小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

630 物部氏と出雲 その18

2018年08月03日 02時03分57秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生630 ―物部氏と出雲 その18―


 造山古墳の造営が吉備の単独では不可能ならば、それは大和政権の主導、もしくは全面的な協力に
よって行われたとしか考えられないのです。
 そして、吉備を優遇したのはおそらく葛城氏であろうということは前にもお話ししました。
 その理由については、石津ヶ丘古墳と造山古墳の関連を挙げました。
 前出の高橋護はその著作「吉備と古代王権」(小林三郎編『古墳と地方王権』に収録)の中で、
造山古墳と大阪府堺市の石津ヶ丘古墳(伝・履中天皇稜)は、平面形も側面形もまったく同じで、
両者を重ねるとほぼピッタリと一致する、双子のような古墳であり、同じ設計図をもとに造られた
古墳としか思えないと、していますが、畿内には数多くの巨大古墳がある中で、造山古墳と
「同じ古墳」が石津ヶ丘古墳であることに意味があるように思えるのです。

 まず、石津ヶ丘古墳が葛城氏ともっとも血縁の強い履中天皇の陵墓とされていることです。
ただし、これも少し前に造山古墳と石津ヶ丘古墳の関連を紹介した時にお話したことなのですが、
古墳の被葬者については記紀にある天皇陵の記載を参考に指定されているだけで、調査の結果古墳の
造営時期と被葬者と伝えられている天皇が生きていた推定時期にズレが生じている場合も多々あり
ます。大事なことは『古事記』と『日本書紀』が石津ヶ丘古墳の被葬者を履中天皇だとしていること
なのです。
 石津ヶ丘古墳は現在の堺市西区にあります。古墳時代における堺市の海岸線は今よりずっと東で、
それこそ石津ヶ丘古墳の近くあたりであったといわれています。瀬戸内を通り紀伊半島に至る海上の
道において、難波津から南に下ったところで石津ヶ丘古墳を見ることができたわけです。
 葛城氏が台頭してきたのは応神朝から仁徳朝にかけての頃と推測されますが、この両天皇は難波に
拠点を置き、しかも瀬戸内の海人の伝承も絡んでくる、さらには多くの渡来人がやって来た、と
瀬戸内海の海上の道が重視された時代でもあるのです。
 ここから考えられる、吉備が大和政権から特別視されたその理由のひとつが挙げられます。
 玄関口となる宗像から難波に至る海上の道の中継点のひとつが吉備だったのです。このことは
『古事記』の神武東征の中にも、九州を発った神武天皇一行が、瀬戸内を海上ルートで進み、途中に
安芸の多祁理宮(たけりのみや)、吉備の高島宮に滞在した、と記されていることからもその可能性を
探ることができます。
 ただし、この考察の弱点は、他にもあったはずの瀬戸内の中継点の中で、なぜ吉備だけが特別扱い
されたのかという疑問には応えていないところです。

 そもそも吉備が特別視されていたというのは、何も造山古墳に限られたことではないのです。
 『古事記』には、第7代孝霊天皇の皇子、大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命の両名が吉備氏の
始祖と記されています。中央によって編纂された『古事記』が吉備氏を皇族の子孫だと記している
わけです。
 また、『古事記』には大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命がともに西国を平定した、とあり、
『日本書紀』には吉備津彦が四道将軍のひとりと記されており、大和政権の地方平定に貢献した
ことになっているのです。
 ところが、ここに注意が必要で、志田諄一が『古代氏族の性格と伝承』の中で指摘していること
でもあるのですが、『日本書紀』では四道将軍のひとりに加えられている吉備津彦が『古事記』では
四道将軍に加えられていません。
 その一方で、『古事記』では大吉備津日子(吉備津彦)を吉備上つ道臣の始祖と記しているのに
『日本書紀』にはそのような記述がありません。

 『日本書紀』にある四道将軍としての吉備津彦の功績については、西国を平定したこと、タケハニ
ヤス王の反乱の鎮圧、出雲振根(イズモフルネ)の討伐が挙げられますが、このうち西国平定は
『古事記』にも載せられているものの、タケハニヤス王の反乱には吉備津彦の名は見えず、出雲振根の
事件もまた『古事記』には見られず、代わりにヤマトタケルが出雲建(イズモタケル)を討った
説話が登場します。
 出雲振根の説話と出雲建の説話は元来同じものであった、と多くの研究者は捉えています。
 しかし、出雲の首長を討った人物が『古事記』ではヤマトタケル、『日本書紀』では武渟川別
(タケヌナカワワケ)と吉備津彦、と異なるのはどうしてなのでしょうか?ふたつの説話が同源で
あると言われながら、この疑問点についてはあまり論じられることがなかったような気がします。
 その理由については、ヤマトタケルと吉備氏の関係がひとつの原因となっているのかもしれません。
すなわち、ヤマトタケルの母が吉備氏の女性であるという関係です。だから、吉備氏の功績がヤマト
タケルにすり替えられてしまった、というものです。
 しかしながら、これはヤマトタケルが実在の人物であり、かつ母が吉備氏の女性であることが史実と
いう場合にのみ成り立つものです。それに、阿倍氏らの始祖である武渟川別がここに登場する理由とは
成り立たないのです。

 ところで『古事記』も『日本書紀』もともに中央側の手によって作られたものです。反対に出雲側
から見たものが『出雲国風土記』に残された出雲郡建部郷の伝承です。

 「先に宇夜(うや)の里となづけられた由来は、宇夜都弁命(ウヤツベノミコト)がここの山の峰に
天降ったからで、その神の社は今もなおここに鎮座する。それゆえに宇夜の里という。
 しかるに後に建部(たけるべ)と名を改めたのは、景行天皇が、
 『わが皇子ヤマトタケルの名を忘れまい』
と、おっしゃられ建部を設置されたからである。
 その時、神門臣古禰(かむど臣フルネ)を建部に定められた。すなわち、建部臣(たけるべのおみ)らは、
古来より現在に至るまでこの地にいる』

 出雲側の伝承でもヤマトタケルの功績となっているのです。こうなると、むしろヤマトタケルの
伝承を吉備氏の伝承にすり替えた、と解釈したくなってきます。
 ただし、『出雲国風土記』の記事は、ヤマトタケルが出雲フルネを討った、とは明記していないのです。
 そこであらためて出雲フルネの伝承を掘り下げてみる必要があります。

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