趣味の日記

観劇・歴史・小説・漫画などなど、思いつくままの語り日記

明日から旅行

2008-11-23 23:54:40 | Weblog
雨ですが(爆)、岡山旅行へ行ってきます。せめて土砂降りでなきゃいいんだけど。
雨なら雨で、明日は倉敷だから、美術館やお店やら覗きつつ、喫茶店で雨宿り、なんてのもできるだろうと一応は思ってます。翌日の岡山市内のほうが、岡山城や後楽園を歩くので、雨だと困る。

今日の大河ドラマ「篤姫」を観てたら、ミュージカル俳優の鈴木綜馬さんが榎本武揚の役で出ていて、ちょっとびっくり(笑)。舞台の「エリザベート」の合間に、そんなチョイ役のお仕事もしておられたのね。フランツが榎本か~と思うと、何か可笑しかったです(笑)。
今年は山口祐一郎さんがレギュラーでご出演だったから、そっちのご縁なのかなぁ?

「篤姫」がいよいよクライマックスに突入し、官軍・賊軍だの、錦の御旗だのという言葉が出てきてますが、この概念ができたのって、実は南北朝時代からなんじゃないのかと思ってます。
だって、鎌倉時代までは、天皇の権威を認めつつも、いざ天皇や上皇が幕府に逆らった時、あっさりと武力で島流しにしたりしてますもんね。後鳥羽上皇然り、後醍醐天皇然り。「天皇御謀反」なんて言葉があるくらいですし(天皇に謀反するならともかく、天皇が謀反するって、普通に考えたらヘンな表現だと思いません?)。
それが、後醍醐天皇が島流しから自力で脱出し、鎌倉幕府を倒して建武政権を樹立した時、天皇の正当性ということを猛烈にアピールした。
公家政権に反発して結局は離反した足利尊氏が、後醍醐天皇の主張する正当性には抗いきれなかったからこそ、北朝政権誕生につながるわけで、つまりは尊氏が‘錦の御旗’に力を与えた張本人ってことになります。
まぁ尊氏自身は、天皇の正当性というよりは、後醍醐天皇本人に頭が上がらなかっただけじゃないかとは思うんですけど(苦笑)。後醍醐天皇はそういう意味での権威というか、強烈な迫力(?)とか魅力を、確かに持った天皇だったんでしょうね。
ただ、後醍醐天皇から賊軍というレッテルを貼られたことが尊氏にとってはショックで、なんとかその賊軍・朝敵という汚名から逃れようと、もともと後醍醐天皇の一派である大覚寺統と対立していた、持明院統の光厳上皇から、戦いの正当性を認めてもらう院宣を受けたことが、この‘天皇の正当性’=‘官軍’という概念を世間一般に植えつけてしまった、というのは確かだと思います。
おかげで、北朝を担ぐ足利幕府に逆らった武将は、ことごとく南朝の天皇に恭順して、そっちから戦の正当性を認めてもらうことになるわけです。実際、そうやって行ったり来たりしてる武将は数知れず(苦笑)。
足利幕府自体、武力だけで言えば圧倒的な優位だったんだから、とっとと南朝の帝を捕まえて島流しにでもしてしまえば収まっただろうに、それができなかったというところにも、結局は南朝の‘正当性’という概念に阻まれたところがあったんでしょうね。
南北朝が合体してとりあえず収束はしたものの、結果として‘天皇の正当性’を象徴する‘錦の御旗’なるものを作ってしまったのは、やはりこの時代じゃないかと思うわけです。

もちろん、鎌倉よりずっと以前から天皇家は存在してますし、それこそ古代飛鳥時代からすでに天皇家の権威というものはあったわけですけど、だからといって例えば奈良時代の東北エミシの反乱や、平安時代の平将門の乱なんてのもあるわりに、‘官軍’という言葉にはそれほどの力はなかったし、むしろ‘朝敵を討つ’という言葉自体はただの戦の口実で、朝廷自体が軍事力を持っていたからこその権威だったんじゃないかと。
軍事力を持たずに、ただ‘天皇である’という概念が力となりうる時代を作ったのが、南北朝であり、足利尊氏だったんだと考えれば、たとえマイナーでも、すごく意味のある面白い時代だと、やっぱり思うんですけどねぇ(笑)。
話を最初に戻すと、大河の「篤姫」で、主人公の篤姫が「太平記」を愛読書にしてたというのも、実は含みを持たせてるのかと、思ったりもしています(爆)。




コメント
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