小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

197 上毛野の氏族たちの勢力図

2014年05月09日 23時53分06秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生197 ―上毛野の氏族たちの勢力図―


 上毛野の、東部の太田市の古墳は、上記のとおり、4世紀頃から古墳が造られる
ようになり、特に5世紀には、全長210メートルの天神山古墳をはじめ100
メートル超の巨大古墳を次々と築造していきましたが、6世紀以降はこれらみたい
な巨大古墳は造られなくなってしまいます。
 つまり、この地域の氏族は、4世紀頃にはすでに古墳を築く勢力を持ち、5世紀
に最盛期を迎えつつも6世紀にはもうその力は失われてしまったということです。

 次に、中部の勢力ですが、前橋市や高崎市東部に古墳を築いた勢力と伊勢崎市に
古墳を築いた勢力は別の勢力でしょう。
 伊勢崎町のお富士山古墳や丸塚山古墳は、前橋市、高崎市の古墳とは市的に離れ
ていることから、独自の勢力圏を持った別の氏族だったと考えてよいでしょう。
 それに、伊勢崎市の古墳群、いわゆる伊勢崎古墳群は5世紀にお富士山古墳や
丸塚山古墳の巨大古墳を造ってはいますが、4世紀は古墳を造っておらず、また
6世紀以降に造られた古墳も規模が小さくなっていることからも別の氏族だろうと
思わせます。

 これに対し、前橋市と高崎市東部では、4世紀にはすでに100メートル前後の
巨大古墳を築造しており、7世紀に至るまで巨大古墳を造り続けています。
 ただし、前橋市だけを見てみると、朝倉古墳群では4世紀にはすでに全長129
メートルの天神山古墳が造られ5~6世紀にかけても100メートル級の巨大古墳
が造られていましたが、7世紀に入ると全長50メートルの不二山古墳といったよ
うに古墳の規模が小さくなってしまいます。
 総社古墳群では、5世紀に全長80メートルの遠見山古墳が造られ、6世紀前半
には全長90メートルの王山古墳が、6世紀末頃には同じく全長90メートルの
総社二子山古墳が造られましたが、7世紀になると、50メートル級の古墳しか
造られなくなります。
 大室古墳群(西大室町)では、6世紀に巨大古墳が造られましたが、6世紀末に
全長85メートルの後二子山古墳が造られたのを最後に、7世紀以降には古墳は造
られていません。
 つまり、巨大古墳を造り始めた時期は早いものの、7世紀に入るともはやその力
は失われてしまっているのです。

 これに対し、高崎市東部では、元島名町で4世紀末頃に全長96メートルの元島名
将軍塚古墳が造られたものの、5世紀の間はそれに続く巨大古墳は造られていません
(ただし、元島名将軍塚古墳の築造は5世紀初頭とする説もあり)。
ところが、6世紀になると綿貫町で全長94メートルの不動山古墳が造られ、7世紀
には全長100メートルの観音山古墳が造られています。
 高崎市東部の氏族は5世紀に勢力が一度衰えているわけですが、これは周辺の勢力
に押されてしまったためだと思われます。
 ところが、6世紀には再び力を盛り返し、前橋市の氏族が勢力を失った7世紀に入っ
てもその勢力を維持し続けた、と見られます。

 残る群馬県西部では、4、5世紀にはこれといった規模の古墳を造り出していない
ものの、6世紀になると巨大古墳を築造しはじめ、7世紀に入っても100メートル級
の巨大古墳を造っています。

 以上のことを整理すれば、東部は中部の氏族は、高崎市の綿貫古墳群を除いてすべて
7世紀にはかつての力を失ってしまったようです。
 その例外の綿貫古墳群を築いた氏族は、前橋市や伊勢崎市の勢力に抑えられていた
時期があり、これらの勢力が陰りを見せ始めたころに、逆に勢力を盛り返したとみられ
ます。
 そして、東部中部の氏族の失速は、綿貫古墳群の氏族だけでなく西部の氏族たちにも
勢力を伸ばす結果となったようです。

 そして、これらの勢力図の変化を眺めてみた時に、大和王権との関わりが見えてくる
のです。