小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

49 出雲大神の祟り

2012年11月14日 00時02分31秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生49 ―出雲大神の祟り―


 『出雲国風土記』の仁多郡の項にあるアジスキタカヒコの伝承は、ホムチワケ
伝承の原型なのかもしれません。

 
 その前にまず、『古事記』のホムチワケ伝承をもう1度見てみましょう。
 どうも、今までにお話したことと同じ内容のことが重複してしまいがちですが、
仕方がないと思って下さい。


 ホムチワケの皇子のために、垂仁天皇は、尾張の相津に生えていた二俣杉で
小舟を作り、それを尾張より大和まで運んで市師池や軽池に浮かべて遊ばせら
れました。
 ところが、この皇子は大人になっても言葉を話せるようにならなかったので
した。
 それがある時に、空を飛ぶ白鳥を見て初めて何やら言葉らしきものを口に
されましたので、天皇は山辺のオオタカという者にこの白鳥を捕えさせようと
されました。オオタカは白鳥を追いかけて、木の国より針間の国、稲羽の国、
旦波の国、多遅麻の国、近淡海の国、三野の国、尾張の国、科野の国へと回り、
ついに高志の国の和那美の水門(わなみのみなと)に網を張ってその鳥を捕え
ることに成功しました。それゆえに、この地を和那美というようになったの
です。
 この鳥を見たなら皇子も言葉が話せるようになるにちがいない、と考えたの
でしたが、その期待に背いて皇子が言葉を話し出すようなことはありませんで
した。
 これには天皇もひどく落胆されましたが、ご就寝の時に、天皇の夢の中に
神が現れ、

 「わが宮を天皇の宮と同じくらい立派なものに造りかえたならば、皇子の
口も必ずきけるようになるであろう」

と、お告げになったのでした。
 そこで天皇が布斗摩邇(ふとまに=占術のひとつ)を行い、夢に現れた神は
いずこの神か占われてみますと、出雲の大国主の神だったのです。
 そこで、ホムチワケを出雲の宮に参拝に行かせようと思い立たれた時に、
ではお伴は誰にしようかと、また占われたところ、アケタツの王(曙立王)と
出ました。
 アケタツの王は、この任を受けるにあたり、宇気比(うけい=神に問う占術
のひとつ)を行いました。

 「もし本当に大国主の神の仰せの通り皇子が話せるようになるのならば、
この鷺巣池の木にとまっている鷺は落ちろ」

 すると、その鷺は地面に落ちて死んでしましました。
 続いて、

 「鷺よ、生きかえろ」

と、言うと死んだ鷺は再び命を取り戻したのでした。

 また甘樫にある樫の木を宇気比によって枯らしたり、また生き返らせたり
してみせました。
 そこで天皇はアケタツの王にヤマトシキトヌトヨアサクラノアケタツの王
(倭者師木登美豊朝倉曙立王)の名を賜れました。

 そうして、アケタツの王とその弟君のウナカミの王をお供に、御子は出雲に
旅立ちました。その途中に宿泊された地に品遅部(ほむちべ)を設置されたの
でした。

 出雲に着かれると肥河(ひのかわ)の中に黒い仮の橋をかけられ、仮の宮を
造られて出雲の大神を祀られました。
 その時に、出雲国造の始祖キヒサツミ(岐比佐都美)が川下にて青葉で山の
飾りつけをして御子に大御食を奉ろうとしましたが、それを見た御子が

 「この川下にある青葉の山は本当の山ではないね。もしかしてアシハラシコオ
の神を祀る者の斎場なのか?」

と、質問をされましたので、アケタツの王たちは、御子が口をおききになられ
た、と大変喜び、皇子を檳榔の長穂宮に(あじまさのながほのみや)に坐せて、
駅使を天皇の元に走らせました。

 さて、皇子はヒナガヒメ(肥長比売)と一夜を共にされました。
 ところが後で外からこっそりと中をのぞいてみますと、肥長比売の正体は大蛇
でした。これに驚いた皇子はあわてて逃げだしてしまいましたが、肥長比売は
海原を照らしながら船で追いかけてまいります。そこで、皇子は船を捨て、山の
くぼみより陸路を大和へ逃げ帰られたのでした。

 一行は、大神を拝むことで皇子が言葉を話せるようになったことを、天皇に
報告しました。
 天皇は喜ばれ、ウナカミの王を再び出雲に派遣され神の宮を造らせました。
 また、皇子にちなんだ鳥取部、鳥甘部(とりかいべ)、品遅部(ほむちべ)、
大湯坐(おおゆえ)、若湯坐(わかゆえ)を定められたのでした。


 『出雲国風土記』の仁多郡の項にあるアジスキタカヒコの伝承はホムチワケの
原型なのかもしれません。次のようにあります。


・・・つづく

最新の画像もっと見る

コメントを投稿