どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

思い出の短編小説『失踪』

2022-12-15 01:10:45 | 短編小説

バタンと音がした。
 愛犬のトイプードルを追いかけていた庄三の胸が、びくっと反応した。
 前方の木々の間に、さびれた別荘が見える。
 音は、その建物の蔭から聴こえてきた。
 庄三は、太った体を揺すって雑木林の小道を走った。
 急いで走っているつもりだが、よたよたした小走り程度のスピードだったかもしれない。
「リリー!」
 声がかすれていた。
 ほとんど悲鳴に近かった。
 自分の声が、いやな予感を連れてきた。
 (もしや、リリーが・・・・)
 あの音は、自動車のドアを閉める音のようだ。
 ひょっとしたら、リリーは事故に遭ったのではないか。
 あるいは・・・・。
 悪い連想が、つぎつぎと去来した。
 そもそも散歩の途中で、リリーのリードを外したことが悔やまれた。
 散歩中、リリーに束の間の自由を与えてやりたくて、足元に放してやったのだ。
 いままでも、そうやって放したことがあり、道端の草や土の匂いを嗅ぐ愛犬を目を細めて見守った記憶が鮮明だ。
 ちょろちょろと行きかけても、名前を呼ぶとすぐに庄三のもとへ駆けもどってきた。
 だから、油断したといえる。
 ところが予想に反して、この日のリリーは落ち着きなく先を急いだ。
「だめだよ・・・・」
 注意すると一瞬振り向いたが、興味のあるものを発見したのか、草むらに鼻を突っ込んでそのまま先へ先へと離れていく。
「リリー、待ちなさい!」
 犬は強く叱られたと思ったのか、あわてて走り出した。
 庄三のドタドタした足音を尻目に、T字路の角を左にまがって消えた。
 その途端のバタンである。
 寸前に自動車の通過を目撃していないので、ドアの開閉音かどうか確信は持てなかった。
 (それでも、あの空気を震わせる音はクルマのドアを閉める音だ・・・・)
 ひと気のない別荘の向こう側で、何かが起こっている予感がした。
 リリーの行き先に、落とし穴が待ち構えているのではないか。
 それは、庄三をも飲み込もうととしている。
 湧きおこった不安が、心拍数のあがった胸を締めつけた。


 庄三は、東京の家を息子夫婦にゆずって、三年前からこの別荘地に引き移ってきた。
 霞ヶ関の役所を退いた後、水資源にかかわる外郭団体に天下りし、予定通り二年勤めてリタイアしたのだった。
 上を見ればきりがないが、まずまずの退職金を手にしていたし、長年勤めたこともあり割の良い年金を受給していた。
 仕事の関係で山奥のダムなどを視察しているうちに、山紫水明の地に開かれたリゾートエリアに惹かれ、念願のシルバー人生をそこで送りたいと願った。
「お父さん、わたし寒いのは嫌いよ」
 当初、妻の聡子は都会を離れることに難色を示したが、設計段階から寒さ対策を採り入れたログハウスを完成させ、なんとか納得してもらった。
 実際に冬期の気温は零下10度ぐらいまで下がったものの、新築の建物には暖炉もあったし、二重窓に二重カーテンと万全を期していた。
 いわゆる夏別荘とは違った造りにしたのである。
 それでも、初夏から秋にかけては高原特有の甘い空気が通り抜けていく。
 春は庭で見かけるフキノトウ、林の中のコシアブラなど山菜摘みに気を紛らすこともある。
 秋になると道端の栗を拾い、たまにはキノコ採りに興じることもあった。
 とはいえ、もともと出不精の聡子は、普段はリリー相手の生活が中心になっている。
 大型テレビを据え付け、リリーを膝の上に載せてぼんやりと時を過ごすのが好きなのだ。
 飽きれば、わざわざペット同伴OKの温泉旅館を予約して、犬のマッサージまで受けさせる。
 そのくせリリーの散歩は庄三任せで、朝の日課の一つとなっていた。
 そうした中でのリリーの失踪である。
 見つからなかったらどうしようと、庄三が焦るのも無理はない。
「リリー、リリー」
 庄三は妻に対する責任感で、胸が押し潰されそうになっていた。
 なぜリードを外したのか、妻に問い詰められるのはまだいい。
 万が一のとき、聡子がどれほど落胆するかそれがこわかった。
 (いや、リリーはきっとそこにいる)
 T字路まであと三メートルというところで、急発進するタイヤの音を聴いた。


