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小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

234 日置氏と出雲⑤櫛明玉神と櫛玉命

2014年09月08日 00時55分42秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生234 ―日置氏と出雲⑤ 櫛明玉神と櫛玉命―


 『日本書紀』の一書には櫛明玉神(クシアカルタマの神)なる神が登場します。

 国譲りの際に、高天の原に従わなかった大物主に対し、タカミムスヒが娘の
ミホツヒメをその妻にし、さらに大物主の祭祀を約束して帰順させる場面が描か
れていますが、ここでは次のように続きます。

 「すなわち、紀国の忌部の遠祖手置帆負神(タオキホオイの神)をもって笠縫者
(かさぬい)とす。彦狭知神を作楯者(たてぬい)とす。天目一箇神を作金者
(かなだくみ)とす。天日鷲神を作木綿者(ゆうつくり)とす。櫛明玉神(クシア
カルタマ神)を作玉者(たますり)とす」

 大物主に奉仕する神の一員として櫛明玉神が挙げられていますが、「櫛明玉神を
作玉者とす」というのは、丹波や出雲が製玉拠点だったことを思うと興味深いもの
があります。
 それに、天目一箇神もここにはその一員に含まれているのも注目です。

 なお、『古事記』には、天照大御神が天の石屋戸に隠れた時に、神々が相談して
天照大御神を天の石屋戸から出そうとする場面で、

 「玉祖命(タマノヤノミコト)に科せて、八尺の勾玉の五百津の御須麻流(みす
まる)の珠を作らしめて」

と、いう一文がありますが、この玉祖命も櫛明玉神は同神だとする説があります。

 最後に、櫛玉命ですが、これは伊勢津彦命の別名です。

「伊勢国風土記逸文」に、

 「出雲の神の子、出雲建子命(イズモタケコノミコト)、またの名を伊勢津彦命
(イセツヒコノミコト)、またの名を櫛玉命(クシタマノミコト)」

と、記されているのです。
 伊勢津彦は伊勢に坐す神でしたが、出雲の神の御子神だ、とここには記されてい
ます。

 『播磨国風土記』の揖保郡の項にも、

「伊勢野。衣縫の猪手(きぬぬいのいて)、漢人の刀良(とら)らの祖がここに住み
着き、社を山本に建て、神を祀った。
 山の峯に坐す神は、伊和の大神の御子、伊勢津比古命(イセツヒコノミコト)・伊勢
津比売命(イセツヒメノミコト)。神を祀ることによって平安を得た。この由来から
伊勢と名付けられた。
 伊勢川。この川の名も神の名から由来する」

と、あり、かならずしも伊勢の地方神ではなかったようです。
 『播磨国風土記』のこの記事では、伊勢津彦は伊和大神の御子神となっていますが、
伊和大神は大国主と同神とされていますので、「伊勢国風土記逸文」とも不一致はあり
ません。

「伊勢国風土記逸文」では、孫天日別命(アメノヒワケノミコト)が神武天皇から伊勢
平定の命令を受けて伊勢津彦を追放しますが、天日別命と、先に挙げた『日本書紀』の
一書に登場する天日鷲命は、ともに天村雲神の御子神で、阿波の忌部氏や伊勢国造の始祖
です。また、天日別命は伊勢の度会神主の始祖です。

 こうして見てみると、出雲の日置氏と大国主の祭祀についてだけでなく、伊勢と大きく
関わっているのです。
 丹波(丹後を含む)の氏族や伝承を見た時に、伊勢が大きく関係していたのと同じこと
が出雲でも見られるのです。

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