも、『古事記』に書かれているように、イニシキがいた川上宮の
場所が和泉の鳥取とあるのです。
 鳥取といえば、稲羽(因幡)の現在の名である鳥取県と鳥取市が有名です
が、全国に鳥取の地名があり、それらは製鉄に関係した土地なのです。

 『日本書紀』では、ものいわぬ皇子ホムツワケ(『古事記』ではホムチワ
ケ)が空飛ぶクグイ(白鳥)を見て言葉を発したので、アメノユカワタナが
白鳥を追いかけて、そして捕らえた白鳥を献上したことによって鳥取造を賜っ
たとあります。

 『古事記』には、

空を飛ぶクグイを見て初めて何やら言葉らしきものを口にされましたので、
天皇は山辺のオオタカという者にこのクグイを捕えさせようとされました。
オオタカはクグイを追いかけて、木の国より針間の国、稲羽の国、旦波の
国、多遅麻の国、近淡海の国、三野の国、尾張の国、科野の国へと回り、
ついに高志の国の和那美の水門(わなみのみなと)に網を張ってその鳥を
捕えることに成功しました。

と、あります。
 ずいぶんと広い範囲を追いかけまわしたものですが、実のところ『古事
記』のオオタカの廻った土地は、いずれも製鉄に関係した土地だったので
す。つまりは、適当に地名を並べたわけではないのです。

 因幡は前にお話ししたように、製鉄の神を祀る楽楽福神社(ささふく神
社)がいくつもあります。
 そして、ホムチワケとイニシキはともに垂仁天皇の皇子です。
 このように、因幡と和泉鳥取には妙なくらいに共通するものが多くある
のです。


 次に大物主ですが。

 オオモノヌシの神婚譚については、『古事記』に2例、『日本書紀』に
1例記されています。
 『古事記』では、三島溝咋(ミシマノミゾクイ)の娘勢夜陀多良比売
セヤタタラヒメ)のもとに丹塗り矢に姿を変えてやって来て、後に神武
天皇の皇后となる伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)を生ませます。
 イスケヨリヒメは、はじめ、富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタラ
イススキヒメノミコト)という名前であった、と『古事記』は記します
が、そうすると、母娘ともに名前にタタラという言葉が入っていること
になります。
 タタラは、製鉄に用いられる踏鞴(たたら)のことだと思われます。

 と、言うのも、ミシマノミゾクイの本拠地は摂津の三島郡ですが、か
つての三島郡、現在の大阪府茨木市の五十鈴町に溝咋があります。
 そして、同じ茨木市の東奈良には、一大銅鐸工房の遺跡があるのです
(東奈良遺跡)。

 それから、『古事記』にはもうひとつオオモノヌシの神婚譚を載せて
います。
 オオモノヌシが陶津耳命(スエツミミノミコト)の娘活玉依毘売(イ
クタマヨリビメ)を娶り、間に生まれた櫛御方命(クシミカタノミコト)
の子孫が、オオモノヌシを祭祀することとなるオオタタネコだとありま
す。


・・・つづく

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