 あたりを探索する庄三の目に、絶望の色が浮かんでいた。
 ややカーブした道は、先の方で林の中に消えていた。
 その道に残像はないか。
 たったいま走り去った自動車の色でも形でもよい、そこに残留しているものはないのか。
 それが無理であれば、せめて排気されたガソリンの臭いでも残っていないか。
 クルマに連れ込まれたかもしれないリリーの悲鳴が、轍の跡に滲んでいないか。
 庄三は目を凝らし、息をつめてそれらを感じ取ろうとしていた。
 (絶対に何者かがリリーを連れ去った・・・・)
 ほとんど確信に近かった。
 しかし、排気ガスの臭いすらなく、飼い主に訴えるリリーの思念も残っていない。
 その絶望的な空しさは、いったい何によってもたらされるのか。
 自分の迂闊さに、リリーの無邪気な薄情さが加味されたものだろうか。
 あるいは忽然と消えた犬の運命に、寄る辺なさを感じるのだろうか。
 犬に限らず、人にもそうした場面がある。
 日常に生じる意表のズレで、運命は急に変転するのだ。
 時間の流れが突然断ち切られ、戸惑いのなかで強引につけ替えられる。
 そのときの暗澹とした思いは、細胞をさざ波のように震わせる。
 説明のつかない恐怖に襲われて、人はただ立ちすくむ。
 絶望とはそのようなものだ。
 庄三は、しばらくその道に立ちつくしていた。
「どうかしましたか」
 振り向くと、庄三の別荘とは反対側のより平坦地に居を構える六十代の婦人が立っていた。
 会えばあいさつを交わす程度の知り合いだった。
「リリーが誘拐されました・・・・」
「あら」
 老婦人は、尋常でない庄三の言動に驚きを隠さなかった。
「いつのことですか」
「たったいま・・・・」
「ここでですか」
 はいと答えて、リリーが姿を消した経緯を一気にまくし立てた。
「そう、でもまさかねえ」
 老婦人は、なぜか腑に落ちない表情をした。
「なにか、ご存じのことでも?」
 庄三は必死だった。
「いえね、隣の荒木さん今朝お帰りになったから、もしかしてと思って・・・・」
「クルマで来てたんですか」
「ええ、でも、こちらに自動車が停まっていたとしても、お孫さんにおしっこでもさせていたんじゃないですか」
 ご近所とあって、リリーの失踪と関係づけた想像は避けたようだ。
「そうですか・・・・」
 雲ひとつない青空に、引っかき傷を見つけたような悲しさがあった。
 (アラキさん・・・・)
 老婦人の一言で、犯人に迫るひと筋の手がかりはできた。
 だが、これから手をつけなければならない厖大な作業が、早くも庄三をたじろがせていた。

