小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

400 高皇産霊神と大物主命

2015年06月15日 01時18分32秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生400 ―高皇産霊神と大物主命―
 
 
 この『日本書紀』の「一書」には、大物主と事代主らが神々を集めた場所を
天高市とあります。
 天高市とは大和国高市郡を神話化した地名だとする解釈が一般的ですが、
『延喜式』には高市郡の項に天高市神社を載せています。
 奈良県橿原市の天高市神社がこれに比定されており、祭神は事代主です。
 また、同じ橿原市の河俣神社(雲名梯神社)も式内社の高市御縣坐事代主
神社に比定されており、これらが埴使の神事において、畝傍山の土を取る
ことを事代主におことわりを入れることにつながったとみられます。
 畝傍山も橿原市にある山だからです。
 
 『日本書紀』の「一書」は、大物主が中心となっていて、事代主は名前だけの
登場といった扱いになっていますが、天高市に神々を集めたとあることから、
本来は事代主も大きく関わる伝承だった可能性もあります。
 
 そういったところで高皇産霊(タカミミムスヒ)に話を移したいと思います。
 さて高皇産霊神は飛鳥坐神社に事代主らと一緒に祀られているわけですが、
こちらは社名が表すように奈良県高市郡明日香村に鎮座します。
 橿原市は旧高市郡と旧十市郡に分かれますが、事代主を祭祀する河俣神社
(雲名梯神社)と天高市神社も旧高市郡に属します。
 高市郡の高皇産霊を祀る飛鳥坐神社に対し、十市郡には同じく高皇産霊を
祀る目原坐高御魂神社(めはらにいますたかみむすび神社)の社名が『延喜式』に
見つけることができます。
 目原坐高御魂神社の所在地は不明で、橿原市太田市町の天満神社、橿原市
木原町の耳成山口神社、橿原市山之坊町の山之坊山口神社がこれに比定されて
います。
 目原坐高御魂神社がどの神社なのか確定できない中どうしてこの神社が高皇
産霊神を祭祀していたと断定できるのかと言うと、社名にタカミムスビとあること、
それに『多神宮注進状』に、
 
 「外宮 目原神社 天神高御産巣日尊 皇妃栲幡千々媛命」
 
と、あるからです。
 祭神がタカミムスヒと栲幡千々媛命(タクハタチヂヒメノミコト)というのも、『延喜式』に
「目原坐高御魂神社 二座」とあることと一致します。
 タクハタチヂヒメとは、タカミムスヒの御子神で、天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)の
妻となってホノニニギを生んだ神です。
 
 『多神宮注進状』に目原坐高御魂神社が「外宮」とあるなら「内宮」はその多神社と
いうことになるでしょう。
 多神社もまた目原神社と同じ十市郡に鎮座します。
 
 その『多神宮注進状』には、多神社の祭神は珍子賢津日霊神尊(ウツノミコサカツヒコ)と
天祖賢津日女神尊(アマツヲヤサカツヒメ)であり、珍子賢津日霊神尊とは天忍穂耳命の
ことである、とあります。
 珍子賢津日霊神尊が天忍穂耳命なら「天祖」賢津日女神尊は天照大御神ということに
なります。(正確には天照大御神の原像と言うべきでしょうか)
 
 つまり、「内宮」の多神社ではホノニニギの父アメノオシホミミとその母天照大御神を祀り、
「外宮」の目原神社ではホノニニギの母タクハタチヂヒメとその父タカミムスヒを祀っている
わけです。
 
 ただし、多神社の天祖賢津日女神尊は天照大御神そのものと言うよりは、天照大御神の
原像、すなわち太陽神の妻であり巫女である神と見做すべきで、そうすると、この神の夫で、
また珍子賢津日霊神尊の父である神とは、大和岩雄(『神社と古代王権祭祀』)が指摘する
ように三輪山の大物主ということになります。
 多神社からのぞむ春分・秋分の朝日は三輪山のほぼ山頂から昇るからです。
 
 すると、ここで『日本書紀』の「一書」にある、タカミムスヒが大物主に「皇孫を護れ」と言う
場面とリンクすることになるわけです。

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