小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

130 諏訪と龍田と風神と

2013年04月29日 00時55分07秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生130 ―諏訪と龍田と風神と―


 皇祖神である天照大御神とそれに仕える大物忌との関係、天照大御神
と大国主の関係、それに加えて、天皇の元で竈神とそれに仕える戸座の
関係。

 ここにも三所による天下安定の図式が描かれていたのです。

 一方、伊勢・出雲・石上の三神宮は、天照大御神・大国主・建御雷の、
国譲り神話に関わる神々を祀る、という関係性でした。
 伊勢神宮は天照大御神と大物忌(おおものいみ)との間に「天沢履」
の関係を作り、また大国主との間に「地天泰」の関係を作っていました。
また、天孫である天皇は、内裏において、竈神と戸座(へざ)との間に
「地山謙」の関係を作っていたのです。

 この2例の三所をつなぐものは、安曇氏に代表される海人系の氏族で
した。
 安曇氏はワタツミ系の神を斎く氏族でしたが、タケミナカタとも関係
を持っていました。

 しかしながら、『古事記』においては、タケミナカタが国譲りの場面
で重要な役割をはたしたり(『日本書紀』には登場しない)、不自然な
形で大国主の子とされていたり(『古事記』の国譲りの場面で大国主が
「わが子」と言っていながら、大国主の系譜の中にタケミナカタを含め
ていない)するのはどういう理由なのでしょうか。

 それは、タケミナカタが風神の性格を持つ神だったからだと考えられ
ます。
 『古事記』ではタケミナカタが風神であるとは何らふれられていませ
んが、古くから諏訪大社は風の神として信仰されてきたのです。
 『日本書紀』の持統天皇五年(691年)八月の記事には、

 「使者を遣わして、龍田風神、信濃の須波(すわ)、水内等の神を祭ら
しむ」

とありますが、龍田風神が奈良県生駒郡三郷町の龍田大社と考えて間違い
ないとして、須波は『延喜式』に見える諏訪郡の南方刀美神社、水内は健
御名方富命神別神社に比定されています。

 龍田大社が風神を祀ることは、『日本書紀』の天武天皇四年(675年)
四月の記事に、

 「小紫美濃王、小錦下佐伯連広足を遣わして風神を竜田の立野に祠らし
む」

と、あることからも明白ですが、この記事は同時に、天武四年に龍田大社
が創建されたことを物語っています。
 古い時代から民間で信仰されていたものではなく、新しく祀られたもの
だったわけです。

 では、なぜ新しく風神を祀ることになったのか、これについては、当の
龍田大社の龍田風神祭の祝詞にある通りと見てよいでしょう。
 この祝詞の中で、作物の実らぬ年が続いたこと、そのことで皇御孫の命
(天皇)の夢の中に神が現れて、
 「天の下の民の作る物を、悪しき風、荒き水に相わせつつ、成したまわ
ず損なえるのは吾。吾の御名は、天御柱命(アメノミハシラノミコト)、
国御柱命(クニノミハシラノミコト)。
 吾が前に奉る御幣は、御服は明妙・照妙・和妙・荒妙、五色の物、楯・
戈・御馬に御鞍を具えて、品々の御幣備えて、吾が宮は朝日の日向う処、
夕日の日翳る処の、龍田の立野の小野に、吾が宮は定めまつりて、吾が前
を称辞まつらば、天の下の民の作る物は実らせよう」
と、告げた、とあります。
 農作物の不作が続いた後に、天皇の夢の中に龍田大社の祭神が現れて、
不作の原因は吾の祟りであり吾を祀ってくれたならば祟りは収まる、と
告げたため、ということです。

 しかし、風神を祀る地として竜田の立野が選ばれたのはどういう理由か
らなのでしょうか。

 天武天皇は『日本書紀』に、「天文・遁甲に能し」と記され、易につい
ても詳しい人物であったとされています。

 それならば易で読み解けば、なぜ竜田なのかの理由も見えてきます。
天武天皇の飛鳥浄御原の宮が置かれた飛鳥の地からみて竜田立野は西北の
地に位置します。つまり戌亥の方角です。反対に龍田の立野から見て飛鳥
は辰巳の方角になります。
 わかりやくイメージするには時計を思い浮かべていただければよいかと
思います。
 戌亥の方角とは時計の10と11の文字盤にあたる方角です。
 一方の辰巳の方角とは4と5の文字盤にあたる方角になるので、戌亥と
辰巳はちょうど対面の位置になるわけです。
 戌亥の方角は、先天易では「艮」ですが、後天易では「乾」となり、陰
陽五行では「金」です。
辰巳の方角は、先天易では「沢」ですが、後天易では「巽」となり、陰陽
五行では「木」になります。
そもそも風神は中国の風伯(風を司る神)を取り入れたものとされていま
すが、古代中国では風伯を丙戌(ひのえいぬ)の日に西北に祀ったといい
ます。陰陽五行では干支の丙戌は「火」になります。
 すると、それぞれ「金」、「木」、「火」になるわけですが、易の相剋
(ある元素が別の元素を打ち消していく様)は、「火剋金」、「金剋木」で
、金・木・火からなる相剋の理は、「火は金に勝ち、木となす相」になりま
す。

 飛鳥(金)から見て西北の竜田の立野(木)に風神が祀られたのも、「金
剋木」で、風神を鎮めるためだったと考えられるのです。


・・・つづく

最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (たぬき)
2013-07-24 23:11:41
確か、龍田大社の立地は確かに古来、山から奈良盆地に吹き下ろす風の通路に当たる要衝だそうです。
建御名方神と異母兄弟にあたる阿知須気高日子根命(高賀茂大御神/鴨建角身命)が葛城~四国土佐へ流され土佐神社(土佐一宮)に奉祭られていますが、
地元土佐ではこの一宮の土佐神社様を親しみを込めてシナネ様と呼び習わしています。
社殿等は十文字を形成するトンボ造り。
十は最高神を表す暗喩かと。
建御名方神ですが、名神大社二十二社の西宮廣田神社では記紀神話からすると妙な配置。瑞玉垣内に主祭神の瀬織津媛大神(天照大神荒魂)のご本殿の左手脇殿に最大の仇敵のはずの高皇産靈神様と一つ屋根の下に語同衾の仕儀。
返信する

コメントを投稿