 
 とりあえず別荘の管理会社に電話して、荒木某の住所を調べようとした。
 本来の住まいがどこにあるのか、訊けば簡単に教えてくれると考えていたのだ。
 しかしプライバシーに係わる問題だからと、逆に庄三の身分を問われた。
 言い淀んでいると、調査の理由を執拗に訊かれ、彼はとうとう立ち往生してしまった。
「近ごろ、さまざまな業者が詐欺まがいの勧誘をしていましてねえ」
 夏の間貸別荘にすれば儲かるとか、プロパンガスの保守点検を安価に請け負うとか、簡易水洗トイレに替えろとか、直接オーナーを勧誘するのだとか。
「うちに許可なく契約を持ちかけられちゃあ、トラブルになっても責任持てませんからねえ」
 暗に、そうした業者の一つだろうと疑っている口ぶりだった。
 庄三は、今回の事情を話して協力を依頼しようかと考えたが、事態はさらに悪化するだけだろうと想像できた。
 アラキさんに愛犬を誘拐されたなどと、訴えでられる状況にないことは明白だった。
 老婦人から聞いた話で確かなことは、今朝荒木さんが自動車で別荘を引き上げたということだけなのだ。
 リリーが失踪したと思われる場所に停車していたかどうか、仔犬を車内に連れ込んだかどうか、誰ひとり目撃した者は無いのだ。
 状況証拠一つないのに、他人を疑うことはできない。
 もしかしたら別の住人に連れて行かれたのではないか、リリー自身がどこかへ紛れこんでしまったのか、庄三の心はさらに森の中をさまよいつづけた。
「失敗だったわ。やはりあなたとの結婚、失敗だった」
 三日間が過ぎて、いよいよリリーが還ってこないと決まったとき、聡子は冷たく言い放った。
 泣いたり怒ったりするのではなく、長い沈黙を維持した末の言葉だった。
「わたし、もう一日もあなたと一緒に居られませんから、息子のところへ帰ります。あなたにはこの家が一番の宝物なんだから、一生ここにいなさい」
 週の半ばに聡子はタクシーを呼び、ひとり新幹線で東京へ帰って行った。
 四十年も連れ添った亭主をそう簡単に置いていくのかと、庄三はいつまでも不満の気持ちを引きずった。
 浮気もせず、安定した生活を与え、人に羨ましがられる人生を送ってきたではないか。
 たかがペットのことで、こうまでひどい仕打ちをするのかと意地になっていた。
 それに一週間もすれば、怒りも溶けて何か言ってよこすだろうと期待する心もあった。
 妻が東京に戻って五日目、案の定長男から電話がかかってきた。
「父さん、母さんは本気だよ。リリーがいなくなったら自分もいなくなるって恐い顔してる。このままだと血圧が上がってぶっ倒れんじゃないかな」
 庄三を非難はしなかったが、自分のみならず嫁の大変さも言外に伝えようとしていた。
 長男からの電話で、庄三はあらためてリリーに自らの命を重ねる聡子の心を知った。
 (なんとか手立てを尽くさなければ・・・・)
 迷いながら一晩過ごした庄三に、長男から再び電話がかかってきた。
 金曜日の正午過ぎだから、勤務中の電話のようだった。
「父さん、母さんが探偵を雇ったからね。見つけ出して必ず取り戻すって・・・・」
 短い伝言が、庄三を深い淵に突き落とした。

 探偵を雇ってでも見つけ出すという意思表示は、もう亭主には頼らないと宣言したのと変わりなかった。妻の怒りが一時的なものではなく、修復不能だと最後通牒を突き付けた形だった。

(この先どうなるのだろう)

 さびれた別荘の向こう側にひそんでいたのは、その予感だったのか。
 他人に配慮をすることでここまで平穏に収まってきた彼の一生が、キリキリ舞いして淵に吸い込まれていった。

 

    (おわり)

 

(2012/05/20より一部加筆して再掲) 

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2 コメント

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詳細な描写 (ウォーク更家)
2022-12-15 13:10:30
いつもながら、詳細な描写の積み上げに、ぐいぐいと引き込まれました。

しかも、詳細に走りすぎず、巧みに時空を戻り、メリハリを付けてしっかりした全体構成になっているのはさすがプロと感心します。

離婚は、たぶんこれまでに長い伏線があって、このエピソードはきっかけに過ぎなかったのでしょうね。
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愛犬の失踪から・・・ (tadaox)
2022-12-15 15:13:06
(ウォーク更家)様、ありがとうございます。
愛犬の失踪は最後の一押しで、長年の鬱屈した気持ちがあったのでしょうね。
世の熟年離婚というものは案外たわいないきっかけで傾くのかもしれません。
法律改正で、妻側の財産分与の割合が増えたことで熟年離婚が一時ブームになったりとか。
この小説ではもともと都会を離れたくなかった妻が、夫のゆめに付き合って寒い場所に住んでみたものの友だちはいない、サークルからもはなれ限界に来ていたんでしょうね。
半生を夫に捧げたと思っている妻の長年の不満が爆発するか否かは何がきっかけになるか予測しづらいですが、ここでは「愛するペット」と想定しました。
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