小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

628 物部氏と出雲 その16

2018年05月14日 01時42分37秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生628 ―物部氏と出雲 その16―


 正確には、軍事力による出雲制圧が史実として存在したのかは疑問である、という
ことです。
 『日本書紀』における出雲振根の討伐、『古事記』における出雲建の誅殺、それに
記紀神話における国譲りなどにより、古代の出雲は大和政権に征服された、と解釈
されることが多々あります。
 たしかに多くの研究者たちは、これらの伝承はすべてが事実ではないにせよある
程度は史実を反映している、と見ています。しかし、その解釈には大きく分けると
次の2つに分かれるのです。
 まず前者は、出雲国が大和政権による軍事侵攻の結果、その版図に組み込まれる
ようになったとし、後者は、出雲は連合のような関係から次第に中央政権と地方豪族の
関係に変化したのであり、記紀の記事はあくまでも神門郡あたりで起こった内紛を
大和政権が軍事力で収束させたものと見る意見です。
 たとえば、これまでに何度か紹介してきた水野祐は、『古代の出雲と大和』の中で、
 「大和政権の西進運動の一環として、吉備を服属させた後、吉備氏族と物部氏族の
手で出雲が統合された」
と、しています。

 軍事侵攻説の中でも異彩を放つ説を唱えたのが門脇禎二(『出雲の古代史』)です。
 こちらの説は、出雲を信仰したのは吉備勢力単独であった、とするのです。その後、
吉備は大和政権の軍事力の前に屈服し(『日本書紀』に記される雄略朝時代の一連の
事件を指します)、出雲での影響力を失った結果、替わって大和政権が出雲を支配した、
と説くのです。

 ところで、門脇禎二の『出雲の古代史』と水野祐の『古代の出雲と大和』がともに
雲南市三刀屋町にある松本1号墳について記述しているのが興味深いところです。
 この古墳は全長が50メートル、造られたのは4世紀後半と考えられており、出雲の
古墳の中でも初期にあたるものです。

 大和政権による出雲の支配、というトピックについて語る時によく登場するのが
出雲地方の古墳についてです。出雲では、東西で古墳の形状が異なるからです。
東出雲では方墳や前方後方墳が築かれ、西出雲では円墳や前方後円墳が築かれています。
円墳や前方後円墳は畿内や吉備では多く作られている形状なので、そのことをもって
して、西出雲は大和政権の支配下に収まったために円墳や前方後方墳が造られた。一方
大和政権に従った西出雲は独自の方墳文化をたもつことができたのだ、という理論です。
 もっとも、東西の対立(具体的には意宇の勢力と杵築の勢力の対立)や大和政権の
西出雲への軍事侵攻があったという前提でのものなのですが。
 それに、東の方墳、前方後方墳と西の円墳、前方後円墳と言っても、ある場所を境界と
して明確に分れているわけでもありません。実際のところ東出雲にも円墳や前方後円墳は
多く存在するのです。
 しかしながら、史料の少ない古代出雲のことですので古墳の分布も対象にしようと
する傾向があるのも仕方のないことなのかもしれません。

 では、その松本1号墳についてです。
 門脇禎二が松本1号墳に着目したのは、東出雲の古墳における葬方は礫床に遺体を
のせるのを伝統しているのに対して松本1号墳では大和と同じ粘土槨(ねんどかく=遺体を
安置した木棺を粘土で覆う葬法)を採っていること、その築き方が吉備の湯迫車塚古墳に
酷似していること、そして吉備への道が平野部から山道にさしかかる要点を見おろす
ところに築かれていることで、結論として門脇禎二は松本1号墳は出雲振根征討後もこの地に
とどまっていた吉備からの遠征軍の一将軍が葬られたものと考察しています。

 一方の水野祐は、出雲平野における前方後方墳の他の16基が安来市から松江市に
かけての東出雲に地域に限って分布しているのに対し、松本1号墳だけは西出雲の雲南市
とされることで矛盾が生まれるというわけなのです。
 ただし、この問題については自身が『古代の出雲と大和』の中で、かつて出雲大社の
宮司も務めた千家尊宣より教えられたこととして次のように記しているので抜粋します。

 「松本一号墳の存在する飯石郡三刀屋町(註:当時の地名。現在では雲南市三刀屋町)
という所は、大国主神出雲経国上の根拠地として常に御館が存在した由緒の深い地であると
伝えられ、その地に古来素戔嗚尊と大己貴命とを主祭神とする三屋神社(旧郷社)が鎮座
しているのである。そして出雲国造家も、三刀屋郷の総氏神である本社をことさら尊崇
されている由である。したがってこの地は、西出雲ではあっても、大原郡に接し、東出雲の
勢力が西進するに際し、先づ楔を打ちこんだのがこの地域であり、そこに国造家奉斎の神を
奉祀する神社を鎮座させたのであり、したがって東出雲の墓制である前方後円墳が、この
地に存したとして一向に差支えない理由を、千家先生の御教示によって明らかにし得たので
あった」

 また、前之園亮一(「出雲の古代豪族」『歴史読本昭和六十年七月号謎の古代出雲王朝』
所収)は5世紀半ばを最後に出雲郡では古墳が途絶えたことに触れ、その理由を、東部の
出雲臣などに滅ぼされたからではなく、斐伊川に沿って下って来た大和政権の勢力が5世紀
後半に出雲郡に到達し、ここを出雲国経営の根拠地としたために在地勢力が衰退したからで
あろう、としています。

 以上は古墳から古代出雲の歴史や情勢を読み取ろうとした説なのですが、ところが出雲
だけでなく吉備にも目を向けると、今度はまったくと言ってもよいほど違うものが見えて
くるのです。

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