男は十に余る砥石を残していった
研ぎ師といった特別の技術者ではないが
ハガネを研ぐ話になると身を乗り出す
刃物を見定めるように話を聴く男だった
海に近い城下町の荒物屋に奉公し
店主の娘と所帯を持って30年
訪れる客の持ち込む包丁や鎌を研ぎ直し
刃の減り具合から蘊蓄を傾けるのが常だった
戦国時代に先祖が研ぎ技を認められ
四辻そばの匠町に長屋の一つを与えられた
武具や大工道具の手入れを家業にしたが
それら家系自慢はすべて女房の膨らむ鼻
荒物屋生活は急がず焦らずの風待ち船
ホームセンターの時代になると生きずらい
男が入り婿したころから商いが細り
包丁や鉈・鎌などの研ぎ注文は数えるほど
路線価頼りに荒物屋を引きずってきたが
十年一日の亭主に古女房が嫌味を並べ立てた
そうかそれなら旅に出て世間を見てくる
男は砥石二丁を懐に家を出た
狙いは一流料理人目当ての研ぎ奉仕
互いに腕一本の職人気質が響き合う
ウマが合うのか各地の板前に紹介され
板前部屋に転がり込んでの一宿一飯
1年たっても帰ってこない亭主に
女房が何を修行してるのと嫌味の追加
うん俺はいま料理人になったところで
女房の捌き方を習っているところだ
さすがの女房もアハハと笑い
一生荒物屋の女房でいいから帰っておいで
お前さんは代わりの居ないキワモノの目利き
ネタは誰かが持ってくるから捌いておくれ
おいお前 俺はほんとに料理人になったんだ
千波の親父が砥石付きで雇うというんだ
だから当分お前のところへは帰らない
女房を捌く前に客を捌きたいと返信が
ウソかマコトか研ぎバカ男
人がいいのかマヌケなのか家付き女
男が残した十に余る砥石の上に
売れ残りのざしき帚が吊るされる